26.最後の審判-貪欲
壁掛けテレビから流れるニュース番組を見た。一頭の馬が逃げたようだ。
「汗かいてるよ、どうしたの、怖いの」
自分の投げかけた問いを疑問に思う。緊張してしまう起因を恐怖と決めつけるのは浅はかであった。由比が綿貫に対して抱いているであろう思惑は、敬愛から生じたに違いない。まるで浮気心でもあるのか。日頃、父親と会話のない由比が着飾るときは、決まって綿貫と会う日であった。大輝からしても簡単明瞭である。綿貫に良き母親としてやっていることを見せたい。それならば子供にとってどれだけ良かったか。由比と綿貫の間で取り交わされたルールがあるようで、まだ未成年の大輝を一人で通院はさせられないそうだ。余計に太輝は、大人の二人の関係性を勘繰る。
「怖いって、何よそれ」
パタンと手鏡が閉じる金属音に、大輝の心臓はすくみ上がる。
「いや、変なこと言った、忘れて」
横目にも分かる目力で由比は大輝を睨んでくる。気まずい空気が漂い始めそうだと身をすくめていたら、後藤が近づいてきた。
「沢村さん、どうぞ、お部屋にお入りください」
大輝の診察が始まる前に、先ずは由比だけが診察室に向かう。大輝の近況を親から見た印象で報告して、そのあと大輝と綿貫だけの面会となる。そして、再び由比が呼び出されて、これからの治療方針を固めていく。
「待っていなさい」
後藤に連れ立って由比は、待合室に面した廊下の突き当たりに通される。
今日は待合室に自分以外、先客が誰もいない。「先生のお気に入り」には皆がこぞって握手を求めてくる。それが今日はなくて嬉しかった。
大輝はぐったりと肩の力を抜く。きまって触れてくる相手が名乗るので、その夜は彼らの夢を見てしまう。
「眠い」
受付が無人となる瞬間であった。なんと不用心なのか。毎回この時間を、携帯電話のタイマーで計測していた。この日もそうしようと考えていたが、和絃たちから連絡を絶つため、電源を切っていたことを思い出す。それも後の祭りだ、ぼんやりと電源を入れた携帯電話から、大量の不在着信音が鳴り響く。慌てて音を消すが、画面に手が滑り、間違って通話を始めてしまう。
「うわっ」
『ダイちゃんっ、なにしてるんだよっ』
和絃が叫ぶ。急いで心を殺して、通話を終えようとした。
『十一階にいるんでしょう』
和絃の発した言葉に思考が停止する。
「えっ、四階だよ、いつもの病院だよ」
『いないでしょっ、病院、いま閉まってるじゃないか! 俺に嘘をつくなよ』
冗談だと言って欲しい。和絃がすぐそこまで来ているというのか。あの後、新幹線に乗って大輝を追いかけてきたというのか。信じられない。
「っえ、和絃、何言って」
うわずった声でどうにか継ぐも、それ以上言葉が出てこない。その時、通話先から睦美の声も聞こえてくる。足下から血の気が引いてくる。ニュース番組のアナウンサーが大げさに説明する声音も、大輝の耳をかすめるだけであった。
「うるさいわよ、どうしたの大輝、先生が呼んでいるわ」
いつの間にか由比が戻ってきた。今の通話を聞いていないようで、別段動揺している様子はない。
「ご、ごめん。動画を見てた」
嘘も方便だ。
「そうなの、本当かしら、あなた顔色が悪いわよ」
目の前に鏡がなくても、自分がどんな顔をしているのかは想像がついた。
「だ、大丈夫、怖い動画だったから」
感情がぶった切りにされた大輝は呆けた思考を戻すべく、後藤に促されるより早く、診療室に駆け込もうとした。『実は和絃は綿貫の息子で、もう一人の息子の睦美も今すぐそこまで来ています、先生を悪く言う人です危険です』そんな説明を由比と後藤に話しても、綿貫との面会が取り消されるに決まっている。部外者が第二病室のありかを探っている。それだけで充分に信頼を失い、団体の存続を脅かす状況であった。
和絃たちは、大輝が『白庭』の信者であるとことを知っていたのだ。綿貫にとって、太輝が重要な人物である事実を、彼らは熟知していた。
和絃と睦美は、自分たちの父である綿貫を憎んでいた。その感情こそ、崩壊への一歩である。大輝は何を推しても、団体の存続を維持したかった。たとえ自分が傀儡となり、犠牲になろうとしてもだ。断じて『白庭』を守りたかった。それで和絃たちが悲しんでも、大輝の両親にとって『白庭』が生きがいであるからこそ、背に腹はかえられない。
「先生と話すときは消しておきなさいよ。そうだ、私はちょっと買い物してくるから。もし体調が悪かったら、連絡してね」
こういう時、由比の冷淡な性格に救われる。体に力を込めなければ、全身が震えて泣きそうでいる息子を前にしても、由比は表情を変えない。いや、気がついているが見ないようにしているだけかもしれない。綿貫の手によって新たに大輝が入れ物となった。それを由比は知っているはずだ。あの自己愛に満ちた綿貫が下心なしに、特別裕福ではない家庭の、平均的な少年をかわいがるわけがない。和絃が綿貫の息子だというのも、推し量らずともたどり着いているであろう。
「うん、分かった。いってらっしゃい」
外で和絃たちと出くわしても、由比なら誤魔化せるはずだ。由比の目元が潤んでいる。首筋に手を当てて、胸元にしわが寄っているのを直している。そんな由比の姿を見れば、綿貫との逢瀬と贅沢な暮らしを手放したくはないであろう。
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