【短編】マッスル・スラップ!

保紫 奏杜

マッスル・スラップ!

 目の前には巨大で凶悪そうなドラゴン。

 そんな訳の分からない状態に、僕は唖然としていた。視界いっぱいですら収まりきれないほどの大きな両翼が広げられ、ドラゴンの顎門アギトが開かれる。その奥に、赤い光が眩しいほどに閃いた。


 あ、死んだ。


 僕は他人事のように思った。

 でも痛みはいつまで経っても訪れない。

 

 ん? んん? まだ死んでない?


 強く瞑っていた目を開ければ、ドラゴンとの間に一人の男が背を向けて立っている。パンツ一丁だ。間違いなく、黒のボクサー型パンツしか穿いていない。プロレスラーとかのコスチュームではない。あくまで下着のパンツだ。……変態か。でも背中からでも鍛えられているのが分かる体つきには、既視感がある。


 半裸の男がくるりと振り向いた。黒のサングラスを掛けている男の見事な割れた腹筋が、これでもかと主張してくる。


「危ないところだったな!」

「あ、ありがとうございます」


 何がどうなったのかは分からないが、どうやら助けてくれたらしい。と、いうことは、彼は露出狂の変態ではなくヒーローなのか。それとも変態でヒーローなのか。妻が好きな深夜帯のアニメでこんなのがいたような気がするぞ? パンツ一丁で街中に現れ、悪人に平手打ちスラップをお見舞いする、そんなヒーロー。ヒーローなのか? そう記憶を掘り起こしていると、激しい地響きに飛び上がることになった。変態ヒーローの向こうで、ドラゴンが咆哮を上げている。


「むっ、まだ動けるようだな」

「え!」

「だが私は次へ急がねば」

「え、なんで!?」


 助けてくれるんじゃないのか。

 そう思うも、口にする前に変態のヒーローが、ヒーロー然とした爽やかな笑みを浮かべた。


「大丈夫だ、君には銀ちゃんがいるからな!」

「え?」


 銀ちゃんって、銀ちゃん??


 半裸のヒーローが指差す僕の胸元――ジャケットの内側に違和感を覚え手を当ててみれば、さっきまでは気付かなかった膨らみがあった。ジッパーを下げると、黒い頭が飛び出してくる。それを掴んで引っ張り出せば、それは紛れもなく妻のお気に入りのペンギンのぬいぐるみだった。ちなみに皇帝ペンギンだ。


 半裸の男が満足げに頷いている。


「うむ。ぐるみーずの中でも屈強の戦士だな!」

「いやいや、これでどうやって戦えと!?」

「ほら、銀ちゃん。いつものだ」


 話を聞く気がなさそうなヒーローが差し出したのは、紙パックのプロテインだった。それに手を、いや、両羽を出して受け取るペンギンのぬいぐるみ。


 果たして自分は正気なのだろうか。

 僕の手を離れたペンギンが、どこにプロテインを吸収させているのか(いや、そりゃ布と綿なんだろうが)豪快にプロテインを嘴に突っ込んで飲んでいる。それをさも大満足といったふうに見守っていたサングラスの変態ヒーローが、やけに愉しげに白い歯を覗かせた。芸能人並みの白さだ。


「ではな!」

「ちょ! マジで待って!」


 引き留めも虚しく、半裸のヒーローはさっさと走り去ってしまった。


 地面が大きく揺れ、ドラゴンが向かってくる。どう見てもめちゃくちゃ怒っている。でも逃げ出そうにも体が動かない。


 ぽん。

 

 その時、肩に手を置かれた感覚があった。いや、上から硬い物に触れられた。

 見上げれば、筋肉ムキムキになったペンギンのぬいぐるみが居る。


「……銀、ちゃん……?」


 ああ、もう訳が分からない。


 肩幅がおかしなことになっているペンギンが、のしのしとドラゴンに向かっていく。それでもまだドラゴンの方が、当然ながら大きい。両者が睨み合ったかのように見えた瞬間、太く広くなった黒い羽が大きく振られた。


 ベチン!


 瞬間、聞こえた音よりも派手にドラゴンが吹っ飛んだ。それはもう豪快に。


「や……、やったあああ!」


 僕はムキムキのペンギンに駆け寄った。もう柔らかさは皆無になってしまっているけれど、この筋肉が今は何より頼もしすぎる。


「銀ちゃん……! いや、銀さん! ありがとうー!」


 筋肉マッスルペンギン万歳――!



◇◇◇



 ――はッ


 僕は目の前に広がる光景に息を詰めた。

 薄暗がりの、いつもの天井。右横を見れば、まだ眠っている妻がいる。僕の腕の中には何故かペンギン。くたくたの、年季の入ったぬいぐるみだ。


 夢か。そうか。そうだよな。


 昨夜は妻が観ていた深夜アニメをチラ見し、妻よりも早く寝た。おそらくは後から妻にペンギンを忍ばせられたのだ。たまに出る、彼女の悪戯心で。プロテインは、そう、職場でたまたま貰ったのだった。まだ飲まずに置いてある。


「はーー……夢で良かった……」


 眠れた気がしない。

 でも妻に話せば、きっと面白がって喜ぶに違いない。それなら、可笑しな夢もたまになら良いかもしれないと思う。いや、あの変態ヒーローは、もう夢に出て来なくていい。


 僕は銀ちゃんヒーローを妻の布団に帰し、しっかりと二度寝を決め込んだ。



 

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