第弐拾玖集:叱咤激励

 琰耀えんようやしきまで戻ってくると、近くの湖で水を巻き上げながら、新しい力を試し始めた。

 眠る気分ではなかった。

 心を失っていく悲しささえもじきに感じなくなる。

 それがつらかった。

 水は大蛇のようにうねりながら風を巻き込み、小さな雲を作り出した。

 その時、一羽のからすが現れ、何かを琰耀えんようの胸元に放り投げていった。

「……地図だ。あの妖鬼イャォグゥェイ、約束を守ってくれたんだ」

 水が轟音を立てながら湖へと還り、巨大なしぶきを上げた。

 地図を開く。

 いくつもの朱墨が血のように散っていた。

「こんなに……」

 祥国金苑きんえん周辺にある城塞都市の半分が、すでに蘭玉の手に落ちていた。

「蘭玉はいったい何百万人犠牲にするつもりなんだ」

 琰耀えんようの背後で湖が渦巻いた。

 風が吹き荒れ、木々を揺らす。

 光を取り戻していた星々が激しく瞬き、月は赤みを帯び始めた。

「……はやく力を制御できるようにならないと。大事な人たちまで傷つけてしまう」

 琰耀えんようは深呼吸を繰り返し、怒りを鎮めた。

 湖はさざ波のあと沈黙し、風は時折葉を揺らす程度になった。

 星々は穏やかに光り、月はその柔らかい白い光で旅人たちに方向を示す。

「焦っちゃだめだ。でも、どうすれば……」

 白檀の香りが鼻をくすぐる。

 好意的な意味で、嫌な予感がした。

「元気か、馬鹿弟子」

「し、師匠……」

 空から琰耀えんようを見下すように現れたのは、巨大なおうぎに乗った麗しの美男子、幽禪ゆうぜんだった。

「お前、開花したんだな」

 琰耀えんようはびくっと肩を震わせた。

「な、何のこと……」

 琰耀えんようが誤魔化そうと目を逸らした瞬間、扇から飛び降りた幽禪ゆうぜんが素早く腕を伸ばした。

 鉄扇の切っ先が頬を掠める。

 血が流れた。

「対龍神族武器ですね」

「もちろんだ。これじゃなきゃ、愚かな弟子を叩きのめせないからな」

 後方へ宙返りしながら距離をとるも、幽禪ゆうぜんは舞うように間合いを詰めて来る。

 琰耀えんよう旋風つむじかぜをいくつも出し、幽禪ゆうぜんを取り囲んだ。

「これで空を飛べますか?」

 幽禪ゆうぜんは呆れたように笑うと、旋風を琰耀えんようへと打ち返してきた。

「遠慮しているのか? それとも、お前の、冥琅玕龍めいろうかんりゅうの能力とはこんなものだったのか。がっかりだ」

 琰耀えんようの心にがともった。

 幽禪ゆうぜんの後方にある湖の水を巻き上げ、強大な渦を作ると、それを幽禪ゆうぜんめがけて投げつけた。

 幽禪ゆうぜんは不敵な笑みを浮かべると、渦の中で鉄扇をふるい、あろうことかさらに巨大な水流に変えて琰耀えんようへと戻してきた。

「なっ!」

「私が龍神族との戦い方を知らないとでも思ったのか、阿保め」

 琰耀えんようは襲い掛かってくる水流に焼け付くほどの熱風を当て、霧散させた。

「防ぐので精一杯か? 私の教え方が悪かったのだろうか……。悲しいねぇ」

 琰耀えんようはわけがわからなかった。

 以前よりも何万倍もの力を感じるのに、それが師匠には全く効かないのだ。

「ど、どうして……」

 すると、凍えるほどに冷えた水を顔にかけられた。

琰耀えんよう、善良さを失うな」

 幽禪ゆうぜんの言葉が胸を貫いた。

 深く、広範囲に。

「で、でも!」

 今度は畳んだ鉄扇で頭をはたかれた。

 痛い。

 何よりも、心が痛かった。

「お前の力は、その持ち前の心の清らかさと結びついている。それをないがしろにして龍の力を使えるとでも思ったのか?」

「で、でも」

「でもでもでもでもうるさいな」

 幽禪ゆうぜんはこれ見よがしに盛大な溜息をつくと、木の蔓を操り椅子と机を作り出した。

「座れ」

 琰耀えんようは言われるがままに腰かけると、幽禪ゆうぜんと向き合った。

冥琅玕龍めいろうかんりゅうに何と言われた」

「『戦え』、『人の世のことわりを棄て、龍の血を受け入れよ』……、と」

「で、愚かにもお前はそれを『ヒトの心を失うこと』だと思ったわけだな?」

「そ、そうじゃないんですか?」

「『戦え』は、『お前の中に生まれるだろう、どうしようもないほどの怒りと戦え』という意味だ。『人の世のことわりを棄て、龍の血を受け入れよ』は、『とほうもないほどの命を受け入れ、悲しみに縋ることなく前へ進め』ということだ。まったく、龍というのは本当に言葉足らずで困る種族だな」

 琰耀えんようは混乱した。

 たしかに感じたのだ。

 心が冷えていく感覚を。

 善意が焼灼されていく煙のにおいを。

あらがえ。たしかに、お前が背負わされた冥琅玕龍運命くらい。だが、お前はもう子供ではない。自分の人生は、自分で選べるはずだ」

 幽禪ゆうぜんは立ち上がると、優しく微笑んで言った。

「命を撃ち抜く強烈な光から、人々を護る優しい影となれ、琰耀えんよう。その名に恥じぬ、龍を目指すんだ」

 消えかけていた、いや、消しかけていた様々な感情が戻ってきた。

 胸が温かい。

 はたはたと、涙が零れ落ちた。

「こんなにもろくて……、立ち向かえるでしょうか」

「お前はずっと戦って来ただろう? 特異な力と、愛する人々と違う自分という存在と。そろそろ信じても良い頃なんじゃないか? お前は強い。私の自慢の弟子だ」

 涙を拭うと、琰耀えんようの周囲を光が包んでいた。

「お前を選んだ龍は少々厄介な奴だが、その力に嘘はない。制御しようとするな。ただ、願うままに舞え」

 琰耀えんようは椅子から立ち上がると、湖に向かった。

 その様子を眺めながら、幽禪ゆうぜんは再び椅子へ腰かけた。

「仲良くしよう、冥琅玕龍めいろうかんりゅう

 湖から幾つもの水球が浮かび上がり、月の光に煌めきながら琰耀えんようの動きに合わせて回転した。

 細かな氷が星のように宙を舞い、青い炎が風の流れる方へと伸びて行く。

 色とりどりの鉱石は光を反射し、時に弾けながら美しい音を響かせた。

「うんうん。美しい。さすがは愛弟子だ」

 幽禪ゆうぜんは満足そうに微笑むと、琰耀えんようの演舞を心行くまで楽しんだ。


 翌朝、いつの間にか眠っていた琰耀えんようは、自身が湖の上にいることに驚いた。

「え、浮かんだまま寝てたの」

「お、起きたか」

 声がした方へ急いで顔を向けると、幽禪ゆうぜんが優雅にやわらかな葉の上でお茶を楽しんでいた。

「……お一人で?」

「もちろんだ。お前は舞いながらゆっくり意識を失い、そのまま湖の上で眠りだしたからな。私は良い香りのするやわらかな葉を集めて気持ちよく寝たぞ」

「……わたしを陸地に運んでくださればいいではないですか!」

 琰耀えんようが抗議の意を示すと、幽禪ゆうぜんは面倒くさそうにお茶の入った碗を差し出した。

「はいはい。茶でも飲んで落ち着け」

 琰耀えんようは複雑な気持ちで幽禪ゆうぜんの隣まで飛んでいくと、碗を受け取り、あたたかいお茶を飲んだ。

「……薬酒入れました?」

「もちろん。棗酒なつめしゅだ。その方が美味しいだろう?」

「いいですけど」

 棗には心身を温め和らげる効果がある。

 幽禪ゆうぜんなりの心遣いなのだろう。

 琰耀えんようは無意識に顔が綻んでいた。

「で、何か作戦はあるのか?」

「……本当に何でも知っているんですね」

「いやいや。風が噂を運んでくるんだ。耳を傾けるだけでいろんな情報が手に入るぞ」

 初めて会った日から変わらない幽禪ゆうぜんの不可思議な魅力。

 琰耀えんようはふっと笑みをこぼすと、銀木犀が描かれた見事な碗を眺めながら呟いた。

琰櫻えんおう義兄上に手伝っていただこうかな、と思っています」

「ほう? 強力な身代わりって奴か」

「そうですね。どう頑張っても、わたしでは玲耀れいよう義兄上の真似は出来ませんから」

「いいんじゃないか? ただ、不死の軍隊はどうするんだ」

「師匠が手を貸してくれればなぁ」

 琰耀えんようがにやりとしながら幽禪ゆうぜんを見つめると、幽禪ゆうぜんは思案するような姿勢をとり、同じようににやりとした。

「楽しそうだな。実は私の遊び友達に善良な趕屍匠かんししょうがいてなぁ……。三十人くらい。最近、趕屍匠かんししょうの嫌な噂が多いだろう? きっと名誉を回復したいはずだ」

「さすがは師匠。夜遊びが役に立ちますね」

「ふふふん。大人の嗜みだからな」

 二人は碗をさっと上に掲げると、一気に飲み干した。

 爽やかな早朝の風が、二人の間を通り抜けていった。

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