金曜日『垂雪(しずりゆき)』
『垂雪(しずりゆき)』
首元で切り揃えられた真っ白のショートヘア。翡翠色の瞳をした彼が、僕を見つけて微笑み、手を振りながら近づいてくる。
「きんくん、また寝てないね? 隈ひどい。ちゃんと寝なよ」
僕が今まで出逢った中で一番美しい人。命の恩人である彼は、僕をきんくんと呼ぶ。本名に全くかすりもしてなくて、昔友達に呼ばれていたニックネームでもなく、金曜日に出逢ったから、きんくん。安直だがわかりやすい彼がくれた新しい名前を、僕は気に入っていた。
木の枝から滑り落ちる雪を見て、まるで彼に出逢ったあの日みたいだと思い出し、口元が緩んだ。
「珍しくご機嫌じゃん」
優しい顔で首を傾げた彼・ゆきは、いつどこで見てもかっこよくて、とても愛しい、と思う。「いや冬は無理。死ぬ」と自虐的な笑いを返すと、ゆきは僕の腕を掴んで「また止められたい?」と悲しそうに笑う。その顔が綺麗だった。
僕とゆきが出逢ったのは、金曜日。あの日も今日みたいに、木の枝から滑り落ちる雪を見た……違うな。パラソルから僕の頭に雪が落ちてきたんだった。
誰にも必要とされないのに、生きている意味とはなんだろう。頭にあるのは常に絶望で、光など見ても焦がれるだけだ。助けてくれと願っても、中途半端で不完全な救いのほうが負担になることもある。考えたくなくても思い出してしまう。新鮮な恨みと憎しみが増していくのを止められない。いっそ死んだほうが楽なのでは、と考えて、最後に面接に落ちた企業のビルの屋上に上がった。鍵が掛かっていないのは、休憩所として利用されているからだろうか。雪が積もって一面真っ白になった景色を見て、他人への迷惑などどうでもよくなった。どこで死んだって結果は同じだ。終わりが来るだけ。明日の見えない生活に嫌気が差して、自殺を選ぶ人間がどれくらいいるか。年間二万人から三万人を超える人が同じ選択をしたのだと思うと、特別なことでもない気がした。夜明けを待てない人間もいる。生きているほうが迷惑だろうと言い聞かせて、柵を超えた。
「うわ‼ 何してんの?」
声のほうに振り返ると、一面の白に同化した人らしきものが立っていた。少し嫌そうな雰囲気で、手に持っていた入れ物をテーブルの上に置いた。ベンチに積もった雪を払い、タオルで少し拭いてから、その人? はベンチに座った。
「ねぇ、暇なら、そんなとこにいないで、こっち来て。ちょっと話聞いてくんない?」
そう言って、ベンチをぽんぽんと叩く。見下げた先、想像したより地面までかなり距離があって、ビビって腰が引けた僕は、話を聞くくらいならと理由をつけて、その人? のいう通りにした。また柵を乗り越えて近寄っていくと、その人は髪が真っ白で、瞳は翡翠のような緑色だったことを知る。緑は安全の色だったか。目が離せないまま、ベンチに座ろうとした瞬間、パラソルの上に乗っていた雪が、僕の頭に落ちてきた。その冷たさにびっくりしすぎて固まった僕を見て、その人は大笑いする。
「あっははは。なに? もう、はははっ……」
雪を振り払う僕を見ながら、彼はずっと笑っていた。ツボにハマったのか、しばらく笑い続けてから「愚痴とか飛んじゃった。おもしろすぎ」と、また笑う。気が抜けて、自分でも笑えてきて、さっきまでの絶望感も忘れた。
「とりあえず座りなよ。おでん食べる? あ、卵はダメだからね」
その人がテーブルの上に置いていた入れ物の蓋を開けると、中身はおでんだった。二つあるのに卵はダメらしい。タイミング良くお腹が鳴って、断れなくなる。
「じゃあ、ちくわで」
四つ入っていたちくわの二つを蓋に移して、多めに入っていた箸を渡してきたその人は、ゆきと名乗ったので、僕も名乗った。
「俺のことはゆきって呼んで。あ、君はきんくんね」
「え? きんくん?」
「今日金曜日でしょ? さっきまでの君は死んだから、今俺と話してるのは、きんくん」
安直だがわかりやすいと思った。訂正するのも面倒だし、何より「さっきまでの君は死んだ」と言われたことで、肩の力が抜ける。抱えていた重荷が下りたような気がして、少しだけ気が楽になった。分けてもらったおでんは温かくて、久々に味わって食べることができた。ここ数か月ストレスで味覚がおかしくなっていた僕は、食事を楽しめなくって、栄養補助食品のゼリーとクッキーと水で腹を満たしていた。数か月ぶりに感じた味に「おいしい」と口にすると「だよねー。やっぱおでんはコンビニに限るわ‼」と、隣に座ったゆきは笑った。遠目では雪と同化していてわからなかったが、綺麗な顔立ちをしている。美醜に興味のない僕でも、ゆきが綺麗な人だということは一瞬で理解できた。
ゆきとの出逢いを思い出しながら、彼に手を引かれて向かった先は、学生時代通っていて、再び通うようになったカラオケだ。ゆきにおでんを分けてもらったあの日も、食べ終わった後はカラオケに連れていかれた。
「ストレス発散に一番効くのは、絶対カラオケ‼ 大声で叫びまくったら、大体のことはどうでもよくなるって、相場で決まってるから」
と半分わかるが半分わからないことを言ったゆきに連れていかれて、毎週金曜日はゆきとカラオケに行くようになった。
学生時代は通っていたカラオケに行くのをやめたのは、大学の新歓でカラオケに連れていかれて、出逢ったばかりの先輩や同輩から音痴だと馬鹿にされ、心が折れてしまったからだった。だからあの日も「僕は音痴だから」と言って断った。けれど、ゆきには「そんなの関係ないよぉ。上手に歌うのが目的じゃなくて、叫ぶのが目的なの。それに、叫びたくなったら叫べばいいよ。それまでは、俺の歌聞いてて?」と勢いに押されて、ゆきの歌を何時間も聞かされることになった。ゆきの歌は歌手レベルに上手くて、ライブを楽しむ感覚になり、オレンジジュースを啜りながら聞き入ってしまった。「この後に歌うのはちょっと」と気が引けたが、緊張しながら歌い出したものの、一曲が終わると、ゆきが「全然音痴じゃないじゃん‼」と言ってくれて、出逢ったばかりでもこんなに違うことを言われるなんて、と感慨深くなった。
毎週カラオケに通うのも、もう一年になるが、飽きが来ないから不思議だ。相変わらずネガティブな思考は振り払えないが、カラオケがいいストレス発散になっていることは認めざるを得ない。ゆきは邦楽から洋楽まで、色んな歌を歌う。英語の発音も完璧で、毎回タダでライブに行ったような爽快感があり、ゆきはすごいなと感心する。
「ゆきって、できないことないんじゃないか」
ふと言ったその一言に、ゆきが黙るとは思わなくて「あー、えーっと……ゆきって、何でもできて、すげぇなって思って」と付け加えると、ゆきは下を向いて「できないこともあるよ」と言った。ガクンと頭を抱えて「なんで上手くいかないんだろう」と呟く。ゆきと出逢って一年、ゆきが悩んでいる姿なんて一度も見たことがない。何もかもが完璧な奴っているんだなと思っていたのに、僕に話していないだけで、人並みに悩んだりするのだろうか。目の前で悩んでいる姿を見ても実感が湧かなくて「逆に何ができないんだよ」と聞いてしまった。斜め前に座っているゆきが少し顔を上げてこちらを見る姿が、獣が獲物を狙っているような視線に見えて、背筋がゾクっとした。テーブルに視線を戻したのを見て、ホッと胸を撫でおろす。なんだったんだ、今の。
「俺、今週失敗ばっかりなんだ。どっか似てる人を集めたら、少しでも気が紛れるんじゃないかと思ったんだけどさ……逆だったよ。違いが目について、本当嫌になる」
ゆきが何の話をしているのかわからない。それに何故か、理解してはいけない気がする。
「俺はさぁ、………さえ居ればそれで…………。……はわかんな……な。ごめ…。……も、………では、……になれ……思……らさ」
急にゆきの声が遠くなって、視界がグラグラと揺れる。大量の酒を飲んだ時みたいな酔いに襲われて、ソファに倒れ込んだ。
「そうそう、それでいいんだよ。ごめんね。しんどいよね」
ゆきは納得したように、僕の背中を摩った。何が起こっているのか、理解できない。激しい頭痛がして、吐き気が止まらない。次第に息が苦しくなって、ゆきに助けを求めるが、揺れる視界の中見えたのは、ゆきの優しい笑顔だった。この状況に相応しくない、恐ろしいほど美しいその表情に、時が止まったような気がして、寒気がした。
「俺が止めちゃった分、大事にするから許してよ」
意味深な言葉を呟いたゆきが、鞄の中を探る音がする。本能的に危機感を感じて「やめろ、何するんだ」と言いたかったが、抵抗できないまま首に何かを打たれて、ドクッと心臓が跳ねた。気持ち悪さがなくなった後、ものすごい眠気に襲われる。
俺、ゆきに何かしたかな。おでん分けるの嫌だったかな。それとも、聞くに耐えない音痴だったとか……。そんな理由で、こんなことする奴じゃないよな。ゆきの考えてることは、最初からずっとわからなかった。ただ、最後にハッキリ見えたゆきの顔は、誤魔化しようのないくらい綺麗な笑顔で、僕の友達は人間じゃなかったのかもしれないと思った。
金曜日の垂雪は、重さに耐えられず、落ちていった。
全身が黒に染まったゆきが帰ってきた。
「ただいま」と言って、大きな紙袋を置いて、黒いスニーカーを脱ぐ。部屋に戻って、電話するのかと思ったら、ゆきは真っ直ぐこっちに歩いてきた。
「りっか、俺やるべきことがわかったよ」
立ったままのゆきを見上げると、昔みたいに無邪気に歯を出して笑うゆきが居た。今までも嫌な予感はしていたけれど、これは今までのとは違う。ゆきが危ない。そう思うのに、声は出ないし、こんな時に限って腕すら持ち上がらない。ゆきが考えていることはわかる。だから、絶対にやめてほしい。ゆき。それは解決にはならないよ。解ってるでしょう?
「……大丈夫だから。電話してくるね」
私が何を言いたいのかわかっているくせに、無視して自分の部屋に戻るゆきを見て、苛立つ。自分が犠牲になればいいって思ってるのかも。前はまだ動けたから止められたけど、今回は体が動いてくれないから、止める術がない。考えろ。何をしたら、思いとどまる? 視界の中に見つけたのは、テーブルの上に置かれたライターだった。重い体を無理やり動かして、横を向くことはできた。アカギレで血が滲んでいる左手を伸ばして、届けと願う。もう少し、というところで、バランスを崩す。バタンと大きな音を立てて、ベッドから落ちた。焦ったような足音が近づいてくる。
「何してるの⁉ 大丈夫? 痛かったでしょ。鼻血出てる……」
抱き起こしてくれたゆきの心配を無視して、私はライターに手を伸ばす。だが当然の如く気づかれて、ゆきの声色が変わる。
「本当に何してるの? ライターなんて、何に使う気だったわけ? ねぇ、答えて」
翡翠色の瞳が私を射抜く。私の気持ちを伝えようと、はくはくと口を動かして、辛うじて出た声はものすごく小さかった。
「も…、……り…し……?」
私の口元に耳を寄せたゆきは、その言葉が聞き取れたようで、瞳が零れそうなほど見開いて、眉を寄せた。私はゆきを助けたいのに、傷つけてしまう。
「そんなの、駄目だよ。あと二日で終わるから、そんなこと言わないで。ゆきはりっかと離れるなんて嫌だ、嫌だよ……。絶対離さないから。ずっと一緒に居てよ、りっか」
そう言って私をきつく抱きしめるゆきが、泣いているのがわかった。ぐすぐすと聞こえてくるその音すら愛しくて、自分の無力さが悔しくて仕方ない。
「今が難しいのなら、来世でも」なんて願いは、ゆきの正しさではないのだ。ゆきは今じゃなければ駄目だと思っている。未来なんて不確定なものよりも、今という確実さを取ったのは、私が考えた結末を迎える為じゃない。ゆきの望みを叶えると決めたのを忘れていた。そうだ。ゆきに任せれば上手くいく。今までだって、ずっとそうだった。だから、大丈夫。そう信じることが、私にできる唯一のこと……。
「俺はりっかを愛してるよ。りっかだって俺を愛してくれてるでしょ。なら、信じてよ」
月に照らされた翡翠と、そこから流れる涙がきらりと光る。ああ、この人はどうして、こんなにも強いのだろう。ひとりでいると嫌な想像ばかりしてしまうのに、この瞳を見ると、良い結果になると信じられる。不思議な魅力を持つ彼の、宝石のような瞳が好き。無邪気な笑顔も、綺麗な笑顔も、ぐちゃぐちゃの泣き顔だって、私には全てが愛しく見える。この人に生かされて、この人に殺される。そういう幸福を願っていた。彼がまだだというのなら、まだ終わりではない。彼がずっとと言えば、ずっとなのだ。彼は私にとって正しさで、私にとって神様のような存在だから、その「信じて」を受け止めることにした。
「あ……て…」
先程よりも小さくなった声も、ゆきはちゃんと聞いていて「うん、うん。俺も」と私を強く抱きしめた。秩序があるから自由がある。罪があるから罰がある。私が世界から彼を奪ったのだから、その代償は私が払う。離れ離れになるよりはいい、と言い聞かせて……。
ふたりで沢山泣いて、疲れて寝てしまったりっかを、そっとベッドに寝かせる。丸いおでこにキスを落として、少し赤くなった頬を撫でた。時間の感覚がなくなるほど眠らなければいけなくなったのは、何もかもが足りないからだが、その穴を埋めるのは俺でいい。
大衆が思い描く普通の幸福なんて、俺達には似合わない。
人道に反していても構わない。全ては何かの犠牲の上に成り立っていて、それを理解していて尚、人はそれを見て見ぬフリをして生きている。だから、皆とやってることは同じ。誰も特別ではないと気づいた時、俺達はふたりで特別を作った。それを守りたいだけなのだ。正義の反対は、悪ではなく別の正義だと、証明し続ける。世界が俺からこの子を奪おうとするなら、俺は全力で抵抗する。絶対に奪わせない。何を犠牲にしてでも。この子はもう俺の一部で、俺ももうこの子の一部だから。この子が居ない世界では、俺は息すらできないと解っている。それはきっとこの子も同じ。全てが上手くいく世界では味気なくて、多少の障壁にはむしろ燃えるものだ。今までだって、そうやって生きてきた。信念を貫いたから、この子と出逢えた。
「大丈夫だよ。りっかにはゆきが居る。ゆきにもりっかが居るから、大丈夫なんだよ」
りっかの表情が少しだけ柔らかくなった気がして、口元が緩んだ。
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