あなたに寄り添うエビ

ゴオルド

エビのマッスル・デスティニー

「返却」

 そう言って男がぽんと置いた文庫本は、ぐにゃぐにゃと波打つように曲がっていた。


「これ……前からこうでしたか?」

 受付カウンター内に座る私が尋ねると、おそらく30代くらいと思われるその男性利用客は、きょとんとした顔をした。

 弁明なり否定なり、何か言うだろうと思って待ってみたが、男は口をぽかんとあけたまま動かない。

「利用者さまがこの本を曲げてしまったんですか?」

 男は、表情ひとつ変えずに、

「違います。僕は曲げてないです。お風呂に落としただけです」と言った。

 私はため息をついた。

「つまり、利用者さまが、この本をお風呂に落として、それで水に濡れて、ぐにゃっとしてしまったということですね」

「水じゃなくてお湯です。だってお風呂だから」

「ああ、そうですか」

 だんだんいらいらしてきた。

「水でもお湯でもどっちでも同じですけど、図書館の本を濡らさないように気をつけてください。これではもう他の方が読めません」

「え、でも」

「何ですか?」

 男は無表情のままだ。ちょっとは申しわけなさそうな顔をしろよと思ってしまう。そういえば謝罪の言葉もまだない。なにも反省していないということなのか。

「水でもお湯でも同じではないです。お風呂だから当然お湯です。水だったら大変です。もちろん水風呂もありますけど。水風呂って銭湯に行ったときに見たことが……」

「そんなのどうでもいいです!」

 つい声が大きくなってしまったので、慌てて声をひそめた。

「……とにかく図書館の本を濡らされたら困るんです。本が傷んでしまい、ほかの利用者さんが利用できなくなるからです。もう二度とやらないと約束してください」

「えっと、端的に言うと、お湯もしくは水で本を濡らさなければ良いということですか」

「そうですが、水とお湯だけじゃありません。本はいろんなもので汚れてしまいますから、汚さないように気をつけてください」

「え、でも、さっきは濡らすなって言ったのに。言っていることが変わってる。話に一貫性がないですね」

 本当にいらつく人だ。

「もう何なんですか! 本を汚さないでくださいって、それだけの話でしょう。どうしていちいち反論してくるんですか。もうちょっと反省の態度とかないんですか」

「でも濡らすなって言ったのに……」

「すみませんの一言もないんですか!」

「でも」

「謝罪しないなら出禁になりますよ!」

「でも……」


 そこで、はっと気づいた。

 図書館中の視線が私に集まっていた。みんな怪訝そうにこっちを見ている。顔をしかめている人もいた。私は大声で怒鳴ってしまっていたようだ。

 ――私、何をやっているんだろう。

 おかしな利用者なんて慣れているはずなのに。

 でも、どうしてだろう。本を汚して開き直ったり、逆に文句を言うような人より、今日の男性は特別いらつくのだ。話が通じなくて、悪気がなさそうで、無表情で「でも」ばかり言う。それがどうにも我慢がならない。

 だからといって、受付カウンターで怒鳴るだなんて。

 自分が恥ずかしくなって、うつむいた。



 そのとき、エビと目が合った。

「えびっちょ、まっちょっちょ」

 100円玉ぐらいの大きさの紅いエビが、カウンターの上で踊っている。

「知ってるぅ? エビって筋肉質なんだって!」

 これは幻覚だろうか。

「エビと一緒にマッチョになろう。えびっちょ、まっちょっちょ!」


「えびっちょ、まっちょっちょ」と、本を濡らした男がつぶやいた。


 この人にも見えているのか。ということは幻覚ではないみたい。でもさあ、この人ごめんなさいは言えないのに、わけのわからないフレーズは言えるんだ。大事なことは言わないくせに無駄なことだけ言うのって、余計腹立つ。


 

「出禁は勘弁してあげてぇ」

 紅エビが踊りながら、男のために頭を下げてきた。

「お二人はお知り合いですか」

「ううん、初対面だけど、何か感じるっちょ……運命の出会い的な……マッスル・デスティニー……」

 うーん。

「まあ、正直なところ出禁は言い過ぎました。謝罪もしたくないならしなくてもいいです。だけど、もう二度としないって約束だけはしてください」

 司書としては、かなり譲歩したつもりだ。

「でも、そんな約束できないし……」

 私がキレるより先に、紅エビが男に詰め寄った。

「おいおいおい! おまえ本気でそれ言っちゃうのかい!」

「だって、本を借りたあとに洪水とか起きて、水に濡れるかもしれないし、電車で火事に巻き込まれて、消火活動中に濡れるかもしれないし、何が起きるかわからないのに約束なんてできない」


「えびっちょ、まっちょっちょ……」

 紅エビのテンションが下がっている。

「えびっちょ、まっちょっちょ……」

 私も呆然と復唱してしまう。


「どうするマッチョ?」

 お手上げだとでも言いたげに小さなハサミを高く掲げて、紅エビは私を見上げてきた。あーあ、もう。

「じゃあ、「次からは気をつけてくださいね」って私が言うから、あなたは「はい」って言ってください。それでもういいです」


 私は一呼吸おいてから、ゆっくりとした口調で言った。

「次からは、気をつけてくださいね」

「……」

「マッチョー! なんで何も言わないっちょ?」

「だって、なんか納得いかないです。謝罪を無理強いされるみたいで腹が立ちます」

「ああそうですかっ。じゃ、しょうがないですね、出禁ってことで」

 この男はもうそれでいいだろう、本人も謝りたくないみたいだし。

「次にお待ちの方、どうぞー」

「ま、待つっちょ。可哀想っちょ。そうだ、謝罪の気持ちを込めて、エビと一緒にスクワットするっちょ。それで200回できたら許してあげてほしいっちょ」

 なんかもう面倒くさくなってきたし、いいよ、それで。投げやりにそう言うと、エビと男はカウンター横でスクワットを始めた。


「いーち、にいい、さーん……」

「お次でお待ちの方、どうぞ!」


「ごじゅはち……ごじゅうきゅう……」

「あと2冊、貸し出し中の本がありますね」


「ひゃくきゅうじゅういち……ひゃくきゅうじゅうに……」

「返却ありがとうございました」




「に、200回達成したっちょー! えびっちょ、まっちょっちょ!」

「えびっちょ、まっちょっちょ!」

 紅エビと男が小躍りしている。なんだこれ。だいたい「もうしません」って言えば済んだ話なのに、なんでスクワット200回もやったの、この人たち。

 でもまあ、足腰が鍛えられて良かったのかもね。


 その男は、また本を借りた。その際、ビニール袋をくれというので、1枚渡した。男は本をビニール袋に入れて、そこでセロハンテープも貸してくれというので、テープも貸してやった。

 袋の入り口を厳重にテープで留めて、「これで濡れない」と言い、男は帰っていった。嫌味のつもりだろうか。

 後日、男が本の返却にやってきた。嫌な予感がしたので本を開くと、砂がざらざらとこぼれ落ちた。

 砂浜で読書したらしい。

「濡らしてません」と、男は悪びれず言った。


「エビィィィ!」

 私がぶち切れて叫ぶと、すぐに紅エビがあらわれた。

「えびっちょ、まっちょっちょ! 今度は腹筋を300回しますので、どうか許してあげてほしいっちょ」



 その後、男は本の返却のたびに、私やそのほかの司書から叱られ、だが決して謝らないので、エビと一緒に筋トレ謝罪を繰り返した。

 筋トレ謝罪は回を重ねるごとにどんどんエスカレートして、1回の謝罪で10日間ずっと腕立て伏せをするなど、超人レベルのものになっていった。


 こうして、彼はこの国でナンバー1のマッチョになり、国際試合に出るとかで日本を出ていった。いや、世界に羽ばたいていった。



「まっちょ~。いい生徒を育てられて満足したっちょ。次は誰をマッスル・デスティニー?」

 カウンターで踊る紅エビが、ちらちらとこっちを見ている。


「えびっちょ、まっちょっちょ」

「……」

「えびっちょ、まっちょっちょ」

「……」


 次は私の番なんだろうか。


「エビと一緒にマッチョになろう。えびっちょ、まっちょっちょ!」


 すごく……困る……。


<完>

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