月曜日『淡雪(あわゆき)』

『淡雪(あわゆき)』


 首元で切り揃えられた真っ白のショートヘア。翡翠色の瞳をしたあの人が、私を見つけて微笑み、手を振りながら近づいてくる。

「つきちゃん、おまたせ。寒いね。大丈夫? 体冷えてない?」

 私が今まで出逢った中で一番美しい人。大好きな彼は、私をつきちゃんと呼ぶ。本名に全くかすりもしてなくて、友達に呼ばれているニックネームでもなく、月曜日に出逢ったから、つきちゃん。ロマンチックな彼がくれたかわいい名前を、私は気に入っている。

うっすら積もった雪を見て、まるで彼に出逢ったあの日みたいだと思い出し、口元が緩んだ。

「なーに? 俺なんかおかしいこと言った?」

きょとんとした顔で首を傾げた彼・ゆきくんは、いつどこで見てもかわいくてかっこよくて、なんだかとっても愛しい、と思う。「ううん、なんでもない」と笑い返すと、ゆきくんは私の手を握って「じゃあ、行こっか」とまた綺麗に笑った。



 私とゆきくんが出逢ったのは、月曜日。あの日も今日みたいに、地面には薄っすらと雪が積もっていた。


八時を過ぎてやっと退社し、バスの中でスマホを開く。SNSでは新しい舞台のキャストが発表されたらしく、作品名がトレンド入りしていた。タイムラインを見ると皆がざわついていて「私の推しも出てたら観に行きたいな」なんて思いながら、画面をスクロールしていく。残念ながら推しはキャストに含まれていなくて、溜息をついた。

週五・六日で八時間のフルタイム勤務。休憩は一時間と三十分の二回、店からコンビニと休憩室まで片道七分、走れば五分で、早めに店まで戻ろうと思ったら実質の休憩時間は四十五分ぐらい。時給千二百円のバイトは、今まで務めたどこよりも環境はいいけれど、やりがいや意味なんて考えていたら、続けるのは難しいと思った。何より、体調を崩して前の会社をやめたのに、また気づいたらフルタイムで体を酷使して、自分の学ばなさには呆れすら感じている。絶望もないが、希望もない。そんな日々に嫌気がさす。

週の初めの月曜日、クレーマーの対応について上司から責められて「だるいからもうやめようかな」なんて考えていた時、彼と出逢った。


「お姉さん、落としましたよ」

「え?ああ、ありがとうございます」

「いえ」

バスから電車に乗り換える為、駅の構内へ入り、改札をくぐった後のこと。

雪の妖精かと思うほど白い肌と、宝石のような翡翠色の瞳を持つ、人間離れした美しさのその人は、見覚えのあるハンカチを差し出してきた。定期券の入ったキーケースを出した時に、ハンカチも一緒に落ちたのだろうか。ボロくなったハンカチとは不釣り合いなほど綺麗な笑顔に、見とれてしまっていたようで「もうすぐ電車が来ますよ」と言われて、我に返る。私は慌てて「すみません。ありがとうございます」と言ってハンカチを受け取り、そのまま踵を返したが、運悪くその先は階段だった。落ちる、と認識した瞬間、私は全てを諦めてしまった。最近はついてないし、特に今日はついてない日だったから。

「ああ、もういいや。このまま落ちて、死んじゃえば」と。

しかし、大した衝撃はなく、腕に引っかかっていた鞄だけが、音を立てて落ちて行く。

「あっぶな‼ 大丈夫⁉」

お腹を支える冷たい腕に引き戻されると、さっきの雪の妖精のような美しい人が、私を抱きとめていた。彼の美しい顔が私の目の前にあって、私の喉はヒュと鳴る。

彼は「怪我はないよね? よかった」とホッとした様子で、私の顔を心配そうに覗き込んできた。状況を飲み込めずにいると、彼は階段に散らばった鞄の中身を拾っていき、全部鞄の中に入れてから、私に差し出してきた。

「気をつけて。前見て歩かなきゃ。お姉さん、疲れてるんじゃない? あったかいもの食べて、休んだ方がいいよ」

彼は首を傾げて、固まったままの私の手を取り、鞄を持たせてくれた。そして、もう一度「気をつけてね」と言って、階段を降りていく。

いつもの私ならお礼を言って終わりだが、彼はなんというか、雰囲気が推しに似ていたのだ。だから私は柄にもなく「あの‼」と大きな声を出して、彼を追いかけた。お礼がしたいと言うと少し迷った様子の彼だったが「もしよければ、あの、夕飯食べてなかったら、今から……どうですか?」と聞くと、翡翠色の瞳が零れ落ちそうなくらい目を見開いて、それから首を傾げた彼は「一人で食べるの寂しいなって、思ってたんだ。今日寒いし、あったかくて美味しいもの、奢ってもらおうかな」と満面の笑みを浮かべた。


 ゆきくんとの出逢いを思い出しながら、彼と手を繋いで向かった先は、以前、彼が好きだと言っていた水族館だ。最寄り駅でバスに乗り換えて数十分。平日の水族館は子連れと老夫婦が多く、カップルや学生はほとんどいない。そもそも人自体も少なくて、発券所も並ぶことなく、すんなりと入場できた。

「ジンベイザメの餌付け見て、ペンギンのパフェ食べて、ぬいぐるみも買って帰ろうね」

翡翠色の瞳を輝かせ、楽しみで仕方ないという顔をした彼は、無邪気に笑った。ゆきくんはよく笑う人で、私も釣られて笑顔になる。隣に居てくれるだけで幸せだ。

今まで付き合ってきた人達とは違い、彼は私の意見を尊重してくれる。デートの度に私の好きそうなお店を予約してくれるし、記念日を大事にしていて、毎回手紙と花束とプレゼントをくれる。愛の言葉で溢れた手紙に、私の好きなピンクの薔薇の花束。ささやかだけどと言いながらくれるプレゼントは、アパレルに勤めていても、自分で買うほどの余裕はなくて諦めていた、憧れの高級ブランドのものばかりだった。その中でも特に高級なブレスレットをもらった時は、天地がひっくり返ったかと思った。今までも数万のプレゼントなら貰ったことはあったが、数十万とするプレゼントを送られた事はない。前のデートの時、広告の前で立ち止まったのはもちろん「欲しい」と思ったからだけど、いざ貰えるとなると、嬉しさよりも申し訳なさが勝る。受け取れないと言おうとしたが「この前見てたでしょ? 受け取ってくれる?」と上目遣いで甘えてくる彼を見ると、断ることもできず「大事にするね」と言ってしまった。彼が嬉しそうに、綺麗な笑みを浮かべてくれたから「まぁいっか」と思うことにした。

 私が言う前に察して動いてくれるし、ゆっくり話も聞いてくれる。好きな人となら、嬉しいことは二倍に、悲しいことは半分に、なんて聞く夢みたいなことが、本当になったのは初めてだった。

いつも私の意見を優先してくれて、自分を後回しにする彼に、少しでも楽しんでほしくて、今日のデートは彼の好きな水族館にしたのだ。計画通り、彼はとても喜んでくれて、私も嬉しい。心が温まるというのは、こういう事を言うのだろう。

展示を見ている間、私は色とりどりの海の生物よりも、彼に見とれていた。こんな綺麗でかっこよくてかわいくて、私を大事にしてくれる優しい人が、恋人になってくれるなんて「生きてればいいこともあるな」と思うほど、彼の存在は私の支えになっていた。

 だからこの一年、会うのは必ず月曜日だということに気づいていても、少し不安に思っていても、彼には何も聞けずにいた。愛してくれる彼に、嫌われたくない。


ジンベイザメの餌付けを見た彼は大興奮していたが、私と目が合うと急に真顔になった。私が「どうしたの?」と言う前に、手を引っ張って「つきちゃん、こっち。ほら、すごいよ」と、身長の低い私でも見やすいように、前に入れてくれた。彼のほうが見たいと言っていたのに、私が見やすいようにと気遣ってくれたおかげで、私もしっかりと見ることができた。後ろから腕を回して、抱きしめながら「ね、すごいでしょ」と得意げに囁く彼に「そうだね」と返した。

餌付けが終わった後も、しばらく大水槽を観ながら、前に観に行った舞台の話なんかをした。お目当てのペンギンも見終わり、お昼時を少し過ぎてから、施設内のカフェに入る。彼はエビとイカのトマトソースパスタとペンギンパフェを、私はタコと明太子のパスタとアザラシケーキを頼むことにした。彼は店員を呼んで、私の分まで注文してから「楽しみだね」と目を細める。細やかな気遣いまでしてくれる彼が大好きで、いつしか推しに似ていた事なんて忘れていた。ゆきくんにはゆきくんの魅力があって、私にとって生きがいだった推しも、いつの間にかゆきくんに変わっていた。

撮った写真を見ながら、料理を待つ。お土産に買って帰ろうと言っていたぬいぐるみを、ジンベイザメにするかペンギンにするか、両方買うか、と口を尖らせて悩んでいる彼を見て思わず笑うと、彼は「つきちゃんはどうする?」と聞いてきた。

「私は小さいのにしようかな。ゆきくんがくれたぬいぐるみで部屋いっぱいになっちゃいそうだし」

ゆきくんは「そっか」と言って、スマホに視線を戻すと、眉間に皺を寄せた。私、何か余計な事言ったかなと不安になり、彼に声をかけようとした時、店員が料理を持ってきた。ゆきくんは顔を上げて、店員に「ありがとうございます」と言ってから「美味しそうだね」と私に笑いかけたので、大丈夫かと少し安心する。

パスタもデザートも食べ終わって、施設の本館に戻ってから、深海魚コーナーを見ていた時、ゆきくんのスマホが鳴った。

「ごめん、つきちゃん。仕事の電話だ。ちょっと待ってて」

私の返事を待たず、彼は離れていった。薄暗い照明の中、取り残されて、ひとり寂しく深海魚と睨めっこしていたが、中々戻ってこない彼が心配になる。スマホを見ると、彼が行ってから十分が経とうとしていた。そういえば、さっきチラッと見えた彼のスマホの画面には「火」と表示されていた。火ってなんだろう。名前だよね。火って字、よく見るよな。なんだっけ……? 火、か。か? 月、火……。嫌な予感がする。

「火曜日……」


 ゆきくんは、私をつきちゃんと呼ぶ。

本名に全くかすりもしてなくて、友達に呼ばれているニックネームでもなく、月曜日に出逢ったから、つきちゃん。ロマンチックな彼がくれたかわいい名前。そう思っていた。

だけど、おかしくないか。会えるのは、彼と出逢ったのと同じ、月曜日だけ。他の曜日はどれだけ言っても会えない。私の我儘を何でも聞いてくれる彼が、唯一聞いてくれないこと。見て見ぬふりをしてきたのは、彼に嫌われたくないからで、彼が隠しているなら、私は知らなくていいと思っていて。今もそう、思っている。

けれど、もし火曜日の人が居るなら? 水曜日の人も、木曜日の人も、金曜日の人も、土曜日の人も、日曜日の人も。あれ、ゆきくん、昨日は何してたんだろう?

いつも連絡が遅いのは、仕事が忙しいから。月曜日しか会えないのも、彼の仕事は月曜日がお休みだから。旅行に誘っても断られるのは、決まった休みが月曜日しかないから。

ゆきくんと出逢って、夕飯を共にしたあの夜「お仕事は何をしてるんですか?モデルさんとか?」と聞いた私に、ゆきくんは「まぁそんなとこ」と言って笑った。照れたように笑うので、モデルなんだと思っていたが、あれは、はぐらかされたんじゃないか。私に言えない仕事でもしていて、だから私は月曜日にしか会えないんじゃないか。

私は最初、彼を雪の妖精かと思った。あの美貌であれば、何の仕事をしていてもおかしくないけれど、もしも、私は月曜日の人で、火曜日の人も居るなら、彼は一体何者なんだ?

「つきちゃん! ごめん、長引いちゃって。行こっか」

戻ってきた彼は私の手を引いたが、私は立ち止ってしまった。聞きたいけど、なんて聞くんだ。貴方は何者ですか、なんて急に聞いたら、こっちが怪しい。

「どうしたの?」

心配そうに私の顔を覗き込んでくるゆきくんは、本当に美しい。この翡翠色の瞳に映るのが、私だけならいいのに。彼がもし、私のものじゃないのなら、彼は一体誰のもの?

「ゆきくん、あのね。私、今日はゆきくんのお家に泊まりたいな、なんて」

それは彼女に許された特権のはずだ。付き合いはじめて、もう半年経っている。ゆきくんは私の部屋には何度も来ているし、私もそろそろ彼の部屋に行ってもいいはず。

「……ごめん、つきちゃん。いま俺の部屋、服で埋まっててさ」

「どうして?」

「えっと、この前展示会で買いすぎちゃって」

「そうじゃなくて、どうして私はゆきくんの部屋に行っちゃいけないのかな」

「部屋が散らかってるから……って。つきちゃんはそういう話してるんじゃないのかな。あー、うん……そっか。じゃあ、ちょっと、場所移動して話そっか」

いつものように私の手を握って、でもいつもとは違って目は合わせずに、水族館の中を進んでいく。あんなに楽しみにしていたはずのお土産屋さんには目もくれず、私の知ってるゆきくんとは別人のような彼は、私の手を引いたまま水族館を出た。


 彼に導かれ辿りついたのは、前に彼とデートで訪れた遊覧船が見える港だった。私の手を離して、柵に凭れ掛かり、暗い海を見つめる彼に、私はどうしていいかわからず、その背中を見つめることしかできなかった。さっきからずっと嫌な予感がしているのに、帰る気にはなれない。

「つきちゃんは、何が聞きたいの?」

察しのいい彼なら、きっと私が何を聞きたいかなんてわかっているはずだ。だから、何故そんなことを聞くのか、わからなかった。

「つきちゃんは俺の部屋に来たいけど、俺がそれを断る理由……。聞いてどうするの?

何度聞かれても、俺の答えは変わらないんだけどな」

好奇心は猫をも殺す。どうしてか、そんなことわざが脳裏をよぎった。

「……それは、火曜日の人が来るから?」

「なにそれ」と驚いた顔で振り返った彼は、私の知ってるゆきくんだった。首元で切り揃えられた真っ白のショートヘアに、翡翠色の瞳。よく笑って、気遣ってくれて、大事にしてくれて、綺麗でかっこよくてかわいくて、私の大好きな人。そのはずなのに。

「ああ、電話が来た時の画面か」

スンとした真顔に、伏せた瞳は冷めていた。真っ白な髪に合わせた真っ白なコートが、まるで存在ごと冷たいみたいな印象に変わる。遊覧船のイルミネーションが反射して、きらきらと光る艶やかな髪の毛も、スマホを持つ手の赤く長くネイルも、トレードマークのひとつである真っ白なハイヒールも。彼が私の好きなゆきくんなのかをわからなくさせた。もうすっかり日も落ちて、昼間に溶けたはずの雪の上には、また新しく薄っすらと雪が積もっていた。彼と出逢った、あの日のように。

「俺、つきちゃんのこと、愛してるよ。だから、それは聞かないでほしかったな」

視界が白で染まる。彼に抱きしめられて、何も見えなくなった。チクリ、と首に痛みを感じて「ああ、私、失敗したんだ」と思った。ゆきくんが聞かれたくないことを、私が聞いたから、ゆきくん怒っちゃった。

「怒ってないよ。ただ、知らない方がいいこともあるって、俺は思う」

いつものゆきくんの優しい声に安心したように、体の力が抜けていく。私が何も知らず、何も知ろうとしなければ、彼はずっと、私を愛してくれただろうか。



 月曜日の淡雪は、夜には溶けて、消えている。



 全身が黒に染まったゆきが帰ってきた。

手に持った大きな紙袋には、朝着ていた服やバッグが入っているのだろう。今週はそういう週なんだ。もう随分と時間の感覚がない私は、ゆきの様子を見てなんとなくの時間経過を知る。ゆきが白い服に身を包んでいる時はいい。楽しそうで、安心する。でも、黒い服に身を包んだ時のゆきは、いつも悲しそうだった。今回もそうだ。玄関から「ただいま」と聞こえてから、しばらくしてもゆきは玄関から動かなかった。「おかえり」と言って、今すぐにでも抱きしめてあげたいけれど、いつも通り、それはできそうにない。ゆきはふいにスマホを見て、溜息をついた。それから黒いスニーカーを脱いで、大きな紙袋を自分の部屋に持っていく。ガサガサと音がした後、小さく声が聞こえた。

「月曜日が終わりました。全て今週で終了予定です。はい。また明日」

ほら、やっぱり。今回は確か一年。今週が終わりの週なんだ。ゆきがその美しい顔を歪め、目から光を失くす一週間が始まった。駄目になったのはゆきのせいではないのに、私の為に頑張っているだけなのに、優しいゆきが傷ついてしまう。私ができることは、と考えて、笑うことすらできないのに。

「りっか、ただいま。心配しすぎだよ。大丈夫だから」

そう言って笑うゆきは明らかに空元気で、重くて持ち上がらない手を頑張って上げて、ゆきの頭を撫でる。それは撫でるというより、乗せただけだったが、ゆきは嬉しそうに笑う。ゆきには私がいるから、と伝わるように、何度も撫でると、ゆきはクスクスと笑った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る