とても短い、夏のおはなし

 初めて会った『なぎさ』は、なんというか、おおむねイメージ通りという感じだった。しっとりお淑やかで、ほんわかした雰囲気をまとっている。

 こちらをじっと見つめてくるなぎさを私も見つめ返す。顔を合わせて喋ったことがないから、どちらも距離感を掴みかねているといったところ。しかしあまり緊迫感はなく、冷ややかな空気も流れていない。むしろ、じっとりとした暑さが私たちを包んでいる。

 けたたましいセミの声が構内にまで聞こえてくる。駅には私となぎさと、ヒマそうな駅員さんが一人。自動改札機の扉がぱこんと閉まった。電光掲示板には「通過」の文字ばかりが並んでいるから、改札もしばらく出番はないだろう。

「やほ」

 夏の空気が溜まる空間から早く離れるために、先制して口を開いた。通話を始めるときの、いつものかけ声。これをしないとなぎさは喋り始めない。通話をするようになったころはこんなではなかった気がするけれど、もはや気にしていない。今日はそれに軽く手を上げる動作までつけ加えてみたりして、なぎさに声をかけていることがわかりやすいようにした。

「わ、ささみだー」

 なぎさは少し顔を明るくして、聞き慣れた声を出した。なぎさは私の本名を知っているはずなのに、実際に会ってもなお、ハンドルネームの方が馴染むらしい。

『なぎさ』は人の名前として実在するけれど、それが本名なのかどうかは、私は知らない。今さら尋ねようとも思わなかった。なぎさだって私のことを『ささみ』と呼ぶんだし。私の方は、見知った人の前で呼ばれるには少し恥ずかしいハンドルネームだけど。

「お邪魔します」

「いらっしゃいませ」

 なぎさはぺこりと頭を下げた。麦藁帽が落ちそうになって、慌てたように途中で止めた。

 東京に住む高校二年生で、同い年。なぎさについて知っていることはだいたいこのくらい。それはきっと向こうも同じで、私のことなんてほとんど知らないはずだ。インターネット上でできた繋がりなんてそんなものだ。

 毎日のように通話していた時期もあったけれど、今は週に二回、たまに三回。連休だったり長期休暇だったりするときは少し増える。課題をやったり、ゲームをしたり。何か特別なことを話すわけじゃないから、何を話していたかなんて、ほとんど覚えていない。それでも初対面ですんなりお互いを認められるくらいには、私たちの付き合いは長かった。

 私にとって、東京なんてのは外国と同じくらい離れた場所だ。そんな異郷の地からやってきたなぎさはやっぱりどこか浮いていて、もしそこらへんを歩いていたとしても、知り合いでなければ安易に近寄れないようなオーラを放っている。すらっとしているくせにやけに背が高いし、髪はうるつやだし、肌も白い。夏とか、どうやって生活しているんだろう。

 なぎさは駅を出るや否や立ち止まって、辺りをくるりと見渡した。私にとってはしばしば通りかかるくらいの場所で、それで見飽きてしまうほどに何もない景色。それなのになぎさの目は不思議ときらきらしていて、文化の違いという言葉がぼんやり頭に浮かんでいた。

 それからしばらく、なぎさはスマホを構えることもせずあちこち視線を動かしていた。東京の人はどこへ行くにも写真ばかり撮っていると思っていたけれど、もしかするとそれは偏見なのかもしれない。私もなんとなく立ち止まってみる。特別見るものもないから、目は自然となぎさに向かう。

 いつも海辺の写真をアイコンに設定しているなぎさは、その中の砂浜を歩いていそうな夏っぽい恰好をしていた。私の知っている蒸されるような夏ではない。絵本や小説の舞台になるような、きらきら眩しくて、どこまでも爽やかな夏。揺れる淡い水色のフレアスカートは、ところどころ雑草が顔を覗かせる石畳にはさっぱり似合っていない。そんなわけはないのに、なぎさの周りにいるとほんの少し涼しいような気さえしてくる。

「なぎさ」

 呼びかけてみると、なぎさは背中をぴんと伸ばしてこちらを向いた。その仕草に、つい笑いがこぼれた。まるで旅行に来た子どもそのものだ。大人びた第一印象だっただけに、そのギャップが余計におかしかった。

「今小さい子みたい、って思った?」

「思ってない思ってない。どうする? しばらくこのへん見て回る?」

 なぎさは少し悩んで、首を小さく縦に振った。こくん、という効果音が鳴りそうなその動きもやっぱり子どもみたいで思わず声に出して笑うと、なぎさは諦めたように溜め息をついた。

「とは言っても、観光になりそうな場所なんてないんだけど」

「いいのいいの。私にとっては、どこも新鮮だから。きっとね」

 そういえば私は、なぎさがここに来た理由を知らない。ささみに会ってみたいなー、という何の気なしの発言がきっかけだったような気がする。何もない駅前を見回してわくわくしている様子のなぎさを見る限り、特別な理由はないのかもしれない。私も肩の力を抜くことにした。ガイドなんて、ガラじゃない。

「お昼は? 食べた?」

「まだ」

「そんじゃ、なんか食べに行きましょっか」

 お昼には少し遅い時間。このあたりの食事処はもうほとんど休憩時間に入っている。私はなぎさを導くように歩き出した。

 なぎさはキャリーバッグをからから言わせながら斜め後ろをついてきている。荷物持つよ、と言ってみると、ううん、大丈夫、と返された。予想どおりだった。

 それでもなんだかばつが悪くて無言で後ろへ手を出してみると、キャリーバッグの取っ手とはとても思えないやわらかな感触が触れて、それがなぎさの手だということに即座に気が付いて、びっくりして背中が跳ねた。

「……しばらく歩くけど、それ、暑くないの」

「……えっ。あ、ごめんね!」

 別にそのままでもよかったけれど、なぎさはぱっと手を離した。

「つい……ね?」

 つい。まあ、私にとってはなじみのないことでも、なぎさにとってはよくあることなのだろう。進行方向へ進み始めると、なぎさはそのまま後ろをついてきた。大丈夫と言われたのにどうして手を出したのか自分でもわからなくなって、歩くのに合わせて腕を揺らしながらも、手の位置が本当にここでいいのか、ひっそり不安になっていた。

「どこ行くの?」

「モール。このへんのご飯屋さん、だいたい閉まっちゃってるから」

 モールと言っても、都会の郊外にあるような巨大なものではない。ひょっとすると横の幅より高さの方が大きいかもしれないくらいの、いろいろなお店がぎゅっと押し込められた三階建てのモールだ。ここいらの学生が学校帰りに寄っていくような、憩いの場というやつだ。

 都会というものをこの目で見たことがないからいまいちわからないけれど、なぎさの目にはちゃちなものに映るんだろうな、とは思う。それでも他には行く当てがないのだった。一歩間違えると、田んぼと畑と山しか見えない道に出る。それを見せるにはまだ少し早い。どうせ私の家に戻る前には、そこに足を踏み入れることになるのだ。

 しかしなぎさにとっては田舎道ですら新鮮なようで、なぎさの方に目をやっても目が合いそうにないくらいきょろきょろと辺りを見回していた。帰省とかも街の中で済ませていたんだろうか。私は田舎というものに内心飽き飽きしていたけれど、ここまで物珍しがられると、羨ましいを通り越して少し不憫にも思えた。

 駅前からモールは自転車ならすぐで、歩いてもそんなに時間はかからない。それでもなぎさの歩みに合わせると、それなりに時間がかかった。足を止めずに自動ドアを通ると、思わずため息が出るほどの涼しさが出迎えた。

「二階だよ」

 今日はやや人が多め。私と同年代の、夏休み中の人がほとんど。ここでもなぎさはやっぱり浮いていて、自然と早足になってしまう。エスカレーターで上がってすぐ右にある、朝から夜までずっと開いているファミレスへ。

「ごめん。あんまり新鮮味なかったかも」

 私は注文を済ませて、水のコップをぐっと煽ってから言った。二時くらいだったら他の選択肢もあったかもしれないけれど、もう他のお店は軒並み閉まっている。

 ワンコインで十分というわけにはいかない、少しお高めのファミレス。ここで最後に食事をしたのがいつだったか思い出せないほど、私はここを食事処として見ていない。友達と学校帰りに寄って、ワンドリンクで時間を潰すための場所。東京にもこういうところはあると思っているけれど、実際のところはよく知らない。

「ううん、そんなことないよ。人があんまりいないところ、私好きだから」

 すぐにやってきたピラフを前に手を合わせてなぎさは言った。埋まっているテーブルは、この席を含めて四つ。がらがらでもないし混んでもいないくらいの感覚だけれど、まあなぎさからしたら「人が少ない」判定に入るのだろう。

「なら、いいけど」

 メロンソーダのストローに口をつける。私はお昼を済ませてあるから、あまり早く飲み終わらないように、ちびちびと。なぎさの食べ方がとても上品に見えたから、はしたなくは見えないくらいに。

 静かな食事を終えて、なぎさはもう一度手を合わせた。ストローで氷を遊ばせるのにも少し飽きていたころだった。食事中に会話をする雰囲気にならないのは、やっぱりなぎさの育ちがいいからなのだろうか。スマホをいじる気にすらならなかった。

「じゃ、どうしよっか」

 なんとなくなぎさに振ってみたものの、もう既に、今日の予定は家に帰るくらいしかなくなっていた。夏休みでヒマを持て余しているような時ですら、わざわざ外に出ることもあまりないのだ。旅行に行ってきた友達がいると、みんなで土産話を聞いて、そのままおしゃべりで時間を潰すくらい。今年はそれも、まだ一度もない。

「買い物したいな。おすすめのお店とか、ない?」

「おすすめ?」

「あ、ここでいいよ! あんまり動くと大変だしね」

 正直なところ、このモールにはみんなが来ているから来ているだけで、私は詳しくもなんともない。隅々まで見て回ったことなんて、ただの一度もない。入り口に近いお店ですらしょっちゅう入荷待ちの札が出ているし、おすすめのお店があったら教えてほしいくらいだ。私はよくわかんないなー、と回答を濁した。

「じゃあ、順番にお店覗いてみてもいい?」

「……どこまで? 全部?」

「うん!」

 なぎさは、ね? いいでしょ? とでも言いたげな目でこちらを見つめている。少し大変そうだな、と思ってしまったけれど、会話もなく行動もしないよりはいいか、と考えを改めた。暑い中だらだら行く当てもなく外をぶらつくよりはずっといい。

「んじゃ、そうしよっか。キャリーバッグだけ持つよ。なんか買うとき大変でしょ」

 なぎさは今度は素直にキャリーバッグを渡してきた。こうなっては私まで浮いてしまうかもしれないけれど、隣にみんなの視線を引き付けてくれる人がいるのだから、あまり気にしないことにした。

 ちゃんとピントを合わせてみると、服屋も、本屋も、百均ですら、私たちくらいの年代をメインターゲットとはしていないのがわかった。もっと上の世代向けのものがお店の手前側に並んでいて、奥の方のちょこんとしたスペースに、これちょっとほしいかも、と思えるようなものがある。これはこれで、お宝を探している気分になって楽しいかもしれない。

 一方でなぎさはそういったことはあまり気にせずといった感じで、お店全体を見ては、気に入ったものを手に取って買うかどうか吟味しているようだった。特に小物が好きらしく、飾る以外に用途がなさそうな置物をいくつか買っていた。

 これいいんじゃない? とか、こっちいいのあるよ、とかの会話はなかった。

「これ買っちゃおうかな」

 とか、

「いいじゃん? 買っちゃえば?」

 とかの会話ばかりだった。どうやら微妙に好みのセンスがズレているようで、おすすめするものなんてないことがすぐにわかった。

 私はいつでも来れるから何かを買うということはしなかったけれど、なぎさはマイバッグが少し膨れるほどいろいろな物を買っていた。一階から始まって三階まで巡り尽くして、入り口に戻ってくるころにはかなり日が傾いていた。

「いよいよささみの家だね! なんだかわくわくしちゃうな」

「駅の近くまで戻って、バス乗るよ。……けっこう急がないとマズいかも」

 ずっとわくわくしてるじゃん、とは言わなかった。わくわくしてくれているということが少し嬉しくて、なぜだか照れくさかった。

 もうすぐバスがやってくる。この暑い中、歩いて家まで戻るのは御免だった。来るときの倍以上のスピードで、私たちは駅前へと戻った。今にも発車しようとしていた運転手さんに大きく手を振って、かなり無理やり乗り込んだ。

「そっか、このへんはバスが少ないんだ」

 一番後ろの席に座って、乱れていた息を整えるのに数分使ってから、なぎさは口を開いた。

「間に合ってよかった。一時間待つよ、次」

「わ、けっこう危なかったんだね」

 バスにはそれなりに人がいる。仕事帰りっぽいスーツの人と、おばあちゃんと、学生っぽい人が何人か。やっぱりなぎさは浮いているけれど、それに慣れてきているのがなんだか不思議だ。

 私が窓のそばで、キャリーバッグを挟んでなぎさが座っている。景色を見たいかもしれないし、席を代わることを提案しようとしたけれど、そのころにはなぎさは反対側の窓に少し寄ってそっちの方を眺めていた。

 バスの中で会話がないことが、ほんのちょっとだけ残念に思えた。それでもわざわざ話しかける気にはなれず、私も外を眺めた。

 そういえば、バスに乗るときはいつもスマホを見てばかりだったから、窓を覗くなんて久々だ。とはいえ、家から一歩出れば一面に広がっているような景色が延々と続いているだけなのだけれど、かかしがあったり、電柱があったり、家屋があったり、人がいたり、少しずつ景色が移ろっていく。万華鏡みたいと言うにはいささか地味すぎるけれど、じっくり見てみると、けっこうおもしろい。

 形のあるものだけではない。空模様も、ゆっくり、ゆっくり変わっていく。橙がだんだん濃くなって、紫が混じって、黒が覆っていく。家に着くころには足元まで真っ暗だろうな、なんてことを考えたところで、視界の端に民家のものではない灯りが映った。

「なぎさ」

 いつの間にか、バスに乗っているのは私たちだけになっていた。こちらを向いたなぎさにちょいちょいと手招きをして、窓の外を指さす。ずっときらきらしていたなぎさの瞳が、よりいっそう輝いた。夏祭りの屋台の灯りが、その瞳に反射していた。

「そろそろ降りる? ささみ。まだ?」

「まだ。……でもちょっと、寄ってく?」

「うん!」

 あのお祭り行ってみたいな、と、私もなんとなく思っていた。なぎさが言うんだったら仕方ない、というように見せかけて、逸りが表に出ないように立ち上がる。家の最寄りのバス停から二つとか三つ離れたところ。名前も知らない神社の夏祭りだ。

 バスを降りてすぐ、少し遅くなること、しばらくしたら迎えにきてほしいことの連絡を母親に入れた。お祭りに行くことは言わなかった。なぎさが来るのに合わせてちゃんとした料理を作っていたらしい母親は、もうちょっと早く言ってくれれば、とかなんとか言いつつも了承してくれた。

 近くに住んでいる人しかいなさそうな、小さな小さな夏祭り。神社へ向かう道に屋台が四つ。見えている範囲にしかないのなら、それで全て。手作り感満載の飾りつけとホームセンターに売っていそうな設備の奥で、おじいさんに近いくらいのおじさんが店番をしている。

 どうやら私たちはここにいる人の中でも特別若いようで、若いモンとは珍しい! とか、どこから来たの? とか、人とすれ違うたびに声をかけられた。律儀に応えるなぎさの横で、私は相槌程度の返事をしていた。私も東京の人だと思われたりするのかな、なんてぼんやりと考えていた。

 あえて見るものもない縁日を抜けて、途中小さなかき氷を一つずつ買って、私たちは神社の石段に腰掛けた。いちごと、いちご。それしかなかった。

 しゃくしゃくと氷をすくう音が響く。頭がきーんとしないように、せっかく立ち寄ったお祭りの空気を少しでも長く味わうために、時間をかけてかき氷を食べる。屋台が近くに見えるのに周りに人はおらず、この場には二人きりで、思いがけない寄り道に高揚していた気分も落ち着いてきた。

「どう、なぎさ」

「どう、って?」

「楽しんでる?」

 少し意地悪な質問をしてみる。私もあまりお祭りに参加したことはないけれど、前に駅前でやっていたお祭りはもう少し規模が大きかった。東京のお祭りなんて、きっとそれよりももっとハデにやるものだ。ここでやっているものなんて、比較すること自体がおかしいくらいに。

「でもやっぱり、落ち着くかな。そういう意味では、楽しんでる、のかな?」

 視線を私から屋台の方に向けながら、なぎさは答えた。それを楽しんでいると言うのかどうかは怪しいけれど、本人がそう言うのだから、まあそれでいいのだろう。私は残りのかき氷を一気に口に入れた。少しして、きーんと軽く頭痛がした。

 盆踊りもないし、人混みすらない。夏祭りとは思えないほど静かで、みんな屋台を置いてどこかへ行ってしまったのでは? と不安になってしまうほど。当然そんなことはあるはずもなくて、妄想のしすぎ、と自分を諫めた。

 その時だった。ひゅるるる、と音がして、ほとんど真上くらいの位置で花火が咲いた。

「……びっくりした」

 私も同じ気持ちだった。何のアナウンスもなく、突然花火が打ち上がった。火花がちりちりと消えていくのが見えるほど近い位置だったから、目線を上に向けるのが精一杯で、丸くて赤かったな、くらいの感想しか残らない。口にするほどでもない、しょっぱい感想だ。むしろその突飛さがおかしくて、後から笑いが込み上げてきた。声を立てて笑うと、なぎさも笑った。

「これだけなのかな、花火」

「ね。もっと上がってほしいなー」

 ひとしきりおかしさが収まると、私たちは次に上がる花火を見逃さないように、星が点々と並ぶ夜空を見上げた。縁日の方からもまばらな話し声が聞こえるようになった。その期待に応えるように、さらに一つ、今度は黄色っぽい花火が上がった。

 ずっと上を見つめていたから、もう驚きはしない。視界の中心で花火を捉えてみると、あぁ、綺麗だな、という思いと、なんだか物足りないな、という思いが同時にやってきた。小さなお祭りだからこれくらいでも仕方ないのかもしれないけれど、もっとどかんと大きなものを期待していたのだ。

 ざらざらと、かなり溶けた氷をすくっている音がする。なぎさは再び暗くなった空から目を離して残りのかき氷を食べていた。最後にもう一度、消えかかった火花のような星々が並ぶ夜空を見てから、なぎさの方に視線を向けた。器を空にしたなぎさもこちらを見て、目と目が合った。

「綺麗だったね」

「うん。久々に見たよ、花火なんて」

 綺麗だったというのは本心だ。私も久しぶりだったけれど、やっぱり花火はいいものだな、と思えるくらいには綺麗だった。決して派手ではなかったけれど、手持ち花火なんかじゃ味わえないものが、打ち上げ花火にはある。

「でも、もっとハデなのも見たいなー」

 両手を石段につけて上を見ながらそう言うと、なぎさはくすっと笑って、同じポーズを取って口調を真似ながら、私はこういう控えめなのもいいと思うけどなー、と言った。言って、短く快活にあはは! と笑った。

 私となぎさ、両者が夜空を見上げていた。するとそこに、一つの光の玉が、頼りない音とともに打ち上がった。それは視界の中央まで昇ってくると、前の二つとは比べ物にならないくらいに大きな赤い花を咲かせた。

 鼓膜と心の琴線がびりびり震える。暗かった空がぱあっと明るくなって、その明かりがぱらぱらほどけて散っていくまでがスローモーションに映った。内心求めていたものを叩きつけられて、花が散ってしまった後も、しばらく視線が動かせなかった。

「……綺麗だったね。またびっくりさせられちゃった」

 先に立ち直ったのは、なぎさの方だった。その声にはっとして、反射的になぎさの方を見る。なぎさはまだ空を眺めていた。

「不思議だねー。三つだけでも、すごい満足感」

 丸い大きな花火を、一発だけ。言葉にするとたったそれだけ、派手とまでは言えないものだったはずなのに、ぴりぴり鳥肌が立つくらいの衝撃だった。これ以上打ち上がると蛇足に感じてしまうだろう。それほどの満足感が、確かにあった。

 花火がお祭りの終わりを告げる合図になっていたのか、一つ、また一つと屋台の灯りが消えていく。片付けられそうになっていたゴミ箱にかき氷の容器を押し込んで、まだふわふわとした心地のまま、私たちは家の方へと歩き始めた。

 母親に駅方面へ車を出してほしいと連絡を入れて、虫の声が騒がしい真っ暗な道を進む。正真正銘二人きりだけれど、お互いの姿もあまり見えないから、会話がないと一人きりにも思えてくる。いつもはそれが普通のはずなのになんだか居心地が悪く感じて、私は口を開いた。

「楽しめた? 小さなお祭りだったと思うけど」

 少しの間、返事はなかった。昼間みたいにきょろきょろしているような気配はない。ただ静かで落ち着いていて、あまり気配が感じられないくらいゆったりとしている。

「……うん。綺麗だった」

「……そっか」

 的を射ない返しに曖昧な返事をすると、はっ、と息を吸う音が聞こえた。手をぶんぶんとしている気配がする。自分がほとんど無意識で答えたことに、今さら気づいたみたいだ。

「ごめん! あんまり聞いてなかった……」

「ううん、大丈夫。綺麗だったねって言っただけだから」

 特に意味のない嘘だ。なぎさがゆらゆらしていた理由がわかって、少しほっとした。

「都会の人って、花火とかけっこう見慣れてるもんだと思ってたけどね」

 自分だって、あれだけ衝撃を受けていたけれど。

「なんでだろうね。私にもよくわかんないな。もっとどかーん! ってやる花火大会も行ったことあるはずなんだけど」

 また見たいな、と、消え入りそうな声でなぎさは言った。あの衝撃は、同じ花火をもう一度見たとて味わえるものではないだろう。だからか細い声になったのだ。できることなら私もあの衝撃をまた味わいたいけれど、そう簡単に叶う願いでもないことは理解していた。

 花火の後の帰り道には、虚無感が満ちていた。溜め息の一つでもつきたくなるような、何かがぐるぐると回りながら頭の中を埋めていく感じ。

「……またいつか、見よ」

 イヤな沈黙だった。通話しているときにたまに訪れる、話すことがなくて自分の手元に集中しているときとは全然違う、何か喋っていたいのに言葉が出てこない沈黙。それを打ち払うために、私は口火を切った。

「花火じゃなくてもいいから、また見ようよ。こう、ぐっとくる……なんでもいいから」

 詰まった。慣れないことをするからだ。

 なぎさのぽかんとした顔が見える、ような気がする。抽象的で、計画性もさっぱりで、不透明な話。なぎさはふふ、と笑った。そして私の手を取った。

「わかった。約束ね」

 じんわり温かい二つの手のひらが、私の右手を包み込む。ふんわり力を込めてから離された手はなんだか私のもののような気がしなくて、ぐー、ぱー、と何度か開いたり閉じたりを繰り返した。

「……約束」

 小さく、しかしなぎさには聞こえるように呟く。ようやく感覚の戻ってきた手を、たった今交わした約束と一緒にぐっと握り込んだ。

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