洗濯日和
その日は良く晴れていた。魔女が朝一で溜まった洗濯物を纏めて洗って干せば、日で
午後もあるのだから、もっと洗濯は出来る。でも魔女一人分の洗濯物は全て片付いてしまった。
魔女は折角の日射しが勿体なく思って、何かないかと考えを巡らせる。しかしバケモノが時間を停めた城や街にあるものは汚れたりはしない。
「ああ、そうだ」
この時間の止まった街で動くものを思い出して笑った。
ちょうどそこに狩りに出掛けていたバケモノが帰ってくる。手に獲物を持って来ていないので森でもう食べてきたのだろう。
「本当にオマエの分はいらなかったのか?」
バケモノは出る前に魔女にも肉を獲って来ると申し出たのだが、ぴしゃりと断られた。初日に持って来た小鹿の肉は、料理をバケモノの口にも放り込んでいるが、まだ三分の一も残っている。
「いいのよ。それより、貴方もたまにはお風呂に入りましょう」
「……なぜ?」
話の脈絡が全く掴めなくてバケモノはポカンと目を開く。
「虫が付かないように水浴びも魔術も使っているぞ」
バケモノは自分の腕を顔に引き寄せて匂いを嗅ぐ。そんなに臭くはないだろうと思うが、自分自身の匂いは良く分からない。
全身が毛皮に覆われているバケモノは獣と同じで汗をかく部位は限られているから、そんなに不潔でもない筈だ。
「お風呂でさっぱりして、それでこの暖かい日射しを浴びたら、物凄く気持ちいいわよ」
バケモノの戸惑いなど気にも止めないで、魔女はもう洗う気満々だ。
バケモノは魔女の周囲に魔力が渦巻く気配を感じて、その場で蹲り無抵抗の態度を見せる。
「待て。分かった、好きにしろ。魔術で無理矢理押さえようとするな」
「あら、良い子ね」
魔女はバケモノの殊勝な態度ににこやかに笑って浴場へと連れ立った。
かつていた都の皇帝は財の限りを尽くして豪華絢爛な生活を送っていた。浴場もまた然り、そこは魔女が見上げるような巨体のバケモノが入っても余裕がある広さがあり、浴槽もバケモノが肩まで浸かる深さこそ無けれども横たわることは出来る。
魔女は腕を振って噴水仕立ての水栓からお湯を出し浴槽に溜め始めた。
そしてするりと着衣を脱いで全身の素肌を晒す。
「何故、オマエが脱ぐ?」
「貴方を洗うのにどうせ濡れるでしょうよ」
服が濡れるのが嫌だと言われたら、バケモノはそうかと頷くしかない。
魔女は浴槽に足を踏み入れて、バケモノを手招く。
バケモノは渋々とお湯に手を付けて身を横たえた。
「熱くない?」
「熱くないが、湯が毛の間に入って来るのが奇妙な気分だ」
狩りのついでに森の泉で水浴びを済ませてきたのに、どうしてその日の内にまた洗われなければならないのか、バケモノには理解が及ばない。しかも城の浴場を使うのも初めてのことだ。
魔女はお湯を手振りで操ってバケモノの頭上からお湯を掛けて全身を濡らしていく。
湯気が立ち込めて視界が曇るのも、バケモノは落ち着かない。
魔女は
くるくると回るお湯が見る見る内に細やかな泡を作っていった。
「ああ、そうそう。これを
バケモノは魔女が差し出した掌に乗っている生クリームのようにきめ細かい石鹸の泡に三つの視線を落とした。
「
「ええ。メレンゲ状のふわふわとした泡のことよ」
「そのままだな」
「分かりやすいでしょう?」
未言というのは聞いたことない音の響きを持っているかと思えば、このように誰も思い付きそうな字面であることもあって、バケモノにはあやふやで掴み所がなく感じられる。
しかし今まで言葉にされてなかった物事であるのだから、そういう曖昧で分かるような分からないようなものであるのも、しっくりくるのかもしれない。
魔女は手杯から溢れる柔泡に息を吹き掛けた。それは蒲公英の綿帽子のように吹き飛ばされて、バケモノの全身を覆っていく。
バケモノの毛並みから滑り落ちた柔泡はお湯の上に浮かび、もしくは混ざって、バブルバスへと変えていった。
魔女は手に余る大きさのブラシを持ってきて、ごしごしとバケモノの体を洗い始める。
少し固めのブラシがバケモノの筋肉を程よく解してくれて、確かにこれは気持ちが良かった。
「オマエは未言というのをどうやって知るんだ?」
全知のバケモノが視られないものを、未知の魔女はどのように手に入れているのか。それをバケモノは以前から疑問に思っていた。
魂が元々はこの世界にないと以前に言っていたから元から全て知っているのだろうかとも考えている。
「ああ、聞こえるのよ。耳の奥で、囁くように響くの。未言の言葉と意味がね」
そういって魔女は形のいい耳たぶを指で摘まんで、バケモノに示した。
「異端か」
「そうね。未言が聞こえる機能を持った異端の耳よ。未言がそばにあると、音楽が聞こえるようなのよ」
「そうか」
それはきっとこの魔女にとって幸せな気分なのだろうとバケモノは思った。
ふと、自分はどうだろうかと今まで考えたこともない思考に思い至る。この世界の全てを額の目で視て、幸せだったか。
考えを巡らせるまでもなかった。バケモノにとって視えることはただそうであるだけで、別に幸せなことでも、かと言って嫌なことでもなかった。
全知のバケモノである自分と、未知の魔女である彼女と、どうして違うのだろうかと彼女の手で泡塗れになりながら思考に浸る。
バケモノはただただ、全く違うのだという事実しか分からなかった。
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