第拾肆集:小火
「今日は普段着なんですね」
紺よりも少し青に近い深衣を見に纏った睿は、とても精悍で格好いい。
「ええ。非番なので。それにしても、殿下の演舞、みごとでした」
「ありがとうございます。新しい剣が良く手に馴染んだので、うまくいきました」
「ご謙遜を。きっとどんな剣でも、殿下の手にかかれば一級品に見えることでしょう」
「照れちゃいますね。へへへ」
「まぁ、来年成人と言うのは信じがたいですが」
「うっ」
「若く見えるのは良いことですよ」
「わたしの場合、幼く見えると言った方が正しい気がします……」
先日の誕生会でたくさんの義兄弟姉妹たちと会ったが、
龍神族は少しゆっくりなのかもしれない。
「
「ああ、あれは面白かったですね。義姉上が奏でる玲瓏な調べにうっとりとしていたら、まさか甥っ子姪っ子たちが
「ふふふ。おかげで優雅な曲が
「陛下も嬉しそうでしたね」
「義兄上が普段の激務を忘れて楽しめたのなら幸いです」
「本当に仲がよろしいんですね」
「陛下が優しいんです」
「私には
「お姉さんのお婿さんがいるんじゃなかったでしたっけ?」
「義理の兄上は学者なので……。こう、善い人なのですが、あまり話が合うといった感じではないんですよね……。贅沢な悩みです」
「ふふふ。お勧めの本とか聞いてみては?」
「ひょ、兵法書なら読みますが、工学や天文学となると……」
「得手不得手はありますもんね」
「その通りです」
睿は「すみません。つい長話をしてしまいました」と言い、「手伝えることがあればいつでも遠慮なくおっしゃってくださいね」と爽やかに笑い、傘をさして立ち去って行った。
「睿殿は護衛や侍従を連れて歩かないんだよなぁ。わたしも人のこと言えないけど」
武人ゆえなのだろうか。
爵位を持つ家柄の貴人であるのに、
「さてさて、今日の依頼はなんだろうな」
「義兄上……!」
一つ目の書簡には『
「あの二人は義兄上に霊能力があることを知らない……。早く
しかし、太皇后と宰相の目の前で剣を鞘から抜くことは出来ない。
それをすれば、きっと「謀反だ!」と叫び、
「皇位を狙う奴の仕業に決まってる! 絶対に義兄上を死なせはしない!」
陽炎の術で姿を消しながら飛行し、皇宮の門も通り過ぎ、寝所の近くにある死角で術を解いた。
「陛下!」
慌てて制止しようとする太監と護衛を振り切り、
「何です! はやく霓王をつまみだしなさい! 陛下は安静にしなくてはならないのですよ!」
太皇后が鬼の首を取ったかのように喚きだした。
「霓王殿下、いささか無粋では? それに、誰が知らせたのです。陛下が病に臥せっていることは漏らしていないはずですが」
宰相は冷たい目をしながらも、その瞳の奥には嘲りが見て取れた。
「陛下より書簡を頂きました」
「……ほう。
宰相は額に青筋を浮かべながら、ニコリと微笑んだ。
太皇后は
「では、私にも見せていただきましょう。さぁ、皇宮の薬舗から好きなだけ生薬をお持ちください、霓王殿下」
苦しそうに胸が上下に動いている。
息をするたびにひゅーひゅーと音が鳴っている。
このままでは、
時間はない。
どうにかして、二人には出て言ってもらわなくてはならない。
必死に思案していると、何やら廊下が騒がしくなってきた。
扉がやや乱暴に開けられ、見覚えのある太監が入って来た。
それも、大慌てで。
「さ、宰相様! 大変です! 何者かが皇宮の食糧庫に火を放ったようで……。とにかく、いらしてください! 太皇后様は万が一を考えて後宮へ避難を! お早く!」
宰相と太皇后は一瞬目を合わせると、宰相が小さくうなずいた。
太皇后は宮女に連れられ、小走りで部屋を後にした。
宰相は太監たちに「こちらです! お早く!」と促され、恨めしそうに
「……これって、今が
苦しそうに唸っている
「うぎゃあああ!」
「がはっ」
耳をつんざくような悲鳴が響いた後、
「義兄上! 大丈夫⁉」
「あ、ああ……。ふぅ、なんとか」
「すぐに薬湯を準備するからね」
「助かったよ。ありがとう、
「そうだったのか。食糧庫の火の手は……」
「ふふ。そういうことだ。おそらく、最小限の被害で済んでいるだろう。雨だしな。湿度は十分だろう」
「じゃぁ、
「おそらくは、蘭玉の仕業だろうな」
「な!」
「伯父上は景耀を皇位につけたがっているのだ。昔っからな。私がそれに気づいてないとでも思っているのだろうか。きっと
「そんな……。で、でも、
「なぜかはわからん。とにかく、この皇宮において一番信用ならないのは奴だ。後宮にいる占星術師の多くを己の陣営に抱き込んでいるという噂だ」
「許せない……。やっぱり、親衛隊としてわたしを側に置くべきなのでは?」
「大丈夫だよ。貴太妃母上の雛菊隊が母上の宮女の中にも紛れ込んでいる。情報はちゃんと得ているから」
「で、でも! 今回のみたいなことがあるじゃないか!」
「少し油断をしただけだ。今までは自分のわずかな霊能力でも祓えていたのだが、公務の忙しさにかまけて祈祷を疎かにしてしまってな。もう二度とこんな失敗はしないよ」
「義兄上……」
「それに、お前がこうやってすぐに来てくれるだろう? 安心だ」
「まったく! のんきにもほどがあるよ!」
「あはは」
「そういえば……。さっきの太監に話しかけられたことがあるんだ」
「ああ……」
「あの太監は……、先帝の淑妃に仕えていたんだよ」
「え……」
「妃の妊娠を最後まで隠し通せたのも、あの太監が頑張ったおかげなんだ」
「そ、そうだったの……」
「母上は淑妃に関わったすべての太監や侍女、宮女たちまで殺そうとしたが、貴太妃がそれを阻止したんだ。『陛下が愛した妃の死に、最大限の敬意を払うべきです』って。恐れることなくそれを朝堂で言い放ったあの姿。とても凛々しく、美しかった。
「
「だろ? だから、さっきの太監のことは信じて良い。名は
「うん、わかった。あ、でも……」
「ああ。宰相や太皇后には仲良くしていることが露見しないほうがいいな。
「やっぱり。太皇后を命の恩人だとはやし立てて取り入っているって感じでしょ?」
「その通り。太皇后が処刑を取りやめてくれたおかげで生きている、というていで仕えてもらっている」
「流石……」
「では、私はあと一日くらい具合が悪いふりをするよ。公務も休めるしな」
「あはは、そうだね。ゆっくり休んでよ」
「ふぅ。元気な状態で布団でゴロゴロできるのは楽しいな」
「汗は流してから寝てね。本当に冷えて風邪ひいちゃうよ」
「わかったよ」
「え、ここで?」
「湯殿に行くのが面倒だし、洗われるのは時間がかかるし、何より、さすがに眠い」
「眠いのは薬湯が効いてる証拠。じゃぁ、みんなが帰ってくる前にさっぱりしちゃおうか」
幼い頃に
「自分でやるのに」
「まあまあ。おとなしく
「ふふ。じゃぁ、頼んだ」
「乾燥させた
「ありがとう。最高の気分だ」
丁寧に清拭を終えると、新しい寝巻に着替えさせ、布団も取り替え、「さぁ、どうぞ」と言うと、
少しして、羽玄がこっそり帰ってきて「もうすぐ禁軍の
「ありがとうございます。あの……」
「殿下の表情を見ればわかります。陛下からお聞きになったのでしょう。それだけで、私は嬉しいです。では、失礼します」
羽玄は優しく微笑み、すぐに後宮の方へと行ってしまった。
おそらく、太皇后に報告しに行くのだろう。
「ふぅ。色々、もっと慣れなきゃな……。とりあえず、薬舗に行こう」
外は雨が弱くなり、雲の間から陽射しが降り注ぎ始めていた。
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