木曜日『吹雪(ふぶき)』

『吹雪(ふぶき)』


 首元で切り揃えられた真っ白のショートヘア。翡翠色の瞳をしたあの子が、私を見つけて微笑み、手を振りながら近づいてくる。

「もっちゃん、おはよう。今日は体調大丈夫?」

 私が今まで出逢った中で一番美しい人。大好きな友人である彼女は、私をもっちゃんと呼ぶ。本名に全くかすりもしてなくて、病院で呼ばれているニックネームでもなく、木曜日に出逢ったから、もっちゃん。ユニークな彼女がくれたかわいい名前を、私はすごく気に入っている。

「元気‼」と返事をして、車に乗せてもらってから、発進したものの、すぐに吹雪で前が見えなくなって、まるで彼女に出逢ったあの日みたいだと思い出し、口元が緩んだ。

「なんかおもしろいことでもあった?」

見守るような優しい顔で首を傾げた彼女・ゆきちゃんは、いつどこで見てもかわいくてかっこよくて、なんだかとっても愛しい、と思う。「吹雪ヤバいなと思って」と笑うと、ゆきちゃんは私のほうを見て「確かにヤバい。何も見えないね」と無邪気に笑った。



 私とゆきちゃんが出逢ったのは、木曜日。あの日も今日みたいに、外は一面吹雪で何も見えなかった。


視界を遮るほどの吹雪で、窓がガタガタと風に揺れている。部屋の中へ視線を戻して「今日寒いなぁ」と独り言を呟いた。長い闘病生活の中で一番の楽しみと言えば、絵を描くことと、動画配信アプリでひたすらドラマを見まくることである。インターネットやSNSの普及は、病院という鳥籠から出られない私にとって、とてつもない恩恵だった。こんなに神に感謝したことはない。

幼少期から何度も入退院を繰り返して、高校に上がる頃、ついに長期入院が決まった私は、決まったその時に全てを諦めた。この不自由な体では、自由に世界を歩くことはできないと悟ったのだ。ただ不思議なのは、私は絶望などしなかった。鳥籠の中を自分の領域にするのは得意だったから。というのは建前で、病院内での移動に使う車椅子で色んな階に遊びに行くという日課があった。本当は部屋にいなければいけないし、勉強もしなくちゃいけないけれど、検温や検査の時はちゃんと部屋にいるし、基本的にはずっと暇なのだから少しぐらい‼ と駄々をこねまくって、院長からも許可を得た。

毎日飽き飽きする病院での生活に、ずば抜けて早い回線が実装され、私は部屋に籠るようになった。勉強とリハビリ以外やらなきゃいけないことがなかった私にとって、海外ドラマというものは革命だった。だってものすごくおもしろかったから。特に医療モノが大好きだ。毎日病院にいるのに何で医療ドラマ? と言われたことがあるが、逆である。先生とも看護師とも患者とも話せる環境で、医療ドラマは「私の知っている世界」だった。勉強せずとも色んな用語が耳に入ってくる。こんな環境で見るドラマは、実にリアルで、かつ夢が溢れたフィクションとして完璧だった。私にとって、外の世界はフィクションすぎて、リアリティが感じられない。医療ドラマを見た後だと、病院にいる人達にも一つ一つの物語があって、抱えた闇も、焦がれた光もあるのだと知れた。物語の中のモブでしかなかった自分が、主人公になれる気がした。だから、あの日の衝撃はヤバかった。

「入るよー」

間延びした可愛らしい声を聞いて「こんな声の友達居たっけ?」と扉のほうに視線を移した瞬間、目に飛び込んできたのは、真っ白な女神だった。

「あれ? すみません。ここって1350号室じゃ、ない、ですか?」

困ったように首を傾げて、こっちを見つめる女神は、聞き間違いでなければ、部屋番号を間違えて訪ねてきたらしい。

「……1350号室は一つ下の階ですけど」

「そうなんですか⁉ すみません、間違えちゃった。失礼しますね」

扉を閉めて去ろうとする女神を呼び止めようと声を出して、普通に間違えた。

「待って‼ 女神‼」

「え?」とまた困った顔をしてこっちを見た女神の目は、翡翠のように美しく、よく見れば雰囲気だけでなく、マジでとんでもない美人だった。

「綺麗なお姉さん‼ 私とお友達になってくれませんか⁉」

突然のことに驚きを隠せないようだったが、女神もとい綺麗なお姉さんは、クスクスと笑って「いいですよ」と言ってくれた。ほら、やっぱり私は主人公で、出逢いから物語が始まるのだ‼ と希望に満ちた私は、片足が動かないことなど忘れて、お姉さんに駆け寄ろうとして見事に転んだ。床に倒れ込む前に、部屋に駆け込んできたお姉さんが、私を受け止めてくれたおかげで、膝や顔を強打せずに済んだ。このお姉さん、走るの早っ。てか、めっちゃいい匂いする。薬品臭い病院では嗅いだことない匂いがする。

「大丈夫? 看護師さん呼びますね」

「このくらい平気‼」

「でも……」と結局看護師を呼ばれたが、色々見られている間もお姉さんは待ってくれた。引き留めてしまったが、お姉さん元々下の階の人のお見舞いに来たのでは? と思って「お姉さん、時間大丈夫なの?」と聞いたら「今日は一日いるつもりだったから、大丈夫」と笑った。綺麗だ。この病棟の患者一かわいい紗矢ちゃんと、この病院の看護師一美人の谷口さんを足したぐらい、綺麗だ‼ すごい‼


 ゆきちゃんとの出逢いを思い出しながら、ゆきちゃんの車で向かった先は、物語の始まりのような出逢いを果たした病院である。私はあれから三か月後に別の病院に移動することになって、今日はまた前の病院に戻るのだ。木曜日だったから、無理言ってゆきちゃんに送り迎えを頼んだ。本来なら家族が迎えに来るか、タクシーを使うが、私は身寄りのない子供で、正直病院代を出してくれている人の顔すら知らない。親戚だと思うが、思い当たる人はいない。なんかわからないけど病院生活を続けているし、定期的に差し入れが届く。誰も来ないが。よっぽど私に会いたくないのだろうか。病院代出してくれてるなら、私の経過気にならないか? 気にならないんだろうな。まぁどうでもいいけど。

 絵を描く趣味ができたのは、差し入れでキャンバスとノートとアクリル絵具のセットをもらったからで、海外ドラマにハマるきっかけになったのも、差し入れでもらったタブレット端末に入っていた、月額制の動画配信アプリである。十二色どころか五十色ぐらいある絵具を貰った時に「なんで?」と声に出したが、月額制の動画アプリに普通に登録されてるのを見てまた「なんで?」と言った。顔も知らない親戚が優しくて助かる。誰か知らないけどありがとう。愛してるぜ。

朝起きて、検温とか色々して、ご飯食べて、絵を描いて、車椅子でうろうろして、たまに爆走して怒られて、部屋に戻って、昼ご飯。海外ドラマを見てたら、またすぐに検温云々……。夕方にリハビリ室でちょっとだけ動いて、部屋に戻って晩ご飯、その後また検温やらなんやら。ちょっとだけ勉強してから、海外ドラマを見る。消灯時間を過ぎて「まだ見てる‼ 早く寝なさい‼」と叱られる所までセットの、ほとんど毎日、同じ生活。勿論楽しかったけれど、ゆきちゃんと出逢ってからは、特に木曜日が楽しみで仕方ない。毎週お見舞いに来てくれる家族も友達もいなかったから、ゆきちゃんが来てくれるのが、本当にとっても楽しみで、病院が変わってもめげずに通ってくれるところも、毎回色んなお話を聞かせてくれるところも、大好きだ。

だから、ゆきちゃんの日常には踏み込まないようにしている。大きな手術があるのが水曜日だった時に来てくれなかったことも、最初に間違えたと言っていた下の階の1350号室には誰も入院していなかったことも、私が描いたゆきちゃんの絵は全部、絶対に持って帰ることも「なんで?」って聞いてしまったら、もうゆきちゃんが来てくれない気がしたから、言ってはいけないのだと心に刻んだ。


「ゆきちゃんの瞳は翡翠みたいだよね」

「それ、よく言われる」

一面を覆いつくす吹雪で、不明瞭な視界の中、ゆきちゃんの運転する車はゆっくりと進んでいく。前も後ろも右も左もわからない、白で埋め尽くされた山道は、興味本位で見て後悔したホラー映画に似ている。

「翡翠って、不老不死とか、生命の再生をもたらす力があるって知ってた? 宝石言葉っていうのがあってさ。幸運・幸福、あと長寿、健康、徳って意味もあるんだ。ゆきちゃんがお見舞いに来てくれてから、私の寿命も延びてる気がするし、私にとってゆきちゃんはやっぱり女神だなぁ。あ、そうだ。翡翠は、別名にインペリアルジェイドって名前があるの‼ かっこよくない?」

いつもみたいに笑ってくれると期待してゆきちゃんを見たが、ゆきちゃんは真っ直ぐ前を見ていて、目が合わない。それに、笑ってない。その翡翠の瞳から、光が消えている。

「この世とあの世を繋ぐ効果があるって話も、あるんだってね」

「……そ、そうなんだ」

物知りなゆきちゃんでも知らないと思って話題を振ったが、どうやら私より詳しかったらしい。ゆきちゃんはただ前を見て、ゆっくりと瞬きをする。時間すら忘れてしまいそうで、私は「病院までどのくらいかかるだろうね」と言いながら、設定されていたナビを見た。そういえばさっきからナビの音声が機能してないと気づいて、よく見たら地図が表示されてないどころか、砂嵐に変わっていてナビ自体がバグってるっぽい。

「ナビついてないけど大丈夫?」

「ああ、大丈夫。行く場所はわかってるし」

病院まで一時間はあるはずだ。この吹雪ではもっと時間がかかるかもしれない。タブレットを確認すると、圏外になっていて、時間の表示が消えていた。こんなこと、今までなかったのに、どうして? ゆきちゃんは平然としていて、なんだか少し怖くなった。

「あの、ゆきちゃん。変なこと聞くけど、病院に向かってるんだよね?」

病院の送り迎えを頼んだのだから、当然そうなはずだけど、いつもと違うゆきちゃんの様子と、白く染まった視界に、言い知れぬ違和感と恐怖が拭えない。

「病院じゃないって言ったらどうするの?」

こっちを見たゆきちゃんの顔は表情が抜け落ちていて、大好きだった翡翠色の瞳に見られ、蛇に睨まれた蛙の気持ちが解った。

「なんで?」と聞いてどうにかなるのか。今までずっと聞くことを我慢していたのに、どうしてこんな時に限って、聞きたくなってしまうのだろう。

「私達が出逢った日、ゆきちゃんは1350号室に行くつもりだったんだよね。私、あの後1350号室に行ったの。誰も居なかったんだよ。ゆきちゃん、あの日はなんで……」

急ブレーキをかけて、車が止まる。こっちを心配する素振りもなく、ゆきちゃんは後部座席に置いた自分の鞄から何かを取り出して、私を見た。

「やっぱ今回おかしいよ。そんな疑問、普通は感じないようになってるのに」

意味のわからないことを言っているゆきちゃんが、やはりいつもとは別人に見えて、私は車を出ようと扉の取っ手に手をかける。しかし、何度やっても開かなかった。

「しかも日に日に酷くなってる。木曜日でこれなら、明日は……」

木曜日、ゆきちゃんと会える日。ゆきちゃんと話をして、ゆきちゃんを描く日。私の絵を気に入って、持って帰るのだと思っていた。でも、そうじゃないなら?

「……本当にこんなんで助かるのかなぁ」

振り絞るような寂しそうな声に、振り向くと、ゆきちゃんは私を見ていた。いや、違う。私越しに、誰かを見ていた。ゆきちゃんが大事にしているのは、私じゃないと感じる。

「もっちゃん。一番あの子に似てたけど、違うね。わかってたんだけど、しんどいなぁ」

ゆきちゃんは私の希望で、光だった。鳥籠から飛び立てない私に、色んな話をして世界を見せてくれる幸運の女神様。その慈愛が、自分に向けられたものではなかったと知ったから何だというのだ。私はそれでも、ゆきちゃんのことが大好きだと、強く思う。

「大事に使うから、安心してよ」

「何を」と問う前に、視界が霞んで、体から力が抜けていく。手術前の麻酔みたいだと思って、ゆきちゃんがさっき鞄から出したのは注射器だったんだと気づいた。きっと私がいなくなっても、誰も探さない。顔も見たことがない親戚と、たかが病院での付き合いの患者や看護師、先生たち。皆のことが好きだったけど、でも寂しかった。皆には家族がいるのに、私はずっと一人。それを変えてくれたゆきちゃんの役に立てるなら、命なんて惜しくない。笑え。あの日、ゆきちゃんが笑ってくれたみたいに。

「いま笑えるなら、きっとあっちでも元気にやれるよ」

私、主人公じゃなくてもいいや。ゆきちゃんの人生という物語のモブだったら、喜んで引き受けるよ。これでやっと、鳥籠から出られるんだ。私は、ゆきちゃんの綺麗で愛らしい、子供みたいに無邪気な笑顔が好き。それだけじゃ、駄目かなぁ。



 木曜日の吹雪は酷く、ついに何も、見えなくなった。



 全身が黒に染まったゆきが帰ってきた。

「いつもと違うって言ってんだよ。こっちは契約通りに動いてるんだから、そっちもちゃんとして。契約破棄なんてしないから。……はい。木曜日が終わりました。また、明日」

電話をしながら帰ってきたゆきは、玄関で止まって、こっちに手を振りながら相手に詰め寄った。電話が終わり、一つ溜息をついてから「ただいま」と言う。今日も「おかえり」の声は出ないけれど、目線で伝わったみたいだ。大きな紙袋を持って自分の部屋に戻り、着替えてきたゆきが、私が寝ているベッドの横に座った。

「大丈夫。もうすぐ終わるからね」

私の髪を撫でるゆきの表情は柔らかく、先程までの剣幕はどうしたのかと思った。愛しそうに見つめてくる翡翠色の瞳を見て「緑は嫉妬の象徴だったな」と思い出す。電話の相手も、毎日会う人達も、私と違ってゆきと普通に話せるのが羨ましい。一向に良くならない体調も、ゆきが何とかしてくれると言っているけれど、日に日に弱っていることを感じている。月曜日には死期が近いと悟ったのに、もう忘れかけていたことに驚く。

「ゆきが私を忘れて、他の誰かと幸せになれるのなら、私はそれでいい」

本当にそうだろうか。私はゆきとずっと一緒に居たい。叶うかもわからないことに時間をかけるなら、それに費やす時間を、一緒に過ごしてほしいと思っている。もうすぐ死ぬのなら、ずっと一緒が無理なら、せめて今だけでも。けれど、そんな想いは伝わらなくて、ゆきはまた明日の準備をする。明日は金曜日。もうすぐ一週間が終わる。

世界の理に抗わず、掟に従っていれば、こんな代償を受けずに済んだだろうか。もしもの話ばかり思い浮かんで嫌になる。





 水曜日の朝、隣に寝ているゆきを見て、涙が出た。

ゆきはここにいるべきじゃない。私の為にやってくれている今の仕事よりも、もっとずっと大事なことがある。私が貴方を愛しすぎてこうなってしまったのなら、もう終わらせてあげたい。ゆきはどうして……。ああ、馬鹿みたい。ゆきが今の仕事をしているのは、私とずっと一緒に居る為だ。それを知っていて、私は何もできない。「おかえり」と出迎えて抱きしめることも、優しく頭を撫でてあげることも満足にできないのに、終わらせることなんてできやしない。人の生に縋った罰なら、あちらに行けば前みたいに笑えるだろうか。いや、それはゆきが許さない。私が生きることを一番望んでいるのがゆきだから、裏切るなんてできない。ベッドから起き上がることすらできない私と一緒にいることが、ゆきの負担になっていないだろうか。ゆきは優しいから「一緒に居られるなら、何でもいいよ」と笑うんだろう。ゆきの考えていることなんて、私にはお見通しだ。

だからこそ、ゆきが私を置いて出て行った先で会っている人達のことも、気の毒になってくる。今まで犠牲になった人は何人いただろう。これから犠牲になるのは、あと何人だろう? あの人達にだって、人生があったはずなのに……。

「泣かないで、りっか。笑ってよ」

いつの間にか起きていたゆきが、おでこにキスをくれる。溢れる涙を拭って、頬を撫でてくれた。他人の人生を奪ってまで、私が生きることは、正しいとは思えないけれど、ゆきにとっては正しさなのだ。それに、逃げてきた私達には、お互いしかいない。あの日願った幸福はこういう意味じゃなかったんだよ、なんて言っても、もう変えられはしない。

「りっかのせいじゃないよ。俺が勝手にやったことだから。ね、笑って」

泣くのを我慢して、喉が鳴った。一生懸命笑っているつもりだけど、もうほとんど感覚がないからわからない。口角ぐらい上がってたらいいな。

ねぇ、ゆき。私は、短い時間でもゆきと居られるなら、それでよかったんだよ。私達きっと、お互いを知る時間が少なかったね。必死すぎて見えないことが多すぎた。今更どうしようもなくて、前に進む以外の道は残っていなかったのだと、知ってしまった。

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