第二章

23.最後の審判-怠惰

 正午過ぎに終業式を終えた。


 太輝はその足で東京駅に向かって、母親の由比ゆいと待ち合わせした。学校から東京駅に向かう大輝の後ろを、和絃と睦美はずっと付いてきた。来ないでくれと丁重に断ったのに、彼らは駅まで追いかけてくる。混み合った電車を乗り継いで、肩がぶつからないように駅構内を走る。


「ダイちゃん、話を聞いてよ」

「おい太輝、走るなっ」


 騒がしい構内で和絃と睦美の声はよく通った。彼らにどうやって諦めてもらえるか、太輝は思考をやみくもに巡らせた。綿貫兄弟に打ち明けるべきか。それとも、優れた計画もないのだから現状維持と自分を説得し、このまま綿貫に屈するべきか。そうでないと分不相応に与えられた贅沢な生活を保てなくなる。家族は太輝を非難して、考えを改めろとすがってくるだろう。何が正解で何が得策か、答えなんて出るわけがない。

 結局のところ、新幹線改札口前まで付いてきた兄弟から逃げて、驚いた顔の由比を急かして電車に飛び込んだ。


「急に先生に会いたいって、どうしたのよ」


 身を乱して窓側に座る大輝を、由比は不審そうに見てくる。新幹線は走り出し、睦美と和絃の姿を見なかったから大輝は安堵した。


「先生に迷惑をかけるって何よ、朝から冷や冷やしっぱなしだったのよ。その上、改札まで走ってきて」


 あきれ果てる由比の言い分は至極真っ当だ。だからこそ大輝は反論できなかった。


 大輝は今朝「綿貫先生と話をしたい、今日これからじゃなきゃ駄目なんだ」と、由比に無理を言って頼み込んだ。込み入った話があるから急いでくれ、そう焦る息子を見ても、由比は何が起きているのか訝しんでいた。だから、「今日中に先生と話さないと、先生に迷惑を掛けてしまう」そう大げさでもなく真実を告げれば、由比は血相を変えて病院に予約を入れた。


「いきなり予約入れて、大丈夫だった?」


 太輝が聞いたら、由比は鏡をのぞき込んでいた。太輝と似た丸い目に器用な手つきでアイラインを引いている。直す必要はないのに、少し化粧が濃い気がする。由比は小さい花柄のワンピースで着飾り、ボブヘアーの毛先を軽く外にカールさせていた。急遽入れた予定なのに、由比の機嫌が良い。


「大輝なら問題ないわ、先生のお気に入りなんだから」


 まさに鼻高々といった風に、由比は小鼻を膨らませた。由比がそんな表情をするときは決まって、『白庭』か綿貫関連だった。感謝して良いのか、返す言葉が出てこない。

 綿貫のお気に入り。『白庭』での大輝のあだ名だ。大輝からすれば、自分はけがれた身だ。それなのにどうして、誰も太輝を助けてくれないのだろうと嘆く。お気に入りの子に番号札はあるのか、と嫌みったらしく問い返したくなる。


「和絃くん、どうしたのかしら、あんなに血相変えて、改札で大声を出すんだもの」

「大げさなんだよ、和絃は何か勘違いしてるみたいだし」


 改札口で睦美が「行ったらどうなるか、分かってるのか」と脅し文句をぶつけてきた。大輝はただ、やるせない思いから目を背けて「大丈夫だよ」そう曖昧にかわした。和絃なんて公共の場だというのを忘れて、大輝につかみかかろうとした。


「あとで和絃たちに心配かけてごめんって謝る」


 携帯電話の電源を切って、二人の友を置き去りにした。そこまでした大輝は誠意を持って、彼らに対峙できるだろうか。


「明日から冬休みなんだから、仲直りは早くしておきなさいよ」


 由比は母親として太輝を慰める。太輝は「うん、そうする」と小さな声で返した。


 毎月下旬、大輝は由比に連れられて『くつがや』に通院していた。病院が駅から徒歩圏内で、さほど時間が掛からないと言われても、勾配の強い土地柄、タクシーを使って行く方が便利であった。由比と大輝は駅から病院まで歩いたことが一度もない。


「あのさ、都内の病院じゃ駄目なの、次は自分で探すよ」


 いつも通り、平日の午後でも駅前は観光客で賑わっていた。乗り場でタクシーが来るのを待って、数分してようやく黒の車に乗り込んだ。太輝は後部座席から車窓を眺めた。駅前を通り過ぎたら、空室の張り紙が目立つ。猫の通る隙間もないくらいに建物が並んでいる。それでも人の気配はなかった。誰も歩いていない。


「先生以上の名医がいると思うの」

「別に、先生を悪く言いたいわけじゃなくて。往復代、幾らかかってるんだよ」


 毎月一回、観光地へ温泉を浴びに行くのなら、かなり気の持ちようが変わる。残念ながら大輝たちは観光客ではない。それに『くつがや』で過眠症を治してもらうというのは建前で、実は綿貫との面会が主であった。


「メイクが崩れた顔で先生と会いたくないの。あとね、先生からいくら体力をつけろと言われても、大輝だって、ここの坂を歩いて行くのはごめんでしょう」


 運転手がいるからか、由比はよそ行きの顔を見せる。


「たまには歩いてもいいと思うけど、ほらそこのラーメン屋とか」


 見るからに寂しい風景を横目に、大輝はつぶやく。


「私は嫌よ、匂いがつくじゃない」


 由比が少女みたいにはじけた笑顔で笑う。大輝の同級生よりも、どこか幼い表情を見せた。その仕草を父親の前でも見せればいいのに。サンゴ色の口紅が、大人の女性の魅力を引き立てていた。

 一方の大輝は新幹線のトイレで制服を脱いで、白のパーカーと黒のデニムパンツという、学生らしい地味な服装に着替えていた。洋服なんて清潔感さえ保てていれば、多少ダサくてもどうだって良かった。由比の選ぶ洋服だって気恥ずかしくないから平気で袖を通す。美容院で頭を整えはするが、さすがにおしゃれな和絃とは並びたくない。そのくらいの自覚はあった。

 タクシーはすいすいと小道へ入っていき、建物の前に滑り込む。

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