第一章
第壱集:二十年前と現在
春の陽気の中、雅な装飾と、『
「長公主様! もうすぐ、もうすぐで
御者が叫ぶが、中にいる
「おらおら! 潔く馬車を止めて有り金全部出しなぁあ!」
馬車を追うのは五頭の馬に五人の盗賊。
先頭を走っていた男が、槍を持ち、馬車の車輪に突き刺した。
車輪は弾け飛び、バランスを崩した馬車は傾きながら地面をこすり、止まってしまった。
御者は引きずり降ろされ、気絶するまで殴られている。
残るは
男たちが馬車の扉を引きはがし、中から
「な、なんだ⁉」
「
「ほほほっ! 威勢がいい女は好みだぜぇ?」
「美味そうな身体してんじゃねぇか!」
「俺たちが可愛がってやるからよぉ、あんまり暴れんなよ!」
手が震える。
五人もの男を相手に戦うなど、初めてのこと。
負ければ、身も心も危ない。
その時だった。
目の端を、美しい青い光が通り過ぎたのは。
「うわああああ!」
盗賊の男が一人、斬り落とされた腕を凝視しながら倒れた。
「な、なんだてめぇは!」
青い光は口元をにっと上げると、その問いには答えることなく男を次々と斬りつけ、
「あ、あの……」
「ふう。間に合ってよかったです。
「……え?」
目の前にいるのは少年と青年のちょうど中間にいるような男性だった。
青光りするみごとな黒髪を一本の三つ編みに束ね、身に着けている紺碧の深衣はまるで夜空のよう。
見たこともない美しい青年に「姉上」と呼ばれ、
その中で、唯一思い浮かんだのは一つの名前と、遠い昔に遊んだ記憶。
赫家において、もっとも特異な存在。
「あ、あなたは、もしかして……」
☆
中原大陸において一番の大国である
遺体は無残な状態で、とても不思議なことに、すでに大部分が腐り始めていたという。
大統領はなだれ込むようにやってきた皇帝の近衛兵である
淑妃も捕えられはしたものの、共謀していた証拠は一切なく、皇后による厳しい追及の後、淑妃という称号を奪われ、離宮へ幽閉されることが決まった。
皇后は、赤い髪に緑がかった黒い瞳が美しい淑妃のことを初めから憎たらしく思っていたため、本当は
捕まっていた大統領は、一週間の後、斬首に処され、遺体は野山に捨てられた。
国内の混乱を避けるため、すぐに皇太子が新たな皇帝として擁立され、即位することに。
迅速に事が運んだのは、皇太子以外の親王および郡王たちが幼過ぎたからである。
皇太子と皇位を争うには、年齢的にも、後ろ盾となる妃の実家にも、力が無さ過ぎたのだ。
ただ、そうは言っても、皇太子もまだ十歳。
実質的に政治を動かしていたのは、太皇后とその兄である宰相だった。
先帝の崩御からおよそ一年経った赫皇五十一年、初夏。
離宮にて事件が起こった。
いや、すでに起こっていたという方が正しいのかもしれない。
幽閉されていた妃が、男児を出産したのだ。
太皇后は激怒した。
妃の世話をしていた宮女や太監が、意図的に妃の妊娠を太皇后に隠していたからだ。
亡き先帝の血をひく男児が生まれたことは、太皇后にとってはのちの脅威となる。
太皇后はまず妃の周囲にいた宮女と太監を全員処刑し、それからその男児を殺そうと考えた。
しかし、ここである種の幸運な悲劇が起きる。
産後の肥立ちが悪く、出産から
後宮内はおろか、皇宮内にも同情の空気が流れた。
ここで宮女や太監、そして男児の殺害に躍り出れば、太皇后の評判は失墜するだろう。
どうしたものかと兄である宰相と作戦を練っていると、太皇后にとって最悪の報告がもたらされることになった。
なんと、貴太妃が男児を引き取り、養子にするというのだ。
亡くなった妃と貴太妃は同郷で、後宮にやってきたときからずっと姉妹のように支え合って生きてきた。
こうなるのは自然な流れであり、皇宮内でも安堵の声が囁かれたほどだ。
しかし、太皇后はそれを許さなかった。
どうにか阻止しようと動き始めた時、あろうことか、それを諫める者が現れた。
皇帝陛下である。
皇帝は「弟には生きる権利があります」と言ったのだ。
太皇后がいくら「将来、母親の境遇や死を恨んで謀反を起すかもしれないのですよ⁉」と説得しても、皇帝は弟の命を護ることを選んだ。
皇帝は貴太妃を呼び寄せ、「
貴太妃は「命に代えても、お守りいたします」と誓った。
このときの太皇后の顔は言い表せないほど歪み、まるで醜悪な鬼のようであったと、太監たちは噂したという。
貴太妃はまるで実の息子のように愛情を注ぎ、男児を育てた。
時折、亡き妃から託された手紙を宝物のように読み返しながら。
貴太妃は男児の名を
ただ、順風満帆というわけではなかった。
太皇后からの嫌がらせが日に日に激化していったからだ。
貴太妃は、
そこは侠客が住まう仁義の地、
その中でも、この世のすべてが集まってくるという、江湖最大の派閥、
だが、やはりまだ子供。
貴太妃が帰るときは、抱き合って涙を流した。
その日から十二年間、時折
そしてついに、赫皇七十年。もうすぐ十九歳になる
立派な、武人となって。
大きな長い階段は、幼少期に見たまま、変わっていなかった。
よく手入れが行き届いている。
長く伸びた髪を一本の三つ編みに結い纏めているため、その横顔からも美貌が溢れ、すれ違う兵士や官吏たちの目を奪っていった。
最上段までつくと、大きな扉の横にいる兵士に声をかけ、名を名乗った。
兵士は大きく見開いた目で驚きを表すと、すぐに中にいる太監へと取り次いでくれた。
中で、太監が
扉が大きく開かれ、豪華絢爛な意匠が施された室内へと入って行く。
目の前に座しているのは祥国皇帝。
その向かって左横には、憎しみのこもった鋭い目つきの太皇后と、慈愛にあふれた笑顔の貴太妃が立っていた。
「皇帝陛下に
良く通る、硝子の鐘の音のような透き通った声。
床に片膝をつき、胸の前で握った右手を左手のひらで止めて頭を下げた。
「楽にしろ、
「はい」
立ち上がり、まっすぐと見つめる。
この国の主を。
「よく帰ってきてくれた。大きくなったな」
「ありがとうございます」
「貴太妃母上にも礼を述べねばなりませんね。弟を、立派に育ててくれました」
貴太妃は瞳に涙を浮かべながら
「
皇帝は
「はい。わたしはそのために強くなって帰ってまいりました」
「ふむ……。その努力は称賛に値する。朕もお前を誇りに思っているぞ。ただ、朕には
「陛下のお言葉に何か文句でもあるのでしょうか」
ここぞとばかりに太皇后が口をはさんできた。
「母上、
皇帝は太皇后を優しくいなすと、また
「
「なんなりとお申し付けください」
「うむ。朕の
空気が変わった。
太皇后はあまりのことに唖然としている。
ただ、貴太妃と皇帝の側近である太監は、顔をほころばせて頷いている。
「剣、と申しますと……?」
「朕の代わりに、その
「仰せの通りに。陛下の剣となり、祖国を護ってみせましょう」
「うむ! 決まりだな。では、これから
太皇后は怒りのあまり顔が赤黒くなっているが、太監と宮女に促されるようにしてその場から立ち去って行った。
貴太妃は満足そうにうなずき、まるで春のそよ風のように優雅な足取りでその場を後にした。
「……もういい?」
「いいぞ」
「ああ、疲れたぁ」
「上出来だったぞ」
「兄上、本当に『朕』って言うんだね」
「仕方ないだろ。皇帝なんだから」
二人は誰もいなくなった部屋で、お互いの所作を笑いながら近づき、その身体をぎゅっと抱きしめた。
「おかえり、
「ただいま、
身体を離すと、微笑み合い、座布団を持ってきて床に座った。
「本当に一度も
「貴太妃母上がわざと母上の気に障るようなことをして気を惹いてくれたからね」
「なるほどね。さすがは
「まったくだよ。申し訳なくて仕方ない」
「大丈夫だよ。
「さすがは龍神族。まるで魔術のようだな」
「便利だよ。鞄を持ち歩かなくてもいいからね」
慣れた手つきで
「ねぇ、さっきのどういうこと? どうして兄上を護っちゃいけないの?」
「だから、さっき言っただろう? お前の力を私だけのために使うのはもったいないって」
「でも」
「はいはい。
「命を狙ってくる兄弟たちよりも?」
「そういう言い方をするんじゃない」
「でも事実だもん。今も皇位を狙ってる馬鹿な兄弟がいっぱいいるじゃないか」
「それは仕方ないことなんだよ。話を聞けってば」
「むう。わかったよ。何? 気がかりなことって」
「どうも市井で起こっている事件や事故に、〈人間〉ではない何かが関わっている気がしてならないんだ」
「ああ……、そういうことか。兄上は霊能力があるから感じ取っちゃうんだね」
「私の力はそう強いものではないけれど、そうだな、うん」
「戦乱の世は
「
「そこまで悪い奴がいるの? 祥国に?」
「いや、
「うえ、そうなの? わたしが修行に出ている間にいろいろあったんだなぁ……。お師匠様は外界のこと何も教えてくれないから」
「仕方ないよ。修業に専念しないといけなかったからな。特にお前は人間じゃない。龍神族だ。力の使い方を学ぶ必要があった」
「それはそうだけど……。もっとはやくこうして兄上の力になりたかった」
「十八までは力が暴走する危険があると言われただろう? こうやって今一緒にいられることが大事なんだよ」
「へへへ。そうだね」
「そういえば、
「うん! 偶然、こっちに来る道中でね」
「偉いぞ」
「へへへ。
「たしかにな。貴太妃母上も大層喜んでいるだろうな」
「あとで
「それがいい。では、私はそろそろ公務にもどらなきゃならない。お前が自由に仕事しやすいよう、一応、隊という名目にして兵部には報告しておく。隊名もかんがえなきゃな」
「兄上が名付けて!」
「わかった。良い名前を考えておくよ」
「ありがとう。じゃぁ、わたしは
「そうするといい。貴太妃母上も、お前と過ごしたいだろうし」
「うん!」
「空が青いなぁ」
朝堂の屋根の上にその姿があった。
「飛んで行ったら目立つかな……」
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