第弐拾捌集:龍神

 やしきに帰り、「もう大丈夫ですよ、さん」と報告する自分に、心底恐ろしくなった。

 遅かれ早かれ、李の孫娘は死ぬ。

 のろいとは、そういうものだ。

 琰耀えんようは一歩進むごとに薄れていく罪悪感に違和感を覚えながら、自室へ戻った。

 すると、仰々しい文箱ふばこが届いていた。

義兄上あにうえからだ」

 開けて中から書簡を取り出すと、そこには『調査依頼』と書かれていた。

「えっと……。『眠るように死ぬためだけに飲む樹液があるらしい。それが不審な使われ方をしている可能性がある。調べて来てくれ』か」

 琰耀えんようの頭に浮かんだのは、人間が精神的な死のあとに歩む悲哀の末路。

「そんな樹液があるとすれば……」

 琰耀えんようは自身の百味箪笥を眺め、ある一つの引出しに目をとめた。

 そしてゆっくりと近づき開けると、中から黄金色に輝く小瓶を取り出した。

鼠神族そじんぞくが治めるの国にある寺院にあるんだよね……」

 たった一度、禪寓閣ぜんぐうかく閣主にして琰耀えんようの師匠である幽禪ゆうぜんに連れられて行ったことがある。

 その時に説明されたのは、ある〈木〉についてだった。

――冬を司る鼠神族そじんぞくが治める根の国には、人間を苦痛から解放し、安らかなる〈死〉へ導く神樹がある。

――その樹液は黄金色に輝き、豊かな花の香りがする。味は甘く爽やかで、最期に飲むには最適なものだという。

――一瓶だけお前ももらっておくと良い。本当に愛するひとの穏やかなる旅路を願う時にだけ使え。

 当時まだ子供だった琰耀えんようは「こんなものを飲ませるくらいなら、必死で治療法を探した方がいいでしょう」と、強く反発した。

 でも、今は自信がない。

 この世は、そんなに単純ではないのだ。

 嫌でもそれを感じてしまう。

「わたしのこと、覚えてくれていると良いけれど……」

 根の国は簡単に入国できるような場所ではない。

 完全なる冬の神域。

 長く滞在すれば、それこそ命に係わる。

「とにかく、今から行こう。疲れてないし」

 琰耀えんようは李に「陛下からの使いで、外に出て来ます」と告げ、庭から数本の花を引き抜くと、外へと出て飛び上がった。

 完全に陽が落ち、風は冷たく、月は雲の中。

 時間がわからない。

 どれほど飛んだだろうか。

 手に持っていた花が一本、枯れた。

「近い」

 根の国の入口は毎日変化する。

 そのため、花や、時には小動物の命を使ってその場所を探すのだ。

 幽禪ゆうぜん琰耀えんようも、めったに小動物を犠牲にするようなことはしないが、人間はそうではないことが多い。

 籠の中で弱りゆく小鳥を観察しながら場所を探すことが多いという。

「あ、二本目が枯れた。この辺りだな」

 琰耀えんようは地上へ降り立つと、花を持って歩いた。

 すると、一本、また一本と枯れ、ある地点へ立った時、持っていた花がすべて枯れ果て地に落ちた。

「ここだ」

 琰耀えんようは以前訪れた時に幽禪ゆうぜんがやっていたように、地面にむかって手を添えた。

 すると、土がゆっくりと盛り上がり、一枚の扉となった。

 黒い漆で塗られた木の扉を開け、下へ下へと続く石の階段を降りていく。

 腐臭が混ざる甘ったるい花の香り。

 の国は、生者が行くことのできる中で唯一、あの世との境にある場所だ。

 においはだんだんと清浄なものへと変わり、空気が変化した。

(神域にたどり着けた……、のかな)

 岩肌の空間を抜けた先にある神域は、外界と変わらないほど自然にあふれており、まるで常春とこはる

 外の世界と違うのは、ここが常に〈夜〉だということくらい。

 ただ、様子がおかしかった。

 流れる空気は涼やかなのに、煙の臭いが混じっている。

 そして、血のにおいも。

「……おや? あなたは……」

 灰に白を混ぜたような月魄げっぱく色の深衣しんいに身を包んだ鼠神族そじんぞくの男性が近づいてきた。

 その手に弓を持ち、腰には帯刀。

 そして、胸から足元にかけて返り血を浴びた跡。

「龍神族の方ですね」

「そうです。何かあったのですか?」

 鼠神族の男性は疲れたように微笑みながら、自身の後ろに広がる惨状を指さした。

「人間の軍が攻めてきたのです。我らに勝てるはずなどないのに、おかしいと思っていたら……」

 男性は大量に転がる兵士の遺体を踏まないよう避けながら、琰耀えんようをある場所へ案内した。

「こ、これは……」

 樹林だった。

 いや、樹林だった場所、と言った方がいいかもしれない。

 半分以上の木々が斬り倒され、黄金色の樹液が流れ出ていた。

「彼らはこれが目的だったようです。冬の神域でしか育つことの無い霊葬樹れいそうじゅの樹液が、大量に奪われてしまいました」

「そんな……」

 でも、何のために?

 屍玉ネクロクリスタルがあれば、生きている人間を僵尸きょうしのように操ることが出来るのに。

 琰耀えんようは鼠神族の男性にたずねた。

「仮定の話なのですが、もし霊葬樹れいそうじゅの樹液と屍玉しぎょくを同時に摂取したら、どうなりますか?」

 男性の顔色が変わった。

 まるで恐ろしいバケモノでも見るように。

「そんなことをすれば、不死の生き物が誕生してしまいます。それも、なんでも命令に従う、恐ろしい軍隊が出来るでしょう」

 血の気が引いた。

 琰耀えんようは自身の思考が、心が、何か大きなものに飲み込まれるのを感じた。

「で、でも、霊葬樹れいそうじゅの樹液は……」

「忌憚ない言い方をすれば、人を殺す薬です。ですが、それは飲む人が強く願わなくては意味がないのです。死ぬことを望んでいない人には効きません。ただ……」

 男性は深呼吸のあと、さらに話をつづけた。

屍玉しぎょくの効能と合わせると、その力は『生きたい』という人間の根幹となる願いに反応します。そして、霊葬樹れいそうじゅの樹液はそれを叶えてしまうのです。つまり……」

 血のにおいが充満している・

 ここは冬の神域。

 腐敗は地上よりも速い。

 傷口から漏れ出す腐敗ガスのにおいが立ち昇り始めた。

「死ぬことのできない傀儡が出来上がります」

 怒りが心を満たそうとしたその時、琰耀えんようの中に、龍が現れた。

 その鱗は緑混じりの美しい青、天水碧てんすいへきに輝き、瞳は昏く優しい黒である驖驪てつりに煌めいた。

 彼はまっすぐと琰耀えんようを見つめると、「戦え」と告げた。

 身体を強烈な風が吹き抜けた。

 隣にいる鼠神族そじんぞくの男性は、驚きに目を丸くしながらも、風に包まれる琰耀えんようを見つめ続けた。

 まるで、神が顕現したとでもいうように、恍惚とした目で。

 龍は言う。「人の世のことわりを棄て、龍の血を受け入れよ」と。

 琰耀えんようの答えは明確だった。

「家族を護れる力なら、今すぐにでも」

 その瞬間、青く輝く黒い光が龍となり、根の国を突き抜け雲を切り裂き遥か天まで昇って行った。

 真昼のように輝いたその光は、月と星々の光を吸収し、再び琰耀えんように降り注いだ。

 五行珠は砕け、そのすべての力が琰耀えんようの血に、目に、骨に、魂魄に染み渡る。

「ああ……。あなた様がそうだったのですね。日輪にちりんの力を持つ翠櫻すいおう皇太子の輝く影、黒き翡翠ひすい冥琅玕めいろうかんの龍は……」

 琰耀えんようの周囲を包む黒い煌めき。

 周囲で見ていた鼠神族の人々が次々に地面に片膝をつき、琰耀えんようの力に対し包拳礼ほうけんれいで応えた。

「わたしがどうにかしてきます。みなさんは引き続き神域の守護を」

 琰耀えんようは自身の浮力で浮き上がると、根の国をあとにした。

 今までとは比べ物にならない力を感じる。

 それと反比例するように消えていくのは、ヒトの倫理観や価値観、罪悪感、後悔、憂鬱、無力感、そして同情心。

 ヒトの心が、焼灼されていく感覚。

「相手が人の心など持たない悪党ならば、わたしはそれを凌駕する者になる必要がある。例え、それで心を失おうとも」

 まるでこの世の終わりのように光を失った夜空を飛びながら、琰耀えんようは最後の涙を流した。

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