『ゆき』
佐藤百
プロローグ
爪が折れた。右手の人差し指に血が垂れている。
アカギレも増えてくる十二月中旬。翡翠のような瞳に少しだけ涙が滲む。
「これくらい平気だよ。りっかは寝てなさい」
そう言ってゆきは、机の上にあった液体絆創膏を手に取り、私に見せた。
ゆきは仕事の関係で手を大事にしていて、普段から乾燥しないようハンドクリームを持ち歩いている。家で塗る時は必ず私にも分けてくれて……。
けど最近は、いつもと様子が違う気がする。ゆきを見つめると、微笑みが返ってきた。
「今日も行くの、って? そうだよ。そんな不安そうな顔しなくても」
ゆき、まだ続けるの? 今日こそ、駄目かもしれないよ。
「うん。ちゃんと気を付ける」
本当に気を付けて。ちゃんと帰ってきてほしいの。できれば行かないでほしいけど、ゆきは行くんだもんだね。私の為の行動だと知っていて、私はソレを止められない。
ゆきは起き上がろうとする私の肩を軽く押し、布団と毛布を被せた。いつも通り、頭を撫でてくれるゆきの手は酷く冷たく、手つきは優しかった。
「行ってきます」
いってらっしゃい。今日も無事で帰ってきて。
はくはく、と口を動かしても声は出ない。ゆきは液体絆創膏がまだ乾いていない人差し指を気にしながら、真っ白の鞄を持ち、同じく真っ白のコートを羽織って、部屋を出て行った。がちゃん、と鍵がかかる音がしてから、ハイヒールを履いたゆきの足音が、少しだけ響いていた。
玄関に向かってゆっくりと持ち上げた左手には、小さな傷に血が滲んでいる。いつものゆきなら私のどんな変化にも気づくのに、やっぱり何か変だ。ゆきも、限界が近いのかもしれない。私は近い内に果てるのだと悟った。今日は白だったから、すぐにではないが。
ああ、でも、よかった。ゆきが私を忘れて、他の誰かと幸せになれるのなら、私はそれでいい。
薬が効いてきたのか、瞼が閉じていく。次に起きた時には、ゆきは帰ってきているだろうか。ずっと一緒には居られないのが寂しいと、ゆきも思ってくれていたらいいな。
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