第一章

第壱集:二十年前と現在

 春の陽気の中、雅な装飾と、『莅春りしゅん』と書かれた提灯が下げられた馬車が、ものすごい速さで森の中を駆けていた。

「長公主様! もうすぐ、もうすぐで金苑きんえんです!」

 御者が叫ぶが、中にいる莅春りしゅんは外の様子を窺い、侍女はただただ恐怖にうずくまっていた。

「おらおら! 潔く馬車を止めて有り金全部出しなぁあ!」

 馬車を追うのは五頭の馬に五人の盗賊。

 先頭を走っていた男が、槍を持ち、馬車の車輪に突き刺した。

 車輪は弾け飛び、バランスを崩した馬車は傾きながら地面をこすり、止まってしまった。

 御者は引きずり降ろされ、気絶するまで殴られている。

 残るは莅春りしゅん長公主と侍女の二人。

 男たちが馬車の扉を引きはがし、中から莅春りしゅんを引きずりだそうと手を伸ばしたその時、鋭い刃がその腕を切りつけた。

「な、なんだ⁉」

かく家の女がなんの武術も使えないとでも思ったか、下郎ども!」

 莅春りしゅんは剣を持ち、馬車から出ると、侍女を護るように盗賊たちの前に立ちはだかった。

「ほほほっ! 威勢がいい女は好みだぜぇ?」

「美味そうな身体してんじゃねぇか!」

「俺たちが可愛がってやるからよぉ、あんまり暴れんなよ!」

 莅春りしゅんは覚悟を決め、剣を構えた。

 手が震える。

 五人もの男を相手に戦うなど、初めてのこと。

 負ければ、身も心も危ない。

 その時だった。

 目の端を、美しい青い光が通り過ぎたのは。

「うわああああ!」

 盗賊の男が一人、斬り落とされた腕を凝視しながら倒れた。

「な、なんだてめぇは!」

 青い光は口元をにっと上げると、その問いには答えることなく男を次々と斬りつけ、莅春りしゅんが状況を把握した時には、すでに片が付いていた。

「あ、あの……」

「ふう。間に合ってよかったです。義姉あね上」

「……え?」

 目の前にいるのは少年と青年のちょうど中間にいるような男性だった。

 青光りするみごとな黒髪を一本の三つ編みに束ね、身に着けている紺碧の深衣はまるで夜空のよう。

 見たこともない美しい青年に「姉上」と呼ばれ、莅春りしゅんはあらゆる可能性を考えた。

 その中で、唯一思い浮かんだのは一つの名前と、遠い昔に遊んだ記憶。

 赫家において、もっとも特異な存在。

「あ、あなたは、もしかして……」





 赫皇かくこう五十年、秋。

 中原大陸において一番の大国であるしょう国の皇帝が、首都金苑きんえんにある皇宮内で、禁軍大統領、もとい、淑妃の実兄による謀反によって殺害された。

 遺体は無残な状態で、とても不思議なことに、すでに大部分が腐り始めていたという。

 大統領はなだれ込むようにやってきた皇帝の近衛兵である御林軍ぎょりんぐんによってすぐさま捕えられ、牢へと送られた。

 淑妃も捕えられはしたものの、共謀していた証拠は一切なく、皇后による厳しい追及の後、淑妃という称号を奪われ、離宮へ幽閉されることが決まった。

 皇后は、赤い髪に緑がかった黒い瞳が美しい淑妃のことを初めから憎たらしく思っていたため、本当は寒扇廷かんせんていへ送ってしまおうとしたのだが、官吏たちにとめられてしまったのだった。

 捕まっていた大統領は、一週間の後、斬首に処され、遺体は野山に捨てられた。

 国内の混乱を避けるため、すぐに皇太子が新たな皇帝として擁立され、即位することに。

 迅速に事が運んだのは、皇太子以外の親王および郡王たちが幼過ぎたからである。

 皇太子と皇位を争うには、年齢的にも、後ろ盾となる妃の実家にも、力が無さ過ぎたのだ。

 ただ、そうは言っても、皇太子もまだ十歳。

 実質的に政治を動かしていたのは、太皇后とその兄である宰相だった。


 先帝の崩御からおよそ一年経った赫皇五十一年、初夏。

 離宮にて事件が起こった。

 いや、すでに起こっていたという方が正しいのかもしれない。

 幽閉されていた妃が、男児を出産したのだ。

 太皇后は激怒した。

 妃の世話をしていた宮女や太監が、意図的に妃の妊娠を太皇后に隠していたからだ。

 亡き先帝の血をひく男児が生まれたことは、太皇后にとってはのちの脅威となる。

 太皇后はまず妃の周囲にいた宮女と太監を全員処刑し、それからその男児を殺そうと考えた。

 しかし、ここである種の幸運な悲劇が起きる。

 産後の肥立ちが悪く、出産から一ヶ月ひとつきも経たないうちに、妃が亡くなってしまったのである。

 後宮内はおろか、皇宮内にも同情の空気が流れた。

 ここで宮女や太監、そして男児の殺害に躍り出れば、太皇后の評判は失墜するだろう。

 どうしたものかと兄である宰相と作戦を練っていると、太皇后にとって最悪の報告がもたらされることになった。

 なんと、貴太妃が男児を引き取り、養子にするというのだ。

 亡くなった妃と貴太妃は同郷で、後宮にやってきたときからずっと姉妹のように支え合って生きてきた。

 こうなるのは自然な流れであり、皇宮内でも安堵の声が囁かれたほどだ。

 しかし、太皇后はそれを許さなかった。

 どうにか阻止しようと動き始めた時、あろうことか、それを諫める者が現れた。

 皇帝陛下である。

 皇帝は「弟には生きる権利があります」と言ったのだ。

 太皇后がいくら「将来、母親の境遇や死を恨んで謀反を起すかもしれないのですよ⁉」と説得しても、皇帝は弟の命を護ることを選んだ。

 皇帝は貴太妃を呼び寄せ、「義母上ははうえ、弟をよろしく頼みます」と、養育することを正式に認めたのだ。

 貴太妃は「命に代えても、お守りいたします」と誓った。

 このときの太皇后の顔は言い表せないほど歪み、まるで醜悪な鬼のようであったと、太監たちは噂したという。


 貴太妃はまるで実の息子のように愛情を注ぎ、男児を育てた。

 時折、亡き妃から託された手紙を宝物のように読み返しながら。

 貴太妃は男児の名を琰耀えんようとし、その名にふさわしく、彼は活発で輝く笑顔の美しい子に育っていった。

 ただ、順風満帆というわけではなかった。

 太皇后からの嫌がらせが日に日に激化していったからだ。

 貴太妃は、琰耀えんようが八歳になった日、父親のつてを使い、ある場所へと彼を連れて行った。

 そこは侠客が住まう仁義の地、江湖こうこ

 その中でも、この世のすべてが集まってくるという、江湖最大の派閥、禪寓閣ぜんぐうかくへ、琰耀えんようを修業に出すことにした。

 琰耀えんようは初めて見るあらゆることに目を輝かせ、この場所で学べることを大いに喜んだ。

 だが、やはりまだ子供。

 貴太妃が帰るときは、抱き合って涙を流した。

 その日から十二年間、時折琰耀えんように会いに行きながら、貴太妃は太皇后からの嫌がらせを躱し続けた。


 そしてついに、赫皇七十年。もうすぐ十九歳になる琰耀えんよう金苑きんえんへ、そして皇宮へと帰ってきた。

 立派な、武人となって。

 琰耀えんよう養母ははから贈られた紺碧の深衣を身に着け、招かれた場所へと向かった。

 大きな長い階段は、幼少期に見たまま、変わっていなかった。

 よく手入れが行き届いている。

 長く伸びた髪を一本の三つ編みに結い纏めているため、その横顔からも美貌が溢れ、すれ違う兵士や官吏たちの目を奪っていった。

 最上段までつくと、大きな扉の横にいる兵士に声をかけ、名を名乗った。

 兵士は大きく見開いた目で驚きを表すと、すぐに中にいる太監へと取り次いでくれた。

 中で、太監が琰耀えんようの号である「げい王殿下」と、高らかに発する。

 扉が大きく開かれ、豪華絢爛な意匠が施された室内へと入って行く。

 目の前に座しているのは祥国皇帝。

 その向かって左横には、憎しみのこもった鋭い目つきの太皇后と、慈愛にあふれた笑顔の貴太妃が立っていた。

「皇帝陛下に拝謁はいえついたします」

 良く通る、硝子の鐘の音のような透き通った声。

 床に片膝をつき、胸の前で握った右手を左手のひらで止めて頭を下げた。

「楽にしろ、琰耀えんよう

「はい」

 立ち上がり、まっすぐと見つめる。

 この国の主を。

「よく帰ってきてくれた。大きくなったな」

「ありがとうございます」

「貴太妃母上にも礼を述べねばなりませんね。弟を、立派に育ててくれました」

 貴太妃は瞳に涙を浮かべながら琰耀えんようを見つめ、皇帝へ深く礼をした。

琰耀えんよう、なんでもお前は……、ちんを護るための隊を結成したいとか」

 皇帝は琰耀えんようから受け取っていた上奏文を読み返しながら、問いかけた。

「はい。わたしはそのために強くなって帰ってまいりました」

「ふむ……。その努力は称賛に値する。朕もお前を誇りに思っているぞ。ただ、朕には御林軍ぎょりんぐんも禁軍もある。お前の力をさらに朕のために使うのは、いささかもったいない気がするのだ」

 琰耀えんようはまさかそんなことを言われるとは思っていなかったため、目を丸くして皇帝を凝視した。

「陛下のお言葉に何か文句でもあるのでしょうか」

 ここぞとばかりに太皇后が口をはさんできた。

「母上、琰耀えんようにそのような気はありませんよ」

 皇帝は太皇后を優しくいなすと、また琰耀えんようへと向き直った。

琰耀えんよう、実はお前に頼みたいことがあるのだ」

「なんなりとお申し付けください」

「うむ。朕のつるぎになってほしい」

 空気が変わった。

 太皇后はあまりのことに唖然としている。

 ただ、貴太妃と皇帝の側近である太監は、顔をほころばせて頷いている。

「剣、と申しますと……?」

「朕の代わりに、そのを示してほしいのだ。この祥国を潰さんと欲す者どもに」

 琰耀えんようの瞳がこれ以上ないほどに輝いた。

「仰せの通りに。陛下の剣となり、祖国を護ってみせましょう」

「うむ! 決まりだな。では、これから琰耀えんようとそのことについて話しがしたい。皆、席を外してはくれないか」

 太皇后は怒りのあまり顔が赤黒くなっているが、太監と宮女に促されるようにしてその場から立ち去って行った。

 貴太妃は満足そうにうなずき、まるで春のそよ風のように優雅な足取りでその場を後にした。

「……もういい?」

「いいぞ」

「ああ、疲れたぁ」

「上出来だったぞ」

「兄上、本当に『朕』って言うんだね」

「仕方ないだろ。皇帝なんだから」

 二人は誰もいなくなった部屋で、お互いの所作を笑いながら近づき、その身体をぎゅっと抱きしめた。

「おかえり、琰耀えんよう

「ただいま、玲耀れいよう兄上」

 身体を離すと、微笑み合い、座布団を持ってきて床に座った。

「本当に一度も露見しバレなかったんだね。わたしに会いに江湖に来ていたこと」

「貴太妃母上がわざと母上の気に障るようなことをして気を惹いてくれたからね」

「なるほどね。さすがは養母はは上。長年嫌がらせを交わしてきただけはある」

「まったくだよ。申し訳なくて仕方ない」

「大丈夫だよ。養母はは上は案外楽しんでいるみたいだから」

 琰耀えんようは「あ、お茶淹れるね」と言い、くうから茶器を取り出した。

「さすがは龍神族。まるで魔術のようだな」

「便利だよ。鞄を持ち歩かなくてもいいからね」

 慣れた手つきで茉莉花ジャスミン茶を淹れると、玲耀れいように差し出した。

「ねぇ、さっきのどういうこと? どうして兄上を護っちゃいけないの?」

「だから、さっき言っただろう? お前の力を私だけのために使うのはもったいないって」

「でも」

「はいはい。琰耀えんようが私を気遣ってくれているのはわかっているよ。でも、それよりも最近気がかりなことがあってな」

「命を狙ってくる兄弟たちよりも?」

「そういう言い方をするんじゃない」

「でも事実だもん。今も皇位を狙ってる馬鹿な兄弟がいっぱいいるじゃないか」

「それは仕方ないことなんだよ。話を聞けってば」

「むう。わかったよ。何? 気がかりなことって」

「どうも市井で起こっている事件や事故に、〈人間〉ではない何かが関わっている気がしてならないんだ」

「ああ……、そういうことか。兄上は霊能力があるから感じ取っちゃうんだね」

「私の力はそう強いものではないけれど、そうだな、うん」

「戦乱の世は魑魅すだま鬼魅きみが生まれやすいからねぇ」

妖鬼イャォグゥェイもな」

「そこまで悪い奴がいるの? 祥国に?」

「いや、妖鬼イャォグゥェイが現れたという報告は上がってきていないけど、どうやら他国は何度か被害に遭ったらしいぞ」

「うえ、そうなの? わたしが修行に出ている間にいろいろあったんだなぁ……。お師匠様は外界のこと何も教えてくれないから」

「仕方ないよ。修業に専念しないといけなかったからな。特にお前は人間じゃない。龍神族だ。力の使い方を学ぶ必要があった」

「それはそうだけど……。もっとはやくこうして兄上の力になりたかった」

「十八までは力が暴走する危険があると言われただろう? こうやって今一緒にいられることが大事なんだよ」

「へへへ。そうだね」

 琰耀えんよう玲耀れいように頭を撫でられ、嬉しそうに笑った。

「そういえば、莅春りしゅんを助けたそうだな」

「うん! 偶然、こっちに来る道中でね」

「偉いぞ」

「へへへ。養母はは上の子供ってことは、わたしにとっては本当の姉上同然だからね」

「たしかにな。貴太妃母上も大層喜んでいるだろうな」

「あとで義姉あね上にも会ってこようっと」

「それがいい。では、私はそろそろ公務にもどらなきゃならない。お前が自由に仕事しやすいよう、一応、隊という名目にして兵部には報告しておく。隊名もかんがえなきゃな」

「兄上が名付けて!」

「わかった。良い名前を考えておくよ」

「ありがとう。じゃぁ、わたしは養母はは上のところに行ってくる」

「そうするといい。貴太妃母上も、お前と過ごしたいだろうし」

「うん!」

 琰耀えんようは茶器や座布団を片付けると、玲耀れいように「またね!」と言い、一瞬のうちに消えてしまった。

「空が青いなぁ」

 朝堂の屋根の上にその姿があった。

 琰耀えんようは自分の周囲に浮かぶ五つの透き通った玉を指先でつつきながら呟いた。

「飛んで行ったら目立つかな……」

 琰耀えんようは誰にも見られないよう、屋根の上を音もなく飛び回り、自身の養母ははが待つ後宮へと向かった。

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