短編集
時雨 柚
浮かされ、ゆらぎ、見つめて
きつい日差しが、バス停とその周辺のビル群を真上から照らしていた。ビルのすぐそばに寄ってもそこに影はなく、真夏の太陽にじりじりと蒸されていく。私はできるだけ動かないように、光の中にじっと立っていた。
通行人たちはぽつんぽつんと点在する影から影へと、飛び移るように足早に動いている。平日のお昼時、ラーメン屋は人気がなく、コンビニや蕎麦屋が賑わっている。
ここは今朝取り付けたばかりの待ち合わせの集合場所。特別することもなかったから早めに来てしまったけれど、少し早すぎたかもしれない。待ち合わせは何時だったっけとスマホをチェックしようとして、チェックも何もスマホを持ってきていないことに気づいた。ほんのわずかな時間ポケットを探っていた手が、蒸し料理みたいにほかほかになっている。
その感覚に満足して、もう一度、今度はどちらの手もポケットへ。熱くて心地がいいような気がする。道行く人の視線が一瞬こちらに向いて、すぐに外れた。
すぐ近くに停まるバスも、すごく熱そうだ。ポケットが蒸篭だとしたら、バスはフライパン。じゅうじゅうといい音を立てて焼き料理ができる。ヤケドでは済まないかもしれない。触れたら、ダイヤが乱れるどころの話ではなくなってしまう。
〝そういうこと〟ができる場所は、この街にだってたくさんある。ここに来る道中だって、工事現場が一つ、駐車場が三つあった。少し歩けば駅もある。バスでちょっと行けば川だってある。海だってある。
それでもどこにでも人の目はあって、そんな場所ではぴたりと足が止まった。動かせなくはないけれど、そんなことにひどい労力を使うのはなんだかもったいなかった。集合時間まではあと十分や十五分くらいだろうか。それまで待っていればいい。
そう思っていたけれど、目当ての人はそれほど時間を置かずにやってきた。
目が合った途端、瑠菜はぴしっと動きを止めた。仕方がないから、私の方から近づいてみる。瑠菜の固まった身体はすぐにほぐれて、困ったような、呆れたような顔で肩を竦めた。
「久しぶり!」
「久しぶり、じゃないよ。ぶっ倒れるつもり?」
瑠菜と最後に会ったのは五年以上前、中学に上がってすぐの頃。いつの間にか見上げるくらいの身長差になってしまった。それでも短めの髪や少しだけ眠たそうな目は変わっていなくて、懐かしさと新鮮さの混じった奇妙な感じがした。
「おっきくなったね!」
「聞いてる?」
「聞いてる!」
声はずいぶん低くなった。昔の瑠菜の声を正確に覚えているわけではないけれど、もっと高い声だったのは覚えている。低くて、頭の奥に響いてくるような声。聞いていると心地がいい。
「てか汗だくじゃん。パーカー脱げば? せめて」
「瑠菜、ちょっとお願いしたいことがあるの。歩きながらでいい?」
ひさびさの再開で、お互いそれなりに変わったはずなのに、すぐ昔のように話せるのが不思議だった。少しテンションが上がってしまう。
「また……。そんなんだったっけ、紀子って」
「服のこと? 私これがいいの。ね、行こ!」
瑠菜の手首を掴んで、彼女が歩いてきた方向へ。ほんのりと焼けた、綺麗な腕だ。私の死人みたいな腕よりよっぽどいい。このコントラストは、なんだか映える気がするけれど。
バス停の近くは、ビルやお店が固まっているだけあって、平日でもそれなりに人が多い。夏休み期間の今は普段ならいない学生だっているかもしれない。そういう人たちに聞かれてはよくないかなと、私は瑠菜の腕を引っ張った。
「ついてくから、離して?」
「ほんと? 逃げない?」
「なんで逃げる必要があるの。逃げないよ」
ぱっと腕を離す。爪は立てなかったけれど、うっすら跡が残った。力を籠めすぎたかもしれない。ごめんね? と謝ると、瑠菜は別にいい、と応えて腕を軽く揺らした。
街の中心部からちょっと離れると、途端に人通りは少なくなる。真夏の昼間なんてそんなものだ。ここらへんなら、誰かに聞かれる心配もない。
「瑠菜」
振り返ると、瑠菜も立ち止まった。まるで愛の告白みたいだ。実際それに近いようなものだし、もっと雰囲気を作ってもよかったかなと思ったけれど、ここまで来てもう一度チャンスを! なんていう気にはなれない。
「なに」
「私を殺してくれない? できるだけ、人目につかないように!」
瑠菜はまた、ぴたりと動きを止めた。固まったのは今度は一瞬だけで、すぐにくわっと険しい表情になった。ばか! と、大声で叫ばれた。小学校でよくやんちゃしていたときの瑠菜でも、こんなに薄っぺらい罵倒はしていなかったのに。
「なんで? なんであたし? そもそも……ああっ、もう、なんで!?」
「落ち着いて、慌てることなんてないじゃん」
やっぱり少し、突然すぎたかもしれない。雰囲気作りというのは意外と重要らしい。告白なんてものにはさっぱり縁がなかった私には知る由もなかった。これから先、この教訓が活きてくることなんてなさそうだけど。
触れてあげようと伸ばした手を、瑠菜はぱっと振り払った。手を引っ込めると、逆に掴んできた。忙しい手だ。
「大丈夫?」
「どの口が言ってんの……」
十秒ほど掴まれて、ようやく手は離れていった。袖を捲ると、赤くくっきりと跡が残っている。お揃いのリストバンドみたいで、なんだか微笑ましい気持ちになった。瑠菜の方も落ち着いてきたようで、はっきりわかるほど鋭くなった目以外は元通りだ。
「そっか。だからその服なんだ」
「服? これ、いいでしょ。かっこよくて、着心地もよくて、最高だよ」
「あー、もういい、大丈夫」
本人からも、大丈夫という言葉が聞けた。瑠菜はやっぱり、器が大きい。どんなことでも受け止められそうな頼もしさは、あの頃から全然変わっていない。だからこそ、私は瑠菜に待ち合わせの連絡を取り付けたのだ。
「じゃあ、やってくれるってこと?」
「やだ」
しかし、実際はそう上手くもいかないようだ。この場合私は「フラれた」ということになるのだろうか。想像していたよりもショックは感じられなかった。
「そっかー」
「……いいんだ、それで」
「と、いうのは?」
「そんなこと言い出すから、もっと食い下がってくるかと思っただけ。やめるならやめるで、私はいいんだけど」
しばらく会わない間に、瑠菜は不思議な人になってしまっていた。告白にここまで取り乱したり、手を振り払ったと思ったら掴んできたり。ついには私にはさっぱり理解のできない話まで始めてしまった。
「だって、最近忙しいんでしょ? なら別の人当たろっかなって。まだアテはないけどね」
欲を言えば、瑠菜がよかった。せっかく告白を決意したのに、すぐ別の人に乗り換え、といのも気が引けた。それでも瑠菜が忙しいのなら、迷惑だけはかけたくない。
瑠菜は無言で目を丸くした。白目のちょうど中央に黒目があって、展示されている宝石みたいにきらきらして見えた。もしかすると、ちょっと惹かれていたりはするのかもしれない。
「紀子」
見開かれていた目が元に戻って、急いでいた口ぶりも落ち着いた。瑠菜はゆっくりと息を吸って、まるで告白でもしようとするみたいにこちらを見た。私は心臓が跳ねるのを感じた。さっきの瑠菜はこんな気持ちだったのか。気分は少女マンガの主人公だ。
「ほんとに、死のうと思ってるの?」
しかしその口から出てきたのは、今さらそんなことを聞くの、と言いたくなるようなことだった。私も瑠菜も告白はヘタらしい。お似合いと言えばお似合いだ。
「もー、そんな何度も言わせないでよー」
「私は真剣なんだけど。なんでそんなにふざけてられるの」
ふざけるも何も、さっきの言葉の通りなのに。そう言いたかったけれど、瑠菜の目がいつになく冷ややかになっているのに気づいて、私は口を開かず笑って見せた。
こんなに手厳しく当たってきても、自分ひとりでやれば? とは決して言わないのが瑠菜の優しいところだ。自分でやってしまうと、必ず誰かに迷惑がかかってしまう。それだけは避けたかった。そのことを、瑠菜は言わなくてもわかってくれているのかもしれない。
「なんで死にたいの。とりあえず私に言ってよ。どうにもなんないかもしれないけどさ」
「なんで? うーん……」
瑠菜は、小学生のころは細かいところを気にする人ではなかった。やんちゃで、それに見合うくらい大雑把で、好きなことは好きで嫌いなことは嫌いな人。だから、意外な質問だった。
しかし私の方も特別理由は見つからず、わかんない! と返す。そしてため息が返ってくる。瑠菜はしっかり成長していて、私はそれほどしていないようだ。
「それより、ちょっと移動しない?」
「……どこに」
「特に決めてないけど」
本当はここでずっと立ち止まっている予定はなかったけれど、意外と話が弾んでしまった。私たちはより人の来なさそうな細い路地に場所を移した。
「なんかどきどきしない? 秘密基地みたいで」
「しない。ていうか、さっきからずっとしてる」
仄かに暗くて、刺されるにはぴったりだ。ミステリー小説の舞台にするには狭いし華もないけれど、私にはこのくらいがちょうどよさそうだ。
「で? ここで、何するの」
「話の続きかなー。ちゃんとした返事もらってないし?」
ね? という感じで瑠菜を見上げてみる。顔がきゅっと苦くなった。さっきはばっさり否定されてしまったけれど、今はこうして悩んでくれている。その変化が嬉しくて、ぜったいその気にさせてやる、という気持ちが強くなった。
もしかすると、私は単に死にたいだけではなく、瑠菜に殺してもらいたいのかもしれない。けれど今は余計なことを考えないように、頭をなるべくからっぽにして、こちらを見つめて悩んでいる瑠菜をじっと見つめ返した。
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