水曜日『回雪(かいせつ)』

『回雪(かいせつ)』


 首元で切り揃えられた真っ白のショートヘア。翡翠色の瞳をしたあの子が、私を見つけて微笑み、手を振りながら近づいてくる。

「すいさん、おまたせしました。寒くないですか?」

 私が今まで出逢った中で一番美しい人。この子は、私をすいさんと呼ぶ。本名に全くかすりもしていない、友人に呼ばれているあだ名でもない。水曜日に出逢ったから、すいさん。若い子がふざけてつけたにしては随分と可愛らしい名前を、私は一等気に入っている。

風に舞っている雪を見て、まるでこの子に出逢ったあの日みたいだと思い出し、口元が緩んだ。

「何かいいことでもありましたか?」

綺麗な笑顔で首を傾げたこの子・ゆきさんは、いつどこで見ても美しくて可愛らしくて、なんだかとっても愛しい。「君に会えたからね」と笑い返すと、ゆきさんは私の手を握って「私も嬉しい」とまた綺麗に笑った。



 私とゆきさんが出逢ったのは、水曜日。あの日も今日みたいに、風に舞う雪がゆきさんの肩に乗って、払ってあげたのを覚えている。


駅前の書店に行くのが、休日の楽しみだ。妻に先立たれて、もう一人暮らしにも慣れたが、寂しさを紛らわすには、何かに没頭するのが一番だと思う。毎月第一水曜日に発行される雑誌に連載されている小説と、好きな作家達の新作、書店が推しているおすすめ作品の中から一つを買って、併設されているカフェで読書を楽しむ。苦いものは少し苦手だが、コーヒーは好きで、読書のお供にはカフェラテを買う。悲しみに暮れ、繰り返し同じ毎日を送ることにけじめをつけて、新しく始めたのは読書だった。本を読むというのは、知識や教養の為でもあるが、それ以上に「自分が想像する世界の外側を知れること」が何より楽しかった。だから、あの真っ白で綺麗なあの子を見た時、私の人生が変わる気がした。

そんな、運命的な出逢いだった。

本屋で同じ本を取ろうとして、手がぶつかる。現実では起こりえないだろうと思っていたが、そういうことは意外と起こるらしい。

「あ、すみません。どうぞ」

「いえいえ、どうぞ。私は今度で構いませんので……」

真っ白な髪に真っ白なコートとバッグ、宝石で言うと翡翠のような瞳を持ったその人に、一目で心を奪われた。まるで物語の中の登場人物のような存在感と、誰もが振り向くような高身長に、圧倒的なその美貌。二十代ぐらいだろうか。本に囲まれていると、魔法でも使えそうに見える。住む世界が違うと思わせる雰囲気に圧倒されて、言葉を失った。

「いいんですか?」

「……え、ええ。どうぞ」

「ありがとうございます‼」と嬉しそうに笑った顔は、黙っている時の綺麗さとは違い、可愛らしい笑顔だった。見出しには『ジャズバー二十選』と書かれた雑誌を手に取ったその人は、その場でペラペラとページを捲り「行ったことありますか? ジャズバー」と私を見た。話しかけられると思っておらず驚いたが、無視するわけにもいかないので、戸惑いながら返事をした。

「……ありますよ。三駅先の……あそこは、カフェもやってるんだったかな」

「そうなんですね‼ あ‼ もしかしてこのお店ですか?」

雑誌の中身を見せながら「ここ?」と指を差して聞いてくるその人は、とても楽しそうに笑った。再び雑誌に目を向けながら「いいなぁ。行ってみたいなぁ」と呟く。物語のような出逢いに浮かれていたのか、私は「行ってみますか」と口にした。

「いいんですか⁉」

雑誌を譲った時よりも大きなリアクションで、その人はきらきらと目を輝かせ「行きましょう‼」と嬉しそうに微笑んだ。まさかの承諾に驚いたのか、小説の中のような出来事にドキドキしたのかはわからないが、とにかく胸の高鳴りを感じた。

ゆきと名乗ったその子は、足早に雑誌を購入して、カフェに寄ってコーヒーを買ってから、私のところに戻ってきた。とんとん拍子に進んでいく現実に、突然非現実に迷い込んだような違和感を覚えながらも、私はいつも通り雑誌と小説を買って、いつもよりもそわそわしながら、その子と共に店を出る。

駅に向かうまでの道すがら、風で舞い上がった雪が、ゆきさんの肩に乗った。私がそれを払うと、ゆきさんは「ありがとうございます」と綺麗に微笑んだ。


 ゆきさんとの出逢いを思い出しながら、ゆきさんから繋がれた手を離しもせず、向かった先は、あれから常連になったジャズバーだ。毎週通っている書店がある駅から、三駅。徒歩二分の場所にあるこぢんまりとしたジャズバーには、毎晩のように奏者達が来ていて、ライブが開催されている。私自身、ジャズに詳しいというわけではないが、奏でられるメロディーが好きだ。花形であるサックスは勿論、特にピアノがたまらないと思う。ゆきさんとは音楽の趣味が合うようで「このアーティストのこの曲のこのフレーズがいい」などと、色んな話をした。多趣味だが友人の少ない私にとって、ゆきさんは大事な友人で、年齢の差など気にはならなかった。ゆきさんは出逢った時から距離が近く、手を繋いできたり、腕を組んだりする子だったが、不快感はなく、じゃれついてくる子供のような感じがして、許してしまっている。周りからの目が冷ややかな事もあるが、手を繋ぐぐらいなら、悪いこととは言えまいと高を括っていた。この子も寂しいのかもしれないとも思って。

ゆきさんはジャズバーに来ると、毎回必ずある曲をリクエストする。私がジャズを好きになったきっかけでもあるその曲は、ゆきさんと出逢った事で、更に思い出深いものとなった。ジャズピアノが好きだと思うのは、ひとえにこの曲の入りがピアノから始まるからで、これを聞くと「何かの始まり」のように感じて、わくわくするのだ。

「やっぱり、この曲が一番好きだな。すいさんは?」

「私もだよ。何度聞いてもいい曲だね」

白ワインを飲みながら、うっとりと曲に聞き入るゆきさんを見て「まるで絵画のようだ」と思う。ジャズバー特有の世界観と、ゆきさんの存在感が、西洋の画家が描いたような光景だと錯覚させる。日本にいるはずなのに、ゆきさんがいるだけで、そこがニューオリンズのように見えるのだ。あいにく海外には行ったことがないのでわからないが、本場の雰囲気というものを疑似体験できる、その時間が好きだった。

 だから、ゆきさんのプライベートには口を出さない事にしている。この一年、毎週水曜日の夕方から夜にかけて、ゆきさんと過ごすこの時間を、大事にしているからだ。私達はただの友人で、恋愛関係ではない。程よい距離感でいるのが一番いいと思う。思うのに、考えるのをやめられない。ゆきさんは家族や友人の話を全くしない。ゆきさんから聞かれて話した時、ゆきさんはどうなのかと尋ねたが、はぐらかされてしまった。誰にでも聞かれたくないことの一つや二つあるだろうと飲み込んだが、私以外と居る時のゆきさんは、どんなだろう? 私の知らない顔をしているのだろうか? 昨日は何をしていて、明日は何をするのだろうか? そんな考えが、頭から離れない。

出逢ってから、一年が経った。それなりに親しい友人にはなったはずだ。時間が信用や信頼に値するかはわからないが、少しくらい聞いても罰は当たるまい、と甘えが出てしまったのかもしれない。

「ゆきさん、明日の予定は?」

バッとこちらを見たゆきさんは、静かに怒る能面のような顔をしていた。いつも柔らかい表情のこの子に似合わない真顔に、肩がビクッと跳ねる。何事もなかったかのように、グラスに残った白ワインを飲み干したゆきさんは「すいさん、散歩しませんか」と言ってきた。時間はいつもより早いが、広場を散歩してから帰るのはいつもの事だから「ああ」と返事をして、会計を済ませようとレジに向かう。ゆきさんはジャズ奏者達にお礼を言ってから、レジまで来て財布を出す。私はいつも通り「奢るよ」と言ったが「今日は自分で出します」と聞かず、不思議に思いながらも自分の分だけ会計を済ませ、先に店を出た。追いかけてきたゆきさんは、いつものゆきさんで、さっきのは何だったのかと気になったが、私が距離感を間違えたのかもしれない、と反省する。

「あの、ゆきさん。私、余計な事を聞いてしまって、申し訳ない」

「……すいさんは、明日の私は何をすると思いますか?」

質問の意図はわからなかったが、目に見えない圧力を感じで、重い口を開いた。

「え? そうだなぁ……。想像になってしまうけれど、朝起きたらまずカーテンを開けて日光を浴びて、花に水をやったり……パンと、ヨーグルトなんかを食べたり、フルーツのスムージーを作ったりして、お気に入りの曲をかけながら、お気に入りの詩を読むとか……。ああ、いや、全部私の想像なんだけどねぇ。そんなイメージがあるよ」

丁寧な生活というものが似合いそう、というか毎日そうしていると聞いても、そうなんだろうなぁと信じるような、雰囲気がある。モデルなどはそんな生活をするんじゃないだろうか。そう考えると、私はゆきさんの職業すら知らない。ゆきさんの日常なんて、何も、知らない。それは少し、寂しい気がする。

「いいなぁ。そんな生活。……でもね、全然違うよ」

「そうなのかい? ええ? じゃあどんな暮らしを……」

広場の中には、いつもふたりでお話する時に座っているベンチがある。今日もここで話していくのかとベンチに腰かけて、首に冷たいものが当たった。私の正面に立ったまま、私の頬に右手を添えたゆきさんの、左手には注射器が見える。

状況を理解する間もなく、視界が狭まっていく。

「毎朝起きて一番にすることはねぇ、大好きな人のおでこにキスをして、神様に願うの。この人を連れて行かないで、って。すいさんには、そういう大事な人、いたのかな?」

冷えた瞳は、本当に宝石のようだった。人間ではないような生気のない冷たい視線。だけど、こんなに綺麗で、こんなに心が惹かれるのだから、きっと天使か、それとも悪魔か。

「もし居たら、この気持ちも解ってくれるかな……」

私の一番大事な人・妻の嘉子はもうこの世にはいないから、これで終わるのならば、いい終わり方だとすら思う。やっと迎えが来たのか。ああ、そうだ。この子は、死神か。

「水曜日が終わるよ。大事な人のところに行けたらいいね」

すいようび、すいさんと呼んでくれたあの子の綺麗な笑顔が、妻の笑顔と重なっていく。



 水曜日の回雪は、強い風に巻き込まれて、消えた。



 全身が黒に染まったゆきが帰ってきた。

手に持った大きな紙袋を捨てるように置いて、靴を脱ぎながら「ただいま」と言ったゆきの声が、昨日よりも大きくて、イラついているのだとわかる。ゆきは頭をボリボリと掻いて、チッと舌打ちをした。自分の部屋に戻って、電話をするらしい。

「水曜日が終わりました。今回の人達、今までパターンが違います。何故ですか?」

相手の声は聞こえないが、ゆきが貧乏ゆすりをしている時は、機嫌が悪い時だ。

「…………わかりました。はい。また明日」

納得いっていない様子ではあったが、はぁーと長い溜息が聞こえてきて、大丈夫そうだと思った。追い詰められた時のゆきは、ずっと気を張っているから溜息をつかない。

「りっか、ただいま……って、その傷‼ いつから⁉ ごめん‼ いま手当するから」

電気をつけて寄ってきたゆきが、私の手を見て驚いた顔をした。余裕がないのは仕方ないのに、謝って。アカギレに効く塗薬を塗ってくれるゆきを、ただ見つめた。

「ごめんね。余裕なくて……。もっと一緒に居られたらいいのに」

久しぶりにゆきの本音を聞けて嬉しかったが、ゆきの表情は曇ったままで、私はゆきの手を握ろうとした。力が入らなかったけれど、ゆきは解ったみたいで、握り返してくれた。

「そうなれるように、頑張るね」


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