土曜日『暮雪(ぼせつ)』
『暮雪(ぼせつ)』
首元で切り揃えられた真っ白のショートヘア。翡翠色の瞳をしたあの子が、私を見つけて微笑み、手を振りながら近づいてくる。
「つちさん‼ こんばんは‼ 寒いね」
私が今まで出逢った中で一番美しい人。可愛らしい彼は、私をつちさんと呼ぶ。本名に全くかすりもしていなくて、お友達に呼ばれているあだ名でもなく、土曜日に出逢ったから、つちさん。彼がくれたかわいい名前を、私はとっても気に入っている。
夕暮れに降る雪を見て、まるで彼に出逢ったあの日みたいだと思い出し、口元が緩んだ。
「もしかして、アイデア浮かんだ?」
悪戯を思いついたような顔で首を傾げた彼・ゆきちゃんは、いつどこで見てもかわいくてかっこよくて、なんだかとっても愛しい、と思う。「ゆきちゃんに似合うアクセサリーを思いついたのよ」と笑い返すと、ゆきちゃんは私の肩に手を乗せて「今日作ってくれるの? 楽しみ‼」とまた綺麗に笑った。
私とゆきちゃんが出逢ったのは、土曜日。あの日も今日みたいに、夕暮れに降る雪が絵画のようで綺麗だった。
老後の楽しみ、今はビーズアクセサリー教室に通うこと。スマホやパソコンも教室で習って、この年にしては使いこなせるようになったと思った頃、市立会館でビーズアクセサリー教室の生徒を募集しているという張り紙を見た。次は何にしようかしら、と悩んでいたところで、これだわ‼ と思った私は、その日のうちに申し込みを済ませた。次の週に指定された部屋に足を運ぶと、私と同じような白髪のおばあさん達に紛れて、フランス人形のような子が座っていた。
「あらまぁ、綺麗な子。お人形さんかと思ったわ」
そのまま口に出していたようで、座っていたおばあさん達も「そうよね⁉ 私もびっくりしちゃった」と声をかけてきた。初めましての挨拶も程々に、真っ白のショートヘアのその子は「お隣に座ってもいいですか?」と聞いてきてので「いいわよ。どうぞ」と椅子を引く。「ありがとうございます」と笑った顔がとても綺麗で、また「綺麗ねぇ」と言ってしまった。ゆきと名乗ったその子はまた「ありがとうございます」と笑う。
先生との顔合わせが終わった後、それぞれビーズを選んで、作り方を教えてもらいながらブレスレットを作る。老眼用の眼鏡をかけ、一生懸命、糸にビーズを通した。大きめのビーズとはいえ、この年なると少し指が震えてきたりして、中々狙いが定まらない。
「ゆっくりでいいですからね」と先生に励まされながら、作り終えた時には、すごく達成感があった。スマホもパソコンもそうだったけれど、できるようになった喜びというのは、いつになっても嬉しいものだ。
「素敵ですね」と声をかけてきたその子・ゆきちゃんは、とっくの昔に作り終わっていたようで、周りを見ると、私以外の全員がブレスレット作りを終えていた。休憩にと、先生が入れてくれたお茶を飲んでいるところだったらしい。夢中になると周りが見えなくなるのは、若いころから変わらない。おっとりしていると言われるのは、こういうところがあるからだろうか。
「ありがとうねぇ。貴方のも素敵だわ。瞳の色と同じなのね」
ゆきちゃんの瞳は、宝石でいうと翡翠のような色をしていて、肌の白さと、つやつやで真っ白な髪も相まって、本当にフランス人形が、そのまま大きくなったように見える。
凛とした声と、すらっとした手足に、赤い爪。若い頃に憧れた女優さんみたいで、とっても素敵。私もそんな風になりたかったな。
「彼女が好きな色なんです」と頬を赤く染めて笑ったゆきちゃんに「あら、じゃあそのブレスレットはプレゼントするの?」と聞くと「はい。喜んでくれるかな……」と不安そうな顔をするので「きっと喜んでくれるわよ」と励ました。ゆきちゃんは「そうだったらいいな」とブレスレットを見つめた。何をしていても綺麗で、素敵だわ。
それからお茶とお菓子を頂きながら、先生と生徒の皆さんとおしゃべりをしていると、あっという間に二時間が過ぎた。先生は次の仕事があるらしく、皆で慌てて帰る準備をして、部屋を出た。先生が足早に帰って行ったのを見て「皆さんはこの後、用事とかあるのかしら?」と尋ねると、お買い物だったり、孫のお迎えだったり、また別の教室で習い事だったりと、皆さん予定があって、解散することになった。「また来週よろしくお願いします」と挨拶をして、皆さんを見送る。
私とゆきちゃんだけ残ったので「ゆきちゃんも何か予定があるんじゃないの?」と尋ねると「今日は何もないんですよ。あ、よかったらお茶して帰りませんか?」と誘ってくれた。私は「いいわねぇ。行きましょう」と言って、ふたりで商店街を歩いて駅まで戻る。
夕暮れに降る雪と、少し先を歩くゆきちゃんが、絵画のようで印象的だった。
ゆきちゃんとの出逢いを思い出しながら、彼と一緒に向かった先は、ビーズアクセサリー教室が開催される市立会館だ。今日も教室が終わってから、カフェでお茶をして帰る予定になっている。
毎週土曜日にビーズアクセサリー教室に通うのも、もうすぐ一年になる。私もめきめきと腕を上げ、教室で作ったアクセサリーやお家で作ったアクセサリーは、お友達にプレゼントするようになっていた。今日はゆきちゃんに作ってあげようと、意気込んでいる。
教室ではいつも通り、ゆきちゃんの隣に座って、黙々とアクセサリーを作った。完成したイヤリングを見たゆきちゃんは「素敵‼ 嬉しい‼ ありがとう‼」ととっても喜んでくれて、早速つけてくれた。綺麗だから何でも似合うゆきちゃんだけど、その瞳と同じ翡翠色が一番よく似合っていると思った。
先生にお礼を行って、皆さんに「また来週」と挨拶してから、ゆきちゃんとカフェに向かう。あの日から、ゆきちゃんとお茶をするようになった場所だ。
若い子が持っているカップが可愛らしくて気になっていて、ゆきちゃんに連れて行ってほしいとお願いしたそのカフェは、全国展開されたチェーン店だったらしく、色んな駅の近くにあると教えてもらった。自分がいかに周りを見ていないかがわかって笑ってしまった。ゆきちゃんに「どうしたの?」と聞かれ「いえ、別になんでもないわ」と誤魔化す。
ゆきちゃんは首を傾げていたが特に何も聞かずにいてくれて、メニューを持ってきてコーヒーの頼み方を教えてくれた。色んなコーヒーやミルクを選べて、キャラメルやホイップを追加するなど、沢山飲み方があると知って驚いた。種類が多くて何を選んでいいか迷った私は「ゆきちゃんのおすすめがいいわ」とお願いして、買ってきてもらった。
「ミルクにバニラシロップとエスプレッソを入れて、ホイップの上にキャラメルソースをかけた、キャラメルマキアートだよ」
……カタカナで呪文のようなことを言ったゆきちゃんをぼーっと見てしまったが、なんとか理解して「ありがとう。いくらだったの?」と聞くことができた。ゆきちゃんにお金を渡して、レシートを貰う。どこでいくら使ったと記録したいし、日記にも書きたい。それに、手を動かすのは脳のトレーニングになると、病院の先生も言っていた。
あの後、ひとりで何度かカフェを訪れたけれど、苦すぎたり甘すぎたりして、結局最初にゆきちゃんが買ってきてくれたキャラメルマキアートを頼むようになった。どれも美味しかったけれど、あれが一番好きなのだ。
今日もキャラメルマキアートを頼んで、席についた。毎回違うものを頼んでいたゆきちゃんも、今日はキャラメルマキアートの気分だったようで、私の分も持ってきてくれた。
ゆきちゃんはとても不思議な子で、この辺に住んでいるのかと聞けば、地名ではなく「少し遠く」と答えた。今の時代、スマホやパソコンで動画を見れば、教室に通わなくてもできるのに、私達のような年齢・世代ならまだしも、若い貴方が何故教室に通うのかと尋ねた時には、困ったように笑って、何かを誤魔化したように見えた。聞かれたくないのねと思い、無理には聞かなかったが、不思議なのはそれだけではない。こんなことをするのはよくないとわかっていたけれど、ゆきちゃんと別れた後、ゆきちゃんの後をつけたことが、何度かある……。それが、何度追いかけても、必ず同じ駅で見失うのだ。人が極端に少なく、改札まで一本道のトイレすらない駅のホームで、何故か見失ってしまう。一度だけ、その駅から出てみたが、やはりゆきちゃんの姿はどこにもなかった。私もついに呆け始めたのかしら……と思い、病院に行ったが、検査の結果は健康体であった。
しばらく色々考えていて、ひとつ思い出したことがある。私が小さい頃、おじいちゃんに聞いた話だ。
「ある街には、昔からとても美しい兄妹が住んでいて、その兄妹は普段滅多に外に出ないけれど、稀に街に現れる時がある。街に現れるのは決まって冬で、その時期には七人の人が居なくなる。だが不思議なことに、誰もそれに気づけない。気づいてはいけない。気づいたら、連れていかれるから。
幽霊か妖怪か、あるいは神様か……。まぁ何にしても、お外は危ないからねぇ。お友達と遊んでも、日が暮れる前には、家に帰ってくるんだよ。わかったね?」
幼少期はそれが怖くて、決まって夕方には帰路についた。高校生になってから、あれは子供が夜までに家に帰ってくるように、と先人が考えたおとぎ話だと気づいて、門限を破るようになった。だから今までずっと、忘れていた。あれがもし、本当だったらと考えるだけで身震いして、恐ろしくなった。気づいてはいけない。連れていかれるから……。
「ねぇ、つちさん。さっきからぼーっとしちゃって。話聞いてる?」
ゆきちゃんに声を掛けられたことに驚き、コーヒーを倒してしまった。太ももに零れたコーヒーは生温く火傷はしなかったけれど、スカートがコーヒーまみれになってしまった。急いで拭いても、時すでに遅し。机の上はゆきちゃんが拭いてくれて「ごめんなさいね」と謝りながら、自分のスカートを拭くが、コーヒーのシミはそう簡単には消えてくれなかった。外に出るには恥ずかしい位置に零してしまって「どうしましょう」と言うと、ゆきちゃんが「車で送ってあげるよ」と言った。私はおじいちゃんから聞いたあの話が忘れられなくて「いえ、上着で隠せば大丈夫だから。電車で帰るわ」と言ったが、ゆきちゃんの「いいから行こう?」という言葉に、従わなければいけない気がして「じゃあお願い」と言った。
おじいちゃんが言っていたのは兄妹で、ゆきちゃんはひとりだ。彼女がいると言っていたけれど、妹ではない。だから、きっと気のせいだ。そう思うことにした。
「つちさん、出ようか」
「ええ」と返事をして、あれ私いつから「つちさん」と呼ばれているんだっけ?と思った。最初からだった気もするし、最近な気もする。どうしてか、何を考えても、頭に靄がかかったように、考えがまとまらない。
「ほら、乗って。そう。頭、気を付けてね」
そうだ。ゆきちゃんの車に乗って、家まで送ってもらう。誰も居ないあの冷たい家に、帰る。いやだな。おじいちゃんも、おばあちゃんも、お父さんも、お母さんもいた、あの家に帰りたいな。それは、無理なんだっけ。どうして、無理なんだっけ。
車に揺られて、眠くなってきた。ゆきちゃんは、私の家がわかるのかしら。住所までは教えていないし、お家に来たことはなかったはずだけど……。
「つちさん、そのまま眠って。その方がいいよ。苦しまなくていい」
……ゆきちゃんが言うなら、きっと、そうなのね。
ピントが合わない目で微かに見えたのは、ゆきちゃんの綺麗な笑顔と、私があげたイヤリング。瞳と同じ、翡翠色。ああ、そうだ。思い出した。おじいちゃんのお話の続きを。
「その兄妹は、宝石のような瞳を持っているんだ。それがとても綺麗でねぇ。その瞳に見られると、ああ、死んでもいいや、と思ってしまうんだ。そんな危険な瞳だった」
突然居なくなった、私のおじいちゃん。貴方も、気づいてしまったのかしら…………。
今まで見た中で一番綺麗な翡翠色。ああ、死んでもいいや。こんな綺麗なものが見れたなら、この人生に悔いはないわね。
「…………ありがとう、つちさん」
土曜日の暮雪は、日暮れと共に、その姿を消した。
全身が黒に染まったゆきが帰ってきた。
昨日とは違い、玄関から「ただいま」が聞こえてくる。頭の中で「おかえり」と言う。
ゆきは大きな紙袋を持って自室に戻り、電話をする。
「土曜日が終わりました。明日で全て終了します。はい。また明日」
部屋着に着替えて、私の傍に寄ってくるゆきは、なんとなく楽しそうだった。昨日は泣きつかれて寝てしまったから、あの後ゆきが何をしていたか、私は知らない。
「明日で全部終わるよ。起き上がれるようになったら、俺のこと抱きしめてよね」
蕩けるような笑みで、ゆきは甘えてくる。私が小さく頷いたのを見て、ゆきは満足そうな顔をした。私が動けないのをいいことに、ゆきは私の頬を突いたり、手を絡ませたり、髪を撫でたりしてくる。
「これでやっと、自由になれるね」
ご飯を作ることも忘れて、ゆきはずっと私を見ていた。真っ白な髪も、翡翠色の瞳も、その名前にも、慣れるくらいの時間が経った。特にこの一年、ゆきは沢山仕事をしていて、私の傍に居る時間が少なくなっていたが、それももうすぐ終わるらしい。私の為だと解っていても、ゆきが傍に居てくれないのは寂しくて、この生活が終わる想像ばかりしていた。暖房は効いていても、温かい布団の中でも、静かで無機質な部屋に変化はなくて、私にとっては、ゆきだけが世界だった。これまでも、これからも、きっとそう。
「元気になったら、何がしたい? 俺はねぇ……」
ゆきは沢山話してくれた。やりたいこと、行きたい場所、食べたい物、全部ふたりで、がいいと「りっかに見せたいものがいっぱいあるよ」と楽しそうに笑うゆきを見て、安心する。ふたりで居れば最強‼ なんて笑った日が懐かしい。
ふと時計を見て「ヤッバ」と叫んだゆきが、キッチンに向かう。急いでご飯作って、食べて、お風呂に入って、寝ないと。明日の準備もある。そんなことを考えているのだろう。
慌ただしく動き回るゆきを見て、前にもこんなことがあったなと思った。あれはいつの記憶だっけ。どうでもいいことは思い出せるのに、大事なことが思い出せない。でも、どうして思い出せないかは知っている。それも、もう終わるはず。ゆきがそう言ったから。
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