第10話 

「怪我は?」


 エディスを抱きしめたままのラザルスがそう尋ねてくる。


「な、ないです。あの、ありがとうございま……」


 このままの体勢はさすがに恥ずかしい。

 腕の中から抜けだそうとしたエディスは、ラザルスに力を込めてさらに抱き込まれて身動きできなくなる。


「君が無事でよかった」


 ため息とともに呟かれた言葉に、エディスは胸苦しくなる。

 傾いだまま放置されている硝子の姫君より、エディスのことを心配してくれているのだ。

 嬉しくてたまらない。心臓が爆発しそうなほど。

 でもそれは硝子の姫君は死ぬことのない存在で、エディスが生身の人間だからなのかもしれない。

 でも、じゅうぶんだ、とエディスは思う。

 今この瞬間だけは、自分が一番大切にされていると感じられたから。


 やがてそっと腕がほどかれる。

 至福の時間が終わったことに、エディスは名残惜しさを感じて彼の腕を視線で追った。そして月明かりの中、白いラザルスのシャツが二の腕の辺りだけ黒く染まっているのを見た。


「で、殿下、怪我を!」


 見上げたラザルスはやはり多少顔をしかめていた。


「ちょっと硝子で切ったみたいだ。でも大したことはないよ」

「手当します、少しお待ち下さい!」


 自分を庇ったせいだ。

 エディスは急いで自室へ走ると、包帯や傷薬の入った箱を持って戻った。

 その間に、ラザルスは硝子の姫君を立て直していたようだ。まっすぐに置き直されたあちこちひびが入った硝子の姫君を見ながら、ラザルスは椅子に座ったところだった。

 エディスは自分の部屋から火を付けた蝋燭をもってきて、傷口に硝子が刺さっていないかを確認し、水で布を濡らして血を拭った。そして包帯を巻いていると、ラザルスが呟いた。


「懐かしいな、こうして手当をしてもらうのは」

「え?」


 ラザルスの怪我の治療など今までしたことがなかったように思うのだが。


「やっぱり覚えてなかったね。五年前じゃ無理もないか」

「五年前?」

「あの時は男の子なんだから我慢しなさいって自分より小さい女の子に叱られて、ずいぶん驚いたよ」


 問い返すエディスに、ラザルスは話してくれた。

 当時のラザルスは相当にひねくれていた。

 まだ子供だった彼は、第二王子の彼は何をするにつけ兄と比べられるのが我慢ならなかったのだ。癇癪を起こして部屋から逃げた彼は、途中で窓から飛び降りるのに失敗し、下にあった茂みの枝で足に怪我をした。


 あまりの痛さに転げ回っているところへ、エディスが通りがかったのだ。

 そして彼女は水で傷口を洗えば泣き出し、近くに生えていた草で止血薬を作って貼り付ければ痛いと大騒ぎするラザルスをしかりつけたのだ。


「私と同じくらいの年なんでしょう? それならもう痛いくらいで騒ぐような年じゃないわ。むしろ自分で怪我の治療だってできなくちゃだめよ」と。


 痛みが原因でも、その頃はまだ甘えの残る子供だったラザルスは、自分を叱るエディスに八つ当たりした。


「なんで僕が我慢しなくちゃいけないんだ。どうしてお前とまで比べられなきゃならないんだ。なんで僕は誰とも比較されるんだ!」


 するとエディスはだだっ子を見るような眼差しを向けて、ため息をついたのだ。


「先に上手くできる人がいるものって、誰でも比べられてしまうものなのよ。私だっていつも掃除の仕方がなってない、ミランダはもっと上手くできたって言われるけど。でも私とその引退したおばあさんとは能力も器用さも別なのよ。真面目にとりあうだけ無駄じゃない。それにね」


 エディスはポケットからハンカチを取り出して、薬草を貼り付けたラザルスの足に結んだ。


「私は自分で生きていけるようになるために、いっぱい覚えなくちゃいけないことがあるの。時間がないのよ。いじけてる暇なんてないわ。あなた貴族のお坊ちゃまでしょう? お家を継がない人は仕官したり、自分で仕事を探さなくちゃいけないって聞いたわ。なら、お兄さんのことうらやんでいる暇なんてないんじゃないの?」


 あまりに前向きなエディスの言葉に、ラザルスは驚いた。

 そして確かに、と心の中でうなずく。第二王子の自分はいずれ公爵位をもらって領地を運営するようになるのだ。そのために必要なものを知らないと苦労するだろうと思えた。


 それから、ラザルスは真面目に勉強や武道を学ぶようになった。

 けれどやはり兄との比較はついて回った。

 息苦しさを感じたラザルスは何度かエディスを待ち伏せした。エディスは勉強をしたことがなかったので、覚えたての歴史の話をすると素直に感心して褒めてくれたからだ。

 けれどそれもすぐに絶えてしまった。ラザルスが従僕もつけずに一人であちこち歩き回るのを禁止されたからだ。人がいては、エディスと話そうにも止められてしまう。彼女が平民だからというそんな理由だけで。



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