10.綿貫との出会い(中学生時代)-2

「認知行動療法はどうだろう」


 毎日、なにを感じて、物事や景色がどう自分の目に映ったか。それらを自分の言葉で記し、吐露したい悩みを具現化しろ、と綿貫は言う。


 不意打ちだ。大輝は小さく開けた口と鼻から空気を吐き出して、これ見よがしに冷笑する。嘘みたいに容姿の整った年配の精神科医の綿貫に向かって、大輝はあからさまに、正気を疑いますといった、不躾な眼差しを向ける。これが教祖だって、ふざけてる、笑える。


「もう自分でしてます、前の先生と同じことを言うんですか」


 三枚の紙がとじられている黒の縦型クリップボードの隅を、綿貫は肉厚の人差し指で撫でていた。大輝の反応に、ピタッと動作を止める。


「太輝、失礼でしょう」


 付き添いの母は取り乱し、書斎机を挟んだ向こうに座る綿貫に何度も頭を下げた。


「子供とは得てして、そういうものですよ」


 と、大輝の反抗もいなす余裕を見せた。


 綿貫が書き記す大輝の半生は、書面上でしか生きていない。患者が部屋に入る数分前に開かれて、部屋の扉を閉じてから次回の来院まで眠っている記録はなんて空虚なのか。

 だからこそ綿貫が手元から顔を上げて、大輝に視線を合わせた瞬間、底知れぬ充足感が広がる。狐の目みたいに意地汚い表情を、今の自分は見せているのだろう。

 生身の自分を見て欲しい。生きた声を聞いて欲しい。自分はここにいる。定型文な提案ではなく、答えを教えて下さいと縋りたい。


「なに、小難しいことはないよ、大輝くんは日記ってつけてるのかな」

「日記は書いています、幼稚園の頃から、今でも」


 だから、こうもつっけんどんに振る舞ってしまう。要するに反抗期なのだ。


「それは偉いね、いいよ、その調子で日記は続けて、次に来るときに日記をいくつか持ってきて、私に見せてくれないか」


 綿貫に言われた通り、翌月に十冊分の大学ノートを渡した。幼い頃に父親からもらったノートに、日常の取るに足らない物思いから夢に見た話まで書き記していた。クレヨンで抽象的に描いたページ、小学校低学年からは鉛筆で書いた不格好な文字が残されている。太輝自身の成長の流れを垣間見られた。


 部屋の本棚にはあと、二十冊ほどの日記があった。たまに飽きて、日付が飛んでいるページもあった。綿貫に提出する為に、ある程度読みやすい文面で記されていた期間のノートを持ってきた。多少なりとも見栄が働いていたのは否定できない。


「夢日記か、面白いね」


 毎日、ぼやけた夢を見続ける大輝からすれば、一ミリも愉快ではない。綿貫は正気だろうか。

 時間が止まった。大輝は眠い目をこすり、目の前でジッとノートをのぞき込む綿貫を眺めていた。


「太輝くんの思考が見えてきたぞ」


 うとうとしていた大輝は、沈黙を破った綿貫の声に顔を上げる。


「面白い、実に面白い」


 夢日記を見せてからの綿貫は、態度を変化させた。まるで子供が希少生物の図鑑を眺める時みたいだ。標本としたくなる美しい顔を崩して、大仰な身振りで表情を作る。無機質な対応だった大人が、初めて大輝に興味を向けた。肌の色合いが深くなり、黒眼が大きくなる。綿貫は明らかに興奮していた。


「両親からすれば、僕が夢日記を書くことに抵抗があるようです。お父さんなんて特に、『人間が捨てなきゃいけない記憶を蓄積させてると、碌な目に遭わない』って、お父さんの言葉は難しいです」

「それは人それぞれだね。こうやって、私たちが話している意味もなくなってしまう。それにね、抵抗があるからといって行動をしない、そんな必要はないんだ。そんなの放っておけば良い、構わなくて良い。君は何でも真に受けてしまう子だから余計にね」


 上体を前に傾けた綿貫の体重で、椅子と床のきしむ音がする。どうして太輝の欠点を知っているのだろう。


「先生に話した内容はもう忘れた方が良いんですか? そこに書いてあるのは、僕が見た夢の話だけです、それで僕が何を感じたのかなんて客観的に書いても良いんですか」


 覚え立ての知識で語るも、やはり言葉だけが一人歩きしてしまう。


「君はその行為で、救いを得ようとしているのかな」


 夢を忘れたくない、何か自己探求の道しるべとなるかもしれないからだ。


「はい」


 大輝は大きく頷いた。よくぞ聞いてくれたと、大げさに何度も顎を引いた。


「覚えるな、忘れろ、起きていろ、寝るな、毎日おなじことばかり言われて」


 ――夢を見た報告なんていらない、それよりも起きている時間に何を感じたかが重要だ。現実を見ろ。


 両親のくどい台詞に大輝はうんざりしていた。

 不安定さを表すかのように、手を前に組み合わせた。大輝は上体を前後に揺らす。


「それでいいんだよ、それで、その気持ちを殺したら駄目だ、すがれるものならば縋って、見えないものより、見えるものを信じなさい。夢占いの解釈と同じだよ、信じたいものだけを見ていればいい」


 大輝の記憶の中では、綿貫のように肯定してくれる人は誰一人としていなかった。だからこそ、綿貫の精神、綿貫の理念をそのまま模範したかった。彼を師として、彼の言葉をずっと反復したい。


「縋りたい」


 大輝がつぶやくと、綿貫はにこりとしてうなずく。


「私も夢日記を付けているよ」

「先生もですか? いつから」

「今の君と、近い年の頃からだから」


 睡眠薬と精神安定剤、容易に薬物投与を勧めるより、認知行動療法を提案してくるあたり、綿貫は信用できる医師だと納得できる。精神病を患う母が長年、綿貫を頼りにしているのも理解できる。カウンセリングよりも先ず、脳科学的に異常がないか検査の手配もしてくれた。その柔軟性に、当初は投薬を考えていた母は感謝しきりだ。大学時代の知り合いがいるから、と都内の大学病院に予約の手はずも抜かりない。綿貫は医師として信頼のおける男であった。なんで教祖なんてしているのだろうと不思議に思うばかりだった。

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