第拾漆集:姉
「霓王が帰ってこないんだ!」
「何時間くらい経ったの?」
「もう二時間も……」
「……大丈夫よ」
浩然は妻の言葉に驚き、動きを止めた。
「あの子は……、
「え、それはどういう……」
莅春はそっと夫を抱きしめると、囁いた。
「あなたを愛しているけれど、あの子のことに関しては、陛下の許可が無いと話せないの」
「……わかった。君を、殿下を信じるよ」
「ええ。待ちましょう」
莅春は震える手を抑えるように、ぎゅっと夫の背に手をまわした。
幼い頃、たった一度だけ、見たことがあった。
硝子の茶碗を割り、それを素手で握るように片付けていた
もしかして、と思い、あらゆる文献を読んだ。
獣化種族、
どれも違った。それぞれに特徴はあったけれど、あてはまるものがバラバラ過ぎた。
それが、莅春にはひっかかった。
何千年も歴史がある中原大陸において、資料がない種族などあるはずがない。
それならば、と、角度を変えて考えてみることにした。
「資料がないのではなく、秘匿されているのだ」と。
伝説や伝承、口伝で語られる物語にその
そして、たどり着いたのは「龍神族」という、「答え」だった。
母である貴太妃は何も話してはくれない。
直接的な言葉を避けて聞いてみても、「あなたの想像力は天性のものね」と、かわされてきた。
(多分、私を護るために言わないんだ)
そして、事実を知っていたかどうか、
淑妃の時にできなかった処刑を実行するかもしれない。
(私だって、もう背負えるのに)
何度も思った。考えた。
そのたびに、夫や子供たちの顔が頭をよぎり、母から正解を聞き出せずにいる。
(私はただの
でも、心の中の自分が何度も叫ぶ。
「その勇気は、逃げ道を探すのではなく、愛する者を、戦って護り抜くためにあるのではないのか!」と。
莅春は夫から身体を離すと、自身の頬をパチンと打った。
「り、莅春……」
「あなた。ごめんなさい。馬を用意してくれる? 行かなければならない場所があるの」
「それなら、他の者に……」
「いえ。私でなければならないのよ」
浩然は視線を外すことが出来なかった。
莅春の決意がこもった瞳が、あまりに美しかったから。
「……気を付けて行ってくるんだよ」
ただそう伝えるだけで精一杯だった。
「ええ。子供たちをお願いね」
浩然はすぐに侍従に指示を出した。
「軍馬の中でも、もっとも疾い馬を!」と。
数十分後、簡単な旅支度を済ませた莅春は馬へと跨り、颯爽と駆けて行った。
最低限の護衛だけを連れて。
幸い、一番近い派閥の居所までなら、三時間もあれば着く。
莅春は頬をかすめていく葉を気にも留めず、駆け続けた。
叔父が住む、江湖まで。
「何者だ」
音もなく現れた剣客の男性。
莅春はひるむことなく、声を上げた。
「我が名は
莅春は胸元から梅の形に掘られた翡翠の
「それは
男性は隠してあった馬に飛び乗ると、莅春を先導した。
(私にもしものことがあったときに、と、母から渡されていた
気付くと、左右と後ろにも馬に乗った女性の剣客が並走している。
詳しく母に尋ねたことはなかったが、祖父は、江湖においてどれほどの地位を築いていたのか、その片鱗が見えた気がした。
十分も走ると、前から馬に乗った一団が走ってきた。
「莅春か!」
「叔父上!」
何年ぶりだろう。
結婚する前にあいさつしたのが最後だった気がする。
叔父は驚くほど若々しく、凛々しさを漂わせている。
「何があった。お前が直接訪れるなど、よほどのことなのだろう?」
「
涙が頬を伝った。
「案ずるな。
腕や頬から滲む血。
途中の木々にひっかけてしまったのだろう。
痛みに気付かないほど、夢中で駆けていた。
「叔父上……」
「急ごう。大勢で行けば怪しまれる。精鋭を二十ほど潜ませるとしようか。さぁ、まだ駆けられるか?」
「もちろんです!」
莅春は涙をぬぐい、力強く答えた。
「これを渡しておこう」
そう言って
「これって……」
「お前が
胸に炎が灯る。
母のようになりたくて、幾度となく隠れて練習した剣技。
露見してからは、厳しく指導してもらった武術。
「……ありがたく。
「ああ。行くぞ!」
風が吹く。
背中を後押しするように。
心の炎を巻き上げ、大炎へと成長させていくように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます