第3話『バイデント襲撃事件』

 セントラル国南部、バイデント。

 一年を通して雪が降る北部とは異なり、陽気な気候が続く南部は主産業の農業が盛んに行われており、バイデントは国内に於ける食料事情の一翼を担っている。

 海に面した地域では貿易業も積極的に行われているが、バイデントでは精々国内への輸送を行う程度。利益という点では近隣から大きく引き離されている。

 彼らも一日中農業を嗜む訳ではない。

 日が暮れていれば帰路へつき、自宅へ帰宅して翌日に備える。中には内職を行って賃金を補う人もいるのだろう。


「ナイナスさん、こんにちは」

「おう、こんにちは。オルレール」


 今しがたバイデントに常駐している辺境軍へ挨拶した少女、オルレール・アヴェンもその一人。白髪を二つ結びにした少女は、無地のシャツと父親からのお下がりでサイズの合わないズボンを紐で結んでいた。土や汗に濡れた服や手が、彼女の勤勉さをナイナスにも印象づける。

 丁寧かつ快活な挨拶を返す彼女は、首都アイギスから辺境の村へ飛ばされた辺境軍にとって数少ない癒しを与えた。

 魔王討伐から三年。既に散布された魔物も多くが討伐され、国も徐々に復興費用確保のために軍縮を進めている。その一環とも言える左遷であったが、首都にいては掴み辛い守るべき人々の営みが使命感を一層燃え上がらせた。


「最近南部では盗賊の目撃情報がある。夜は戸締りをしっかりして、気をつけるんだよ」

「はい!」


 忠告に首肯し、オルレールは地面を均しただけの簡単な整備が為された道を進んで帰路へつく。

 木と煉瓦を組み合わせた二階建ての一軒家。煙突から黒煙を噴き出す彼女の自宅は現在、父と母を含めた三人で暮らしている。煙が出ているということは、今頃母が料理を作っている最中であろうか。

 木製の取っ手を掴み、オルレールは快活に帰宅の声を上げた。


「ただいま!」

「お帰りなさい、オルレール」


 娘の声に振り返ったのは、白髪を伸ばした妙齢の女性。台所で小麦を捏ねるパンテモロール・アヴェンは、オルレールの汚れた姿に難色を示す。


「……オルレール、言っとくけど先にシャワーを浴びなさいね」

「えー、先にご飯ー!」

「パンに土の調味料なんて合わないわよ?」

「……ぶー」


 視線を手元に合わせると、確かに土汚れが目立つ。

 これではパンの味が変わるという主張にも納得せざるを得ない。

 頬を膨らませて愚痴を零すと、オルレールは台所を通り過ぎて奥の浴室へと向かう。

 セントラル国を流れる水はミネラルが豊富に含まれた硬質で、栄養補給ならばいざ知らず身体を洗うのには適していない。また水道設備にも魔王の手が及び、未だ復興の兆しが見えない地域では水にも相応の値が張ってしまうのだ。

 そのために国民性として風呂をあまり好まず、汗を掻いたらシャワーで簡単に流すのが一般化している。

 オルレールも例に漏れず、暖炉の熱を流用して人肌に適した温度にまで温められた温水で簡単に身体を清めた。

 濡れた身体をタオルで拭き、替えのシャツへと袖を通すと玄関が開く音が鼓膜を震わす。


「ただいまー」

「あら、お帰りなさい。アナタ」

「パパ、お帰り」


 扉から現れた父──シャトー・アヴェンに、オルレールはシャワーを浴びたての姿で応じる。

 農業が盛んと言っても、誰も彼もが畑を所持している訳ではない。父と娘が別々の時間帯に帰宅するのも、それぞれが従事している畑と自宅との距離や細かな作業時間の差異を思えば不思議ではない。

 が、シャトーの手にある荷物は、普段と異なる理由を脳裏に過らせるには充分であった。


「あら、それって……」


 先に気づいたのはパンテロール。

 浪費癖とは無縁な旦那が夕食があると分かった上で間食を口にするとは思えず、勝手に惣菜を追加するかと問われても否。

 なれば、特別な事情があると考えるのが自然。

 そして妻には、娘には気づかない特別な事情に心当たりがあった。


「そうだよ、パンテ。婚約記念日を祝うためのさ」

「あら、もうそんなに経ってたのね……!」


 シャトーの告白にパンテロールは駆け寄り、娘が見ているのも厭わず抱き合う。勢いはついていたはずだが、荷物が潰れないよう互いの間隔は確保されていた。

 見つめ合う二人は互いの世界に入り込み、オルレールの姿など眼中にない。

 新婚気分かと呆れた視線を向けるオルレールだが、娘としても両親仲がいい分には不満を抱く訳もない。むしろ自分にもいずれ二人のような運命の人と出会えるのかと、期待に胸を膨らませた。


「……ん?」


 ふと意識を両親から離し、外の喧騒に耳を傾ける。

 確かに夕焼けも地平線に沈みつつ、農作業が終わる時間帯ではある。が、それにしても騒がしく、何か祭があっただろうかと少女は首を傾げた。

 窓から見える光景は人々がどこかへ駆ける様子のみ。

 オルレールが詳細を理解するには些か情報が不足していた。

 故に二人を放って取っ手を掴むと、扉を押して外の様子を確かめる。


「え……?」


 喧噪は狂騒に。

 どこかへ駆ける人々は恐怖から逃げる人々へ。

 悲鳴と断末魔の叫び、そして異形の化物が生命を蹂躙する様が道路には広がっていた。


「何、これ……?」


 男を殺せ。女を殺せ。

 若きを殺せ。老いを殺せ。

 視界に映る万象全て、命の営みを殺し尽くせ。

 人の抱く固定概念、自然界の常識から乖離した異形の怪物が列を為し、辺境の村で暴れ狂う。陽の光とは異なる燈色が、家屋の至る箇所から燃え広がっていた。

 それは魔王の尖兵──勇者や軍が駆逐にかかっているはずの魔物に他ならない。


「パパ、ママッ──!」


 危険だと二人に伝えるべく振り返ったオルレール。

 そのすぐ側では、今まさに棍棒を振り抜かんと迫る緑の体色を有する魔物、ゴブリンの姿。

 気づくことすらない愚鈍な少女は、目蓋を閉じる間もなき絶命の危機に成す術もなく。


「オルレールッ!」

「えッ」


 強引な力で扉の内側へ吸い込まれるオルレール。

 突然の事態に思考が追いつかない彼女の前に跳び込んできたのは、射出された矢よろしく弾き飛ばされたナニカ。物々しい音を立てて棚を砕き、生々しい音が鼓膜に不快な音を届ける。

 崩落する棚が煙を上げ、ナニカの正体をオルレールとパンテロールから覆い隠した。

 何も分からず、首を左右に振る少女は、やがて家の中に欠員がいることに気づく。


「ママ……パパは……?」

「ッ……!」


 震えの混じる声は、まるで問の答えを知っているかのように。それでいて、本当は違うのだと種明かしを求めるかのように。

 だが母の目尻から零れる涙と肩の震えが、何よりも雄弁な答えとして二人の胸を打つ。

 シャトー・アヴェンはゴブリンの棍棒に殴られ、人にあるまじき骸を晒して息絶えたと。


「バギャァァァッ!!!」


 血の匂いか人の気配か。

 アヴェン宅へ乗り込んできたゴブリンの集団は、玄関から律儀に招かれるはずもなく。

 窓を砕き、壁を破砕し、砂糖に群がる蟻の如く室内へと入り込む。


「マ、ママッ。早く逃げないと……!」

「え、あ……うん!」


 娘の呼びかけに応じ、母親は裏手の出口を目指す。


「ッ……!」


 ふとオルレールが振り返れば、ゴブリンの集団は棚に跳び込んだナニカへ群がり口や得物を朱に染めていた。肉を貯蔵していない棚を物色して。

 血の気が引く感覚を覚えて正面を向き、今しがた目撃した光景を敢えて頭の中から忘却する。或いは、脳裏に焼きついては足が動かなくなると判断した防衛本能がそうさせたのか。

 壁を突き破る腕や棍棒が顔や腕を掠めて、崩落の音も相まって背筋を冷やす。

 裏手の扉へ到達し、パンテロールは手早く取っ手を掴む。


「オルレール、早ッ……!」


 扉を引き、一歩踏み出した直後。

 女性の顔に跳びかかる異物。

 衝撃に身体をよろめかせ、壁に衝突するパンテロール。跳びかかった異物を掴もうと手を伸ばすも、液体を指で離すなど叶う訳もない。

 呼吸を封じられて藻掻く母親の姿に、オルレールは顔を蒼白に染めて腰を抜かした。


「マ、マ……?」


 半透明の液体は意志を持つかのように細かく流動し、パンテロールの抵抗を嘲笑う。

 手間取っている間に裏手、そして正面から侵入したゴブリンの集団が迫り来る。

 口から汚泥染みた鼻のひん曲がる臭気の涎を垂れ流す集団は、藻掻き苦しむパンテロールへと歩み寄る。そして天高く棍棒を掲げると。


「止め──!」


 娘の嘆願も聞く耳持たず、力強く振り下ろした。

 一度、二度、三度に四度。

 肉が裂け骨が砕け内臓が宙を舞い、部屋一面に鮮血をぶちまける。泥遊びに興じる子供を彷彿とさせる情景だが、無垢な子供と呼ぶには眼前の魔物は化生に過ぎた。

 そして叫びを上げたオルレールにも、ゴブリンの一団は迫る。

 シャトーにパンテロール。

 立て続けに家族を失ったことで放心し、少女は涙を流して動きを止めていた。伸ばされた腕を掴む者は既になく、伸ばした腕が掴むべき者ももういない。

 人形のように固まった少女へ、ゴブリンは殊更時間を立てて棍棒を振り上げた。



「フフフ、宣伝には中々いい調子じゃない……!」


 夕焼けにも負けぬ茜を晒す惨状の上空を舞う二翼二足の魔物──ワイバーンの背で無腕の少女、モスト・バビエンテは歓喜に背を曲げる。

 その背後でダイモン・パンドーは、淡々とした様子で少女の歓喜を眺めていた。


「村一つを焼く脅威。常駐の辺境軍では手に負えない魔王の尖兵……対抗し得るは偉大なる勇者達ッ!」


 仮に両腕があれば、モストは大仰に広げて歓喜を全身で表現していただろう。そう確信を持てる程に、少女は高揚していた。

 ダイモンは眼下の村へ視線を落とす。

 惨禍に見舞われた村。

 本来ならばアーポロ達と協力して魔物を退治していたのだろう。そう考えると同情する気持ちが湧かないでもなかった。

 が、元々ダイモンは義勇心など微塵も抱えていない。


「ん、おいモスト」

「どうしたの?」

「逃げてる奴がいるぞ」


 ダイモンが指差した先、村の外れには何人かの村人が散り散りになって逃走していた。村との境目では甲冑に身を包んだ軍人が殿を務め、魔物の追跡を妨げている。

 許可が降りるのであらば今すぐにでもワイバーンから降り立ち、腰抜けを鏖殺してみせるが。

 言外に告げる用心棒であったが、護衛対象からの回答は意外なものであった。


「別にいいわ。むしろ、好都合まである」

「どうしてだ。村人は辺境軍諸共に全滅した、っての方が脅威は煽れるだろ」

「逆よ逆。何人か生き残りがいた方が、発言の信憑性が高まるわ。考えてもみて、貴方は子供一人が魔物を見たって報告を信じるかしら?」

「……なるほどな」

「そういうことよ。だからこそ、敢えて村の北部には逃走する穴ができるように魔物を配置したつもりよ。

 何体かは、別口から攻め入ったかもしれないけれど」


 彼女の言葉に一定の理解を示すと、ダイモンは視線を眼下から天上に上りつつある月へと定めた。

 モストの護衛を任命されて三か月。

 地上を遥か離れた上空の風は、陽気な季節の終わりを告げるように冷たく吹き荒んだ。

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