第弐集:桜

 ここは後宮にある貴太妃の居住区域、清蓮宮せいれんぐう

 琰耀えんようは規則にのっとり、後宮の入り口からは太監の案内に従った。

養母はは上!」

「ちょっと遅かったわね、琰耀えんよう

 琰耀えんようは跪き、手を重ね、額と共に床につけた。

「お久しぶりでございます」

「もう、そんな。礼なんていいからおあがりなさい」

 貴太妃に腕を掴まれ、琰耀えんようは優しく引き上げられた。

「わたしは郡王ですから、礼をつくすのは当然です」

 言葉を交わしながら、室内へと入って行く。

 板間は良く磨かれており、派手さはないものの、小物一つとっても精巧な意匠がとても趣深い。

 物を大切にする貴太妃の性格がよく表れた素敵な部屋だ。

「ああ、そのことなら大丈夫よ。明日には聖旨せいしが出るんじゃないかしら」

「え?」

「陛下があなたを親王に冊封さくほうするのよ。玲耀れいようも、あなたに気兼ねなく会いたいんじゃないかしら」

「わあ! 嬉しいです! ですが、先ほど話したときは、兄上は何も言っていませんでした」

 貴太妃は、ハッとした顔をして、口元を袖で覆った。

「あらやだ、そういえば内緒だったわ。忘れて頂戴。勅旨が来て皇宮へ招かれたら、初めて聞いたふりをしてちょうだいね? 玲耀れいように怒られてしまうわ」

「あはははは。わかりました。兄上の前では驚く演技をしましょう」

 貴太妃は琰耀えんようの悪戯っ子のような微笑みに、つい顔が緩んでしまう。

 何歳いくつになっても、義息子むすこは可愛い子供なのだ。

「うふふ。それがいいわ。まぁ、郡王だった時の自由さは少しなくなってしまうかもしれないけれど、親王の権限は大きいわ。良く考えて動くようにしなさいね」

「はい、養母はは上」

 二人は板間に用意してあったふかふかの座布団へ座った。

 すぐに侍女が茶器を運んできて、あたたかいお茶を淹れてくれた。

「ありがとう。みんな、少し休憩していらっしゃい」

 貴太妃は侍女たちに優しく声をかけた。

 さすがは貴妃きひの時代から仕えてきた侍女たちである。

 多くを語らずとも、その意味を理解し、そっとその場から姿を消した。

「そういえば、莅春りしゅんを助けてくれてありがとう」

「いえいえ。義姉上を救うのは当たり前のことですから」

「うふふ。とても驚いたそうよ。あなたがこんなにも美しく立派になっているものですから」

「嬉しいです。義姉上も変わらずお綺麗でいらっしゃいました」

「外見は立派な長公主おひめさまなんだけれどね……。お嫁に出したはずなのに、向こうのご家族が優しいからって、何かにつけて遊びに来るのよ。まったくもう」

 そう言いながらも、貴太妃はとても嬉しそうに微笑んでいる。

義姉あね上は養母はは上が心配なのですよ。だって、一番近くで養母上の戦いを見ていらっしゃいましたから」

「そうね……。あの子には本当に苦労を掛けてしまったわ」

 貴太妃は少し遠くを見つめるように、庭の桜を眺めた。

 莅春は貴太妃にとっては長子にあたる。

 長い期間、母親が太皇后から嫌がらせを受けるのを見てきたのだ。

 共に戦い、他の兄弟姉妹を護ってきた、いわば戦友のような絆がある。

「その分、とてもお強い母親になったではありませんか」

「お転婆なのよね。昔っから。孫たちも明日到着するみたいで、忙しくなるわ」

「ふふ。嬉しそうですね」

「うふふ。あなたのお家にも遊びに行きますからね」

 琰耀えんようは、聞き間違えかな? と思った。

 祥国の、しかも首都金苑に、屋敷など持っていないからだ。

「……家?」

「あたりまえじゃないの。来年成人するのよ? 屋敷の一つや二つ、もっていないと」

「え、で、でも、そんなお金……」

「もちろん、玲耀れいようと私で買っておいたわ」

「えええ!」

 まさに寝耳に水とはこのこと。

 琰耀えんようとて、金苑の土地の相場を知らぬほど世間知らずではない。

 貴太妃は驚いて固まっている義息子にはかまわず話し続けた。

「あなたは武人ですから、家屋よりも庭の方が広い屋敷が良いと思って、金苑の中心部からは少しはずれた、湖の近くに買っておいたわよ。もう家具も荷物も侍女も侍従も何もかも運び込まれているはずよ」

「……や、山に住んではいけないのですか?」

「何を言っているの! やっぱりね。玲耀れいようの言っていた通りだわ。あなた、山に小屋を建てて住もうと思っていたのね?」

「そうです……」

「ダメ。ダメよ。絶対に許しません」

「で、でも、わたしにはあれがありますから……」

「龍神族が各個人で持っているという神域ね? それはそれ。これはこれ。どんなに広くて素晴らしい空間を持っていたとしても、現実の世界で暮らす屋敷は必要です。あなたは親王になるのですから。自覚を持ちなさい」

「あ、は、はい……」

 琰耀えんようは養母の熱弁と怖いほどの笑顔に押され、逆らう気力を粉々にされた。

「じゃぁ、地図を渡すわね。屋敷は好きにいじるといいわ。ただ、一つだけ、そのままにしておいてほしいものがあるの」

 そう言うと、貴太妃は屋敷の設計図の庭の部分に、朱墨で丸を付けた。

「ここに、私の庭にあるのと同じ桜を植えてあるのよ」

 そよそよと吹く風にのり、可愛らしい薄桃色の花弁が舞い、琰耀えんようの手元に届いた。

 幼い頃、何度となく眺めてきた桜。

 江湖にも桜はたくさん咲いていたが、幾度春が巡っても、心が求めるのは養母ははの笑顔が似合う桜。

 琰耀えんようは目頭が熱くなり、視界が揺れた。

「今までも心は常に一緒だったけれど、これからはいつでも会えるわ。その印に、あなたに桜を贈りたくて」

 貴太妃は琰耀えんようの手を取り、優しくなでた。

「嬉しいです。ありがとうございます」

 琰耀えんようは涙をこらえながら、にっと笑って見せた。

 愛されているということが、こんなにもあたたかいのだと、心が感じ取ったのだ。


 二時間は居ただろうか。

 琰耀えんようは「また来ます」と笑顔で言うと、再び太監に案内されながら後宮をあとにした。

「霓王殿下、よくお戻りになられました。皆、貴方様のご帰還を喜んでおります」

 帰り道、太監が話しかけてきた。

「ありがとうございます。わたしのことをご存知なのですね」

「もちろんです。わたくしは……。いえ、その、貴太妃様には平時より良くしていただいておりますので、雑談などの時に話題に上がることも多くありました」

「そうなんですね。嬉しいです」

 太監はにこにこと微笑みながら、そのあとは後宮や皇宮の様々な施設について説明してくれた。

 琰耀えんようは太監が言いよどんだ言葉が気になったが、金苑に戻ってきたばかりで質問責めも良くないと思い、おとなしく説明に聞き入った。

「では、何かお困りのことがございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」

「ありがとうございます」

「お気をつけて」

 太監に見送られ、後宮から皇宮へつながる門を出ると、ある人物に出くわした。

「これはこれは……。げい王殿下ではありませんか」

「宰相殿、お久しぶりですね」

 目の前からやってきたのは、太皇后の兄であり、祥国宰相、汪 蘭玉おう らんぎょく

「ええ。約十年ぶりでしょうか」

 蘭玉は琰耀えんようを品定めするかのように見つめ、柔和な笑みを浮かべた。

 まるでそういう仮面を被っているかのように。

「そうですね。お変わりないようでよかったです」

「私は驚きました。こんなにも立派になられて……。これからが楽しみですね」

「どうも」

「ふふふ。後宮へは貴太妃にお会いに?」

「ええ、そうです。宰相殿は太皇后様のもとへ行かれるのでしょう?」

「その通りです。妹は……、いえ、太皇后は御気分がすぐれないようで。何故なのか理由でもお聞きして慰めて差し上げようかと」

「……そうですか。では、わたしはもうここで失礼します」

「はい。またすぐにでもお会いしましょうね」

 琰耀えんようは蘭玉を一瞥すると、すぐに進行方向を向き、歩いて行った。

 はやくこの場から離れたかったのだ。

(気分がすぐれないのはわたしのせいでしょうね。嫌味な奴)

 空を仰ぎ、深呼吸をする。

 嫌いな人物のせいで、兄と養母に会えた喜びを台無しにしたくない。

「とりあえず、兄上と養母上が買ってくれたという家にでも行ってみるか……」

 琰耀えんようは地図につけられた朱墨の丸を見て心を落ち着けた。

 春はまだ始まったばかり。

 金苑での生活も、同じように。





 後宮にある、僅かな者しか知らない地下室に、男は立っていた。

 横にある大きな寝具には、男にとってもっとも愛しい女がその白い肌を惜しげもなく露わにしながら、規則的な寝息を立てている。

 激しい愛の逢瀬に体力が尽きたのだろう。

 男は寝具に腰かけ、女の肌をそっと撫でた。

 そして再び立ち上がると、薄い羽織をとり、まだ少し汗ばんでいる身体に纏わせた。

 身体に刻まれた忌まわしくも愛さずにはいられない模様が透けて見える。

 男は自身の腰をさすりながら自嘲するように微笑んだ。

 その身に流れる血が、叫ぶのを聞きながら。

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