第弐拾陸集:砂上

 その夜、急いで皇宮まで戻った琰耀えんようは、姿を消して玲耀れいようの寝所に向かった。

 が、しかし、色々と思い出し、報告は朝することにして自邸へと帰った。

 皇帝の仕事には跡継ぎを作ることも含まれている。

 もしそういったことの真っ最中だったら気まずいからだ。

「雨……」

 曇天が月を隠し、星々の瞬きさえも感じられないほど。

 鉛色の雨粒は、まるで琰耀えんようの心を表しているようで、哀しいほどに冷たかった。

「このままじゃ、景耀もいずれは……」

 蘭玉は、皇位につくためならばおそらく、自身の息子さえ手にかけるだろう。

 証拠を残すことなく、毒でもあおらせるだろうか。

「誰も、殺させないぞ。蘭玉」

 琰耀えんようは雨の中、自邸の門前に着くと、姿を現し、そっと中へと入って行った。

 すでに時刻は深夜。

 侍従長の李すらも眠りにつく時間。

 靴を脱ぎ、外廊下を歩く。

 今は誰にも見られたくなかった。

 あまり、優しい顔をしている自信がなかったからだ。

 湯殿には行かず、五行珠の力で身体を清めると、すぐに着替えて布団へと入った。

 夢の中で、何か解決策が見つかることを願って。


 翌朝目覚めてみるも、何も脳には残っていなかった。

 夢の欠片さえも。

「はぁ……。義兄上に伝えるのがつらい……」

 そんな時だった。

「霓王殿下、よろしいでしょうか」

 いつもとは違う李の様子に、琰耀えんようは戸惑いながらも「どうぞ、入ってください」と答えた。

 李は見るからに疲れた表情をしており、どこか悲しげだった。

「どうかしたんですか?」

 琰耀えんようが布団から出て訊ねると、李は涙をぽろぽろと流しながら言った。

「私の……、私の可愛い孫が……」

 嗚咽を漏らす李の様子に、琰耀えんようはひどく動揺した。

 いつも元気で快活な李からは想像もできない姿だからだ。

「ゆっくりでいいですから、ゆっくり、ゆっくり話してください」

「う……、うう。ありがとうございます……」

 李は何度か深呼吸をした後、一言一言に悔しさをにじませながら話し出した。

「孫は、それはもう器量がよくて……。とある貴人のもとへ嫁ぐ予定となっておりました。恋仲だったので、話しはとんとん拍子に進んでいて……。それなのに、その貴人側が突然、婚約破棄を申し出てきたのです」

 よくある話、では片付けられない。

 李は身内だ。

 琰耀えんようは続きを待った。

「なんでも、やんごとない身分の家柄の子女と結婚できることになったとかで……。孫は……。孫は、それはもうひどく落ち込んでしまって……。夜な夜な、眠ったまま出歩くようになってしまったらしいのですうううう……。うう、ううう」

 夢遊病か、と思ったが、李は泣きながらもさらに話し続けた。

「それが、おかしいらしいのです。娘が言うには、孫は……、貴人を恨み……、妖鬼イャォグゥェイにその魂を売り渡してしまったようなのです!」

 李は言い切ると、盛大に泣き出してしまった。

「殿下、お、お願いいたします。どうか、どうか、腕のいい道士様を、ご、ご紹介、い、いただけ、ませんでしょうか……」

 李は床に額をつけながら懇願した。

「……わたしがなんとかします」

「……へ?」

 李は琰耀えんようからのまさかの申し出に反射的に頭を上げ、目を丸くして驚いた。

「李さんにはとてもお世話になっていますし、李さんの家族はわたしにとっても家族です。力にならせてください」

「で、でも、妖鬼イャォグゥェイは危険なんですよ⁉」

「知っています。わたしがどこで修業をしていたか、御存知でしょう?」

「……禪寓閣ぜんぐうかく

「その通りです。すべての知と武が集まる場所。妖鬼イャォグゥェイのことも充分学びましたから。任せてください、李さん」

 李は再び目に涙を浮かべると、額を床につけ、「霓王殿下、よろしくお願いいたします!」と力強く声を出した。

「では、陛下への報告が終わったらすぐに、李さんの娘さんとお孫さんが住んでいるところへ行こうと思います」

「ありがとうございます。でも、朝ご飯は食べてからにしてくださいまし」

「あ、たしかに。そうします」

 李は立ち上がると、自身の頬をパンと叩き、いつものように微笑んだ。

 「すぐに準備いたします」と言い、部屋を後にする李の背中は、凛としていた。

「それにしても、妖鬼イャォグゥェイかぁ……」

 どう解決するかは、李の孫がどういう状態なのかによる。

 妖鬼イャォグゥェイに憑依されているのか、それとも、妖鬼イャォグゥェイに成ってしまっているのか。

 後者ならば、とても厄介だ。

「義兄上への報告、はやくしないと」

 琰耀えんようは素早く着替えると、ちょうど李が「準備が整いました」と告げに来た。

 すぐに食卓へ向かうと、李に怒られない程度の速度で平らげ、「ごちそうさまでした! では、皇宮へ行ってきます!」と、少々あわただしく出発した。


 皇宮に着くと、そこでは宰相の蘭玉が各尚書たちに嫌味を述べていたところだった。

「まともな予算案が出せないのなら、そなたらなど、いてもいなくても同義だな」

 不機嫌さを隠そうともせず、官吏たちにぶつけている。

 自陣の増強のために良い顔をしがちな蘭玉には珍しいことだった。

「おや? 霓王殿下ではありませんか。何用で?」

 不機嫌の矛先が琰耀えんようへと向けられた。

「あに……、いえ、陛下に急ぎお伝えしたいことがありまして」

「……感心しますねぇ。陛下のために身を粉にして働いていらっしゃると、噂で聞き及んでおります。尚書たちも霓王殿下を見習うべきなのでは? さぁ、どうぞ殿下。我らはしばし下がりましょう。このまま話していても、無意味ですから」

 蘭玉は恭しく玲耀れいよう作揖さくゆうすると、外へと出て行ってしまった。

 その姿に小声で悪態をつきながら、尚書たちも深く作揖さくゆうし、蘭玉とは違う扉から外へと出ていった。

 近くに誰もいないことを確認すると、琰耀えんよう玲耀れいようへと近づいた。

「なんか、大変そうだね」

「まあな……。蘭玉は……、琰櫻えんおうの動きに気付いたのかもしれない」

「それのことなんだけど……」

 琰耀えんよう醴泉れいせんで見たことや、そこで会った琰櫻えんおうから見せられた出生証明書の写しの話などを玲耀れいように聞かせた。

 そして、景耀が誰の子なのかということも。

「は、はは……。そうか、そういうことか。まさか、あの蘭玉が……」

 玲耀れいようは玉座から立ち上がると、数歩歩き、時折室内を巡る風にその身を委ねながら呟いた。

「そうか……。奴は、私の実兄なのだな。そして、景耀は実弟ではなく、甥なのか……」

 生まれてくることを望まれなかった、悲劇の皇子。

羽玄うげんが持ってきた日記の意味が理解できたよ」

 そう言って、玲耀れいようが渡してきたのは、古い日記だった。

「これは翠微君すいびくん……、つまり、皇太后汪氏の母親、我らが祖母の日記だ」

「ということは、蘭玉の育ての母親ということ?」

「そうだ。翠微君すいびくんは……、蘭玉を殺そうとしていたようだ」

 玲耀れいようが指し示した日記の箇所には、『季節外れではあったが、致し方なかったむしを殺すには、避暑地まで行くしかなかったのだ。夫は騙されている。鬼の子を託されたことに気付いていない。愚か者だ』と書かれていた。

「蟲、というのが蘭玉のことだろう。なんせ、弥『蛍』族の子供だからな」

「……避暑地へ向かう道中、翠微君すいびくんにとっての誤算が生じた。弥蛍やけい族の生き残りが生きていくために結成した山賊に襲われ、すべて終わりかと思われたその時、蘭玉の肌に刻まれた紋章のおかげで助かった……。だから、翠微君すいびくんもそれを受け入れるしかなかったんだね。育てるという選択肢しかなくなったんだ」

「そのようだ」

「でも、この『鬼の子』って……。どうして翠微君すいびくんは蘭玉の出生について知っていたんだろう」

「祖母は軍神と恐れられた蕉月しょうげつ王の娘だ。情報戦の大切さは身に染みていただろう」

「独自の情報網を持っていたんだね」

「そして、情報が漏れることの恐ろしさも知っていた。だからすべてを濁して書き記したんだ」

 翠微君すいびくんは、祖母は、いったい、どんな気持ちで蘭玉を育てたのだろうか。

 夫の愛妾が産んだ子供。

 その実、血筋はやんごとなく、誰よりも高貴。

 あたりまえだ。皇帝の子供なのだから。

 馬鹿な夫はそれに気づかず、ついに男児が生まれたと喜んでいる。

 それだけではない。

 齢を重ねるごとに、不穏な雰囲気は家庭内を侵食していった。

 愛する娘まで、鬼の子にその心を奪われていることに気付いたからだ。

翠微君すいびくんは心を失くしたんだ。私も、今なら祖母の気持ちがわかるよ。何もかもが崩れ、砂上で転げまわり、ついには塵となって消えていくようだ」

 玲耀れいようはうなだれ、座り込み、自嘲するように息を吐きだした。

 琰耀えんようはゆっくりと近づき、その手に触れ、ぎゅっと握りしめた。

「なにか強く信じられるものが必要な時は、わたしを想って。わたしは義兄上を裏切ったりしないし、側にいるから。どんなに世界が、人々が紡ぐ絆を否定しても、わたしはそれにあがらい続けるから」

 玲耀れいようは顔を上げると、鼻を真っ赤にしながら頷いた。

「国父が泣くなど、情けないよな」

「そんなことないよ。義兄上は感情豊かな人だから」

「ありがとう、琰耀えんよう。……行っていいぞ」

 玲耀れいようは少しバツが悪そうにうつむくと、小さくつぶやいた。

 それを琰耀えんようは聞き逃さなかった。

「どこに?」

 目が合う。

 玲耀れいようは小さく嘆息し、困ったように笑いながら言った。

龍王谷りゅうおうこくだ。我儘を言って悪かった。琰耀えんようを信じている」

「ありがとう。色々片付いたら行ってみようかな。ちょっと観光したらすぐに戻ってくるよ」

「ふふ。土産みやげ話が楽しみだ」

 琰耀えんよう玲耀れいように手を差し出すと、玲耀れいようはそれを掴んで立ち上がった。

「今日は李さんからの依頼をこなすんだ」

「ほう、珍しいな」

「そうなの。だから、余計に心配で」

「気を付けて行って来いよ」

「うん!」

 琰耀えんよう玲耀れいように背を優しく押され、「行ってきます!」と答えて皇宮を後にした。

 空には虹がかかっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る