第弐拾玖集:叱咤激励
眠る気分ではなかった。
心を失っていく悲しささえもじきに感じなくなる。
それがつらかった。
水は大蛇のようにうねりながら風を巻き込み、小さな雲を作り出した。
その時、一羽の
「……地図だ。あの
水が轟音を立てながら湖へと還り、巨大なしぶきを上げた。
地図を開く。
いくつもの朱墨が血のように散っていた。
「こんなに……」
祥国
「蘭玉はいったい何百万人犠牲にするつもりなんだ」
風が吹き荒れ、木々を揺らす。
光を取り戻していた星々が激しく瞬き、月は赤みを帯び始めた。
「……はやく力を制御できるようにならないと。大事な人たちまで傷つけてしまう」
湖はさざ波のあと沈黙し、風は時折葉を揺らす程度になった。
星々は穏やかに光り、月はその柔らかい白い光で旅人たちに方向を示す。
「焦っちゃだめだ。でも、どうすれば……」
白檀の香りが鼻をくすぐる。
好意的な意味で、嫌な予感がした。
「元気か、馬鹿弟子」
「し、師匠……」
空から
「お前、開花したんだな」
「な、何のこと……」
鉄扇の切っ先が頬を掠める。
血が流れた。
「対龍神族武器ですね」
「もちろんだ。これじゃなきゃ、愚かな弟子を叩きのめせないからな」
後方へ宙返りしながら距離をとるも、
「これで空を飛べますか?」
「遠慮しているのか? それとも、お前の、
「なっ!」
「私が龍神族との戦い方を知らないとでも思ったのか、阿保め」
「防ぐので精一杯か? 私の教え方が悪かったのだろうか……。悲しいねぇ」
以前よりも何万倍もの力を感じるのに、それが師匠には全く効かないのだ。
「ど、どうして……」
すると、凍えるほどに冷えた水を顔にかけられた。
「
深く、広範囲に。
「で、でも!」
今度は畳んだ鉄扇で頭をはたかれた。
痛い。
何よりも、心が痛かった。
「お前の力は、その持ち前の心の清らかさと結びついている。それをないがしろにして龍の力を使えるとでも思ったのか?」
「で、でも」
「でもでもでもでもうるさいな」
「座れ」
「
「『戦え』、『人の世の
「で、愚かにもお前はそれを『
「そ、そうじゃないんですか?」
「『戦え』は、『お前の中に生まれるだろう、どうしようもないほどの怒りと戦え』という意味だ。『人の世の
たしかに感じたのだ。
心が冷えていく感覚を。
善意が焼灼されていく煙のにおいを。
「
「命を撃ち抜く強烈な光から、人々を護る優しい影となれ、
消えかけていた、いや、消しかけていた様々な感情が戻ってきた。
胸が温かい。
はたはたと、涙が零れ落ちた。
「こんなに
「お前はずっと戦って来ただろう? 特異な力と、愛する人々と違う自分という存在と。そろそろ信じても良い頃なんじゃないか? お前は強い。私の自慢の弟子だ」
涙を拭うと、
「お前を選んだ龍は少々厄介な奴だが、その力に嘘はない。制御しようとするな。ただ、願うままに舞え」
その様子を眺めながら、
「仲良くしよう、
湖から幾つもの水球が浮かび上がり、月の光に煌めきながら
細かな氷が星のように宙を舞い、青い炎が風の流れる方へと伸びて行く。
色とりどりの鉱石は光を反射し、時に弾けながら美しい音を響かせた。
「うんうん。美しい。さすがは愛弟子だ」
翌朝、いつの間にか眠っていた
「え、浮かんだまま寝てたの」
「お、起きたか」
声がした方へ急いで顔を向けると、
「……お一人で?」
「もちろんだ。お前は舞いながらゆっくり意識を失い、そのまま湖の上で眠りだしたからな。私は良い香りのするやわらかな葉を集めて気持ちよく寝たぞ」
「……わたしを陸地に運んでくださればいいではないですか!」
「はいはい。茶でも飲んで落ち着け」
「……薬酒入れました?」
「もちろん。
「いいですけど」
棗には心身を温め和らげる効果がある。
「で、何か作戦はあるのか?」
「……本当に何でも知っているんですね」
「いやいや。風が噂を運んでくるんだ。耳を傾けるだけでいろんな情報が手に入るぞ」
初めて会った日から変わらない
「
「ほう? 強力な身代わりって奴か」
「そうですね。どう頑張っても、わたしでは
「いいんじゃないか? ただ、不死の軍隊はどうするんだ」
「師匠が手を貸してくれればなぁ」
「楽しそうだな。実は私の遊び友達に善良な
「さすがは師匠。夜遊びが役に立ちますね」
「ふふふん。大人の嗜みだからな」
二人は碗をさっと上に掲げると、一気に飲み干した。
爽やかな早朝の風が、二人の間を通り抜けていった。
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