猫と私
親友が死んだ。突拍子もない話だけど、それはきっと、事実だ。親友本人が、私の元に伝えに来たから。
相沢日菜。享年十八。死因は、今のところ不明。身体がびしょびしょだから溺死だろうか。本人にも、それはいまいちわからないらしい。
私の家の扉を叩いた日菜はひどく濡れていて、両腕で黒猫を抱えていた。自分が濡れることも厭わずくりんとした目をきょろきょろさせて抱えられているおとなしい子猫。そんな印象を持ったけれど、その毛は別につやつやとはしていないし、むしろぱりっと乾いている。日菜とは対照的だ。
「わたし、死んじゃったっぽい」
私がドアを開けてすぐ、日菜はそう言った。その直後に、日菜がびしょ濡れなのに気づいて驚いた。日菜の言葉は現実味がなさ過ぎて、インパクトに欠けていた。
初めは、なに言ってるの? という反応。次に、ほんとう? という反応。日菜は律儀に、だから死んじゃったの、ほんとうだよ、と返してきた。私は驚くタイミングを失っていた。
信じる信じないは一旦置いておくとして、それを聞かされて、私はどうしたらよいのだろう。開け放たれたドアからは冷たい空気が容赦なく流れ込んできている。そう、とすんなり受け止めるのもおかしいし、大げさに驚くにしても、今からではもう遅い。ご愁傷様、とでも言っておくべきだろうか。
「ちょっと──」
日菜が口を開いたところで、にゃー、と猫が鳴いた。二人して目が日菜の腕の中へ移った。私がすぐ日菜に視線を戻しても、日菜はじっと猫を見つめたまま。それでも猫は日菜と目を合わせようとはせず、大きく口をあけてあくびをした。
「なに」
声をかけてやると、日菜はようやくこちらを向いた。よほど猫に思考を奪われたのか、えーっと、と話そうとしていたことを思い出している。口を開けたまま何度かまばたきをすると、どうにか思い出せたようだ。
「ちょっとついてきてほしいんだけど、いい?」
「どこに?」
「わかんない。なんか、行きたいところがある気がするの」
仕方ない、もう死んでしまったのだし、と、既に日菜の死を受け入れてしまっている自分がいた。この寒い中びしょ濡れで平気そうなのも変だし、抱えられている猫が呑気そうにしているのも妙だ。日菜はこの世の人ではなくなってしまったのだな、となんとなく理解していた。
「わかった。ついてくだけね」
今日は特別、何もすることがない。高校生の行動範囲なんてたかが知れているし、そう遠くには行かないだろうと、私は廊下に吊るしてあったジャケットを羽織って外に出た。
暖房の効いていない玄関先と言えど、もうすぐ年の明ける冬の空気よりはずっと暖かい。ましてや今日はお日さまが雲に隠れているし、風も強いし、歩き始めてすぐに、部屋着にジャケットで出てきたことを少しだけ後悔した。
「寒そうだね」
「日菜に言われたくないけど」
「わたし、寒くないから。死んでるからね」
幽霊というやつは、寒さなんてへっちゃららしい。とするとずっと抱えっぱなしの猫も、同じく幽霊だったりするのかもしれない。
幽霊のくせにこんな真冬に現れて、しっかり二本足で歩いている。そのくせ、水滴の垂れた跡を道路にぽたぽた、いっちょまえに残している。振り返ると足跡だけがついてきているみたいな、怪談話でよく出てくるアレだ。私の目には、その主がはっきり見えているけれど。
傍から見たら、私たちはどう映るのだろう。私一人が足跡を引き連れているように見えるのだろうか。それとも、雨も降っていないのにびしょびしょな変な人を連れているやばい人だろうか。今日はどうしてか人影がなく、確かめようがなかった。
「日菜はさ、幽霊なの?」
どこに行くかもわからず、これからどのくらい歩くのかもわからない。そのうち話題は尽きるだろうけれど、私はとりあえず気になっていることを尋ねてみた。
「わかんない。わたしに聞いちゃう? それ」
「だって、身近で死んでて話せる人、日菜しかいないんだもん」
そう言って、私自身も確かにおかしな質問だな、と思った。私が「あなたは人間ですか?」と聞かれているようなものだ。せいぜい、人間なんじゃない? と答えるのがやっと。
「幽霊なんじゃない? わかんないけど」
想像通りの答えが返ってきた。人と幽霊は、生きているか死んでいるかの違いを除けば、そんなに離れていないのかもしれない。
とはいえ、その違いはとても大きなものだ。境界線だけはくっきりと引かれていて、日菜との距離感がぐっと離れてしまったような感じがする。ようやく寂しさが滲んできたけれど、これを死別の寂しさと呼んでいいのかは微妙なところだ。
「確かめてみますか」
日菜は右腕を猫から外して、左腕だけで抱える体勢をとった。すると猫はその左腕によじ登って、たたっと肩を踏んで頭の上に鎮座した。かなりぎりぎりの狭さだけど、それを気にすることもなく香箱座りをしている。
「おっとっと」
「何してるの」
「こいつが勝手に」
日菜は頭の上が気になっているようだけれど、様子を見る限り重くは感じていないらしい。幽霊だから重さも感じないのか、それとも猫に質量がないのか。日菜は途端に手持無沙汰になったようだ。
「で、確かめるって、何を?」
「あ、そうそう」
ふわりと、私の手が軽く持ち上げられた。視線を落とすと、日菜が私の手を握っている。
「あれ、触れちゃった」
そういえば、幽霊というものは、生きている人には触れられないのがテッパンだ。しかしどうしたものか、日菜の手はしっかりと私の手を握っている。そのまま上へ上げたり、下へ下げたり。日菜の手の動きに合わせて、私のも動く。顔を上げると、ちょうどこちらを見た日菜と目が合った。
「触れるね」
「うん」
「ほんとに幽霊?」
「……たぶん?」
手が湿っているというわけでもなければ、極端に冷たいということもない。けれどその手はなんだかふわふわしていて、まるでわたがしを握っているみたいだ。ふとした拍子に溶けてしまいそうな感触は、それが幽霊の感触と言うならば、もしかするとそうなのかもしれない。
頭上からにゃー、と声がした。私は日菜の頭の上を見た。日菜は首を上へ傾けようとして、猫が落ちないように止めた。少し足場がぐらついた猫は、そんなことを気にする風もなく、ちょっとだけ移動して難なくバランスを保った。
私は手を離すタイミングを逃して、そのままで歩いた。もし日菜が私にしか見えていなければ、隣の視えない誰かと手を繋いでいるとんでもない不審者だ。道に誰もいなくて助かった。
本当か嘘かは未だにはっきりしないけれど、日菜は死んでしまったらしい。そうすると、いつまでこの世にいられるのだろうか。こうして手を繋ぐのも最後になるかもしれない。生きていた頃だって、手を繋いだことなんてなかったけれど。
自分が死んだ先のことを考えたことはある。言いようのない不安に駆られたことだってもちろんある。日菜がどうだったかは知らないけれど、死んでもこうして幽霊? として少しだけでもこの世に留まれることがわかったのはありがたいかもしれない。そうすると今度は霊体が消滅したら、という疑問が湧いてしまうのは、まあ仕方がないというものか。
「お墓参りはちゃんとしてね」
「イヤだなぁ、なんかおばあちゃんみたい」
冗談でもなんでもないものを、敢えてジョークとして受け取ってみる。日菜もにこにこと笑顔になって、死人の表情には見えなかった。それでも心の奥底にこびりついた寂しさは、どうにも拭えそうにない。
やっぱり、日菜がいなくなってしまうのは寂しいのだ。会えないどころか、連絡も取れやしないし、街中でばったり出会うドラマ的展開すら望めなくなるのは、さすがに寂しさが抑えきれない。この先十年くらいは永遠の別れなんて訪れないと思っていたばかりに、何か心に来るものがあった。
ふと、日菜の笑顔が少しだけ曇った。そのまま一気に悲しそうな顔になって、視線を正面に戻した。
「やっぱ、イヤ? わたしが死ぬの」
「…………」
もはや機械的に動いている足を止めることもせず、日菜が尋ねた。私は思わず、返答に詰まった。当たり前じゃん、と言ったところで、日菜は死んでいるのだし、どう答えたものかと悩まされた。
「イヤだよ、そりゃあね」
けれど結局、自分の意見そのままを述べた。別れはいつでもつらいもの。二度と会えないのならなおさらだ。
「そっかー」
日菜はそれを聞いて、どうするつもりなのだろう。もしかして、自分に残されている時間がわかっていたりするのだろうか。死んだ直後に天使サマから聞いたとか。
「うん。わたしもヤだね。もう会えなくなるってことだし」
私と同意見みたいだ。会えなくなるのはイヤで、日菜が死ぬのはイヤ。だからといってどうしようもないのが恨めしいけれど、それを私たちでどうにかできるほど、この世界の作りはヤワではないだろう。
「でもさ、ちゃんとそれが聞けてよかった、って思うな。だってさ、そう思うってことは、お墓参り、ちゃんと来てくれるってことでしょ?」
日菜の笑顔は、無理やり作ったものだと分かった。私と同じで、感情が顔に出やすくて、それを隠すのがヘタ。取ってつけたようなジョークだってヘタクソだ。
それでも、私も笑顔を作った。無理にでも笑ってみると、意外と気分は明るくなるものだ。今さら襲ってきた悲しさを押さえつけて、涙が滲まないように笑った。日菜の笑顔から、ぎこちなさが消えた。
「もちろん!」
その返答を聞くと、日菜は歩く速度をだんだんゆるめて、やがて足を止めた。それに倣って私も止まる。私と日菜は、お互いを正面にして立った。どちらからともなくハグをした。日菜の身体は、やっぱりわたがしみたいだった。
「わたしの分まで生きること! いいね!」
「うん。天国でも、元気でね」
「そんなのあるかどうかわかんないけどね! いいのいいの、わたしのことは気にしないで」
故人の最期の願いは、ちゃんと聞いてあげるべきかもしれない。けれど日菜のことを気にしないだなんてことはできないだろうから、返事の代わりに思いっきり抱き締めた。日菜はぽんぽんと私の背中を叩いて、わたがしを水に濡らしたみたいに、するするとほどけていった。
日菜の姿が完全に消えて、私はふっと息を吐いた。上京する先輩を見送ったときのような気分だ。寂しさと悲しさと、あなたのことを忘れない、という決意が入り交じっている。頭の上で、にゃん、と声がした。
「あれ、アナタは幽霊じゃないの?」
猫は返事をするように、にゃー、と鳴いた。いつの間に飛び移ったのだろう。ぐっと掴んで胸の前に持ってくる。そのまま抱えて、今日初めて会ったときの日菜と同じようなポーズに。
「どこかで下ろすよ。それまで、おさんぽしよう」
日菜の熱が腕の中に残っている気がする。それとこの猫の熱があれば、しばらくは寒さもどうにかなりそうだ。私は一人と一匹で、さっきまでいたもう一人のことを想いながら、どこへ行くということもなく歩き始めた。
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