もふもふとしたもの
夜の山は、コートを着ていても身震いしてしまうほど寒い。身体の中心から、ぶるっと、抑えきれない震えが来る。その瞬間、ああ、わたしはここにいるんだなと思える。煌々とした街では味わえない感覚だ。冬も、夜も、山も、欠かしてはいけない要素。今日もわたしは、ここにいる。
初めてここに来たのは、わたしがまだ小さかった頃だ。あの頃なら、夜の山でも寒さを感じず走り回れただろうか。きっとお母さんに分厚いダウンを着せられるだろうな。そもそも、こんな時間に外出なんてさせてくれないけれど。
まあそれは、今でも同じことだ。こっそり家を抜け出しているなんてことがバレたら大目玉どころでは済まないだろう。いや、むしろどこへでも行っていいよと放り出してくれるかもしれない。悩んで、互いに相談して、もっと悩んだ上で、そんな選択をするような両親だ。しかし悲しい顔を見るのはそれはそれで嫌なので、やっぱりバレないに越したことはない。
山の深いところへ行く道が一本だけ伸びている。この暗さにもずいぶん慣れたもので、濃紺と黒が混ざったような闇の中で、灰色の石畳が道を成しているのが薄っすらと見える。道から逸れて足を捻ることはもうないというわけだ。軽いケガは何度もやらかしているけれど、代償と思えば今となってはいい思い出だ。
歩いてみると、くたびれた靴と石畳が小気味よい音を立てる。静かで、夜の空気に浸るのを邪魔されない音。森の木々がざわざわ言ったり、風鳴りがしたりする音に負けて消えていくのが、夜に溶け込んでいくようで落ち着く。目を瞑ってもあまり景色が変わらないから、たまにそっと目を閉じて、開いて、夜の空気と一つになる感触を楽しみながら歩く。
この山の神社で行われる夏祭りの屋台は、だいたいこのへんまでだ。お祭りの間は立ち入り禁止の看板が出るから、ここから先は夏以外の特権。かといって別に何か呪われそうなものがあるわけでもなく、ぐねぐねと道が続いて、ところどころにからっぽの灯篭があるだけ。
そんな道中で、わたしは一つおもしろいものに出会った。
ソレに出会うまでは、本当に当てもなくどこまでも彷徨っていた。たまに東の方がぼんやり白んでくるまで歩き続けたりして、慌てて家に帰ったこともある。しかしソレに出会ってからは、わたしが山に来た日は必ず同じ場所にいるから、ソレに会って帰るというのが定番になっていた。しかもそれでちょうど朝日が顔を出す直前くらいに帰り着けるから、わたしの望むことを叶えてくれているのかもしれないと、ひっそりと思うようになっていた。
そして今日も見えてきた。細長くて、もふもふとしていて、ぼんやり光っているかのように暗闇でもくっきりと見える、きつねだ。
しっぽで頭を包むように丸くなっていたきつねは、わたしが近づくとゆっくり頭を上げた。そして立ち上がって、優雅な足取りで足元へ寄ってきた。こてん、と首をかしげて、きゅうん、とかわいらしい声で鳴いた。
「……」
立ち止まって、黙ってみる。いつもはあれこれ話しかけて、ペットを飛び越えてまるで友だちみたいに話を聞いてもらって、家から持ってきた果物をあげて帰る。でも今日はそうはせずに、じっと見下ろして反応を窺った。すると膝辺りに前足をついて懸命にこちらの顔を覗き込もうとするから、おかしくってたまらず噴き出した。わたしはきつねのお面を外した。
「ごめんごめん、これ、お店で偶然見つけちゃったから」
道の端に腰を下ろす。きつねがその隣に座る。いつもの体勢だ。昔行った友だちの家で、友だちと飼われていた柴犬がしていたのと同じ体勢だ。いつの間にかこれが基本になっていた。
きつねはまだわたしを訝しんでいるみたいだったけれど、思い切って頭を撫でてみると、すぐに機嫌を直した。初めて触れた毛並みは、着ているコートのファーよりもふわふわだった。
今日はどんな話をしようか。最近では、きつねに聞かせる話を探すために毎日を生きている。少なくとも、無為に生きていると自覚していた時期よりはずいぶんマシな生き方をしているなというのが自分でもわかる。それは今横にいるきつねのおかげで、感謝してもしきれないほどだ。
人里離れたところに住んでいて、律儀にわたしが来るたび姿を見せ、わたしをちっとも恐れない。このきつねが、人類が認識している〝狐〟というものには当てはまらないものなのだろうということは、わたしも薄々感じ取っている。それでもきつねがわたしの隣にいてくれるのなら、これからもそれに甘えさせてもらおうと思っている。
昨日学校で起こったちょっとしたハプニングをきつねに話した。きつねはきゅんと甲高く鳴いて、わたしが取り出したいちごを、器用にヘタだけ残して食べた。
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