昨日失くした涙


 その日は珍しく強い雨が降った。皆が傘を差していた。何時間経っても、石畳に水気が残っていた。


「おまわりさん。昨日、涙を落としてしまったのです。ここには届いていませんか」

 早朝、ずぶ濡れになった少女が交番に来た。彼女は顔を覆って問うてきた。震える声はあまりにも苦しげで、プルリは思わず眉を顰める。

 落とし物を取りに来る人は毎日のように来るが、斯様なまでに悲嘆する人は初めて見た。


 それにしても、「涙を落とす」とは聞き慣れない言葉だ。

 プルリは応接間へと案内した。少女は珍しそうに灰と黄の内装を眺めた。


 パイプフレームのソファに少女を座らせ、早速涙がどんなものか尋ねてみる。曰く、小包に入った薬という。どこで手に入れたか尋ねると、近くの薬局の名前が出てきた。少女はまだ一桁と幼いし、懐にある嘘発見器にも反応がない。


 それでもプルリは慎重だった。


 彼女は宿直室にいた同僚に扉を見張らせた。お代は退勤後のコーヒーという言葉を忘れずに。昨日届けられた遺失物の中に白い小包があったことは覚えていた。ケースを開け、手袋を付けて白い小包を取り出す。中身を開けると、透明な円錐型の小瓶が入っている。


 一見合法的な薬であるが、少女の言葉が引っかかる。すぐに返す気にはなれなかった。

 今度はタイプライターの前に座り、番号を打った。監督機関など極一部の組織だけ使える高価なそれは、一瞬で遠方とのやり取りができる便利な代物である。


 宛先は二課のアシュリー。事件を扱う二課ならばなにか知っているかもしれなかった。

 そして間もなく、「涙」についての情報が上がってきた。


 「涙」とは悪名高き西部属州で製造される薬物である。つい最近存在が確認され、二課でも知らない人間がいるほどという。

 薬としては一応抗うつ剤としての効果は実証されているが、ある問題を抱えている。


 「涙」はそれ単体ではただの水に等しい。使用者以外の唾液を入れることで完成するものである。それを患者が服用すれば多幸感をもたらし欝を治す。しかし、その実態はあらゆる陰鬱を唾液の主に押し付けるものである。


『引き続き子どもの保護と聴取などを求める』

 最後はその一文で締められた。念の為住所なども送ったため、すぐに二課による調査が入るだろう。

 プルリは深い溜め息をついて応接間へと戻っていった。


 少女はまだ泣きじゃくっていた。母が薬を求めていると。早く届けないと死んでしまうと。また自分の腕を切ってしまうと。


「涙はとても儚いのです。昨日失くしたばかりに、効果がなくなっているかもしれないのです」

 プルリは同僚とともに少女を必死で慰めた。一向に泣き止む気配がない。


 同僚は四課から派遣された職員を迎えていた。二課から連絡を受け、薬物の検査をしに来たのだ。


 彼に薬を渡そうとしたときだった。おそるべき勢いで迫ってきた少女が、同僚から薬を奪い取った。少女はそのまま逃げようとしたが、四課の者に蹴られ足蹴にされた。


「この薬を母に、母に渡さないといけないのです」

 彼女は震える手で瓶を開け、舌を出す。プルリと同僚は止めようとしたが、四課が腕で制止した。


「なぜですか、あれは……」

 彼はプルリを無視して問う。


「昨日使うはずが失くしたんだろ、薬の効果を確かめなくていいのか」

 彼に煽られて錯乱したのか、少女は小瓶に口に付けた。間もなく細い肉体が痙攣を始めた。口の端から泡をふき、爪が少しずつ剥がれていく。


「母さん、母さん」

 少女は息も絶え絶えに繰り返す。声は老婆のように嗄れていた。四課は少女に歩み寄り、少女の溶け出した皮膚を念入りに観察した。


 プルリは眼の前の惨状を止めたかったし、四課の男を殴りたかった。彼は手帳に崩壊の進行を綴っていた。


「四課はああいうのも仕事だよ。それに薬物所持の時点で処刑は免れられない」

 熱くなるプルリに、同僚は淡々と説く。少女の皮膚はほとんど溶け、顔も原型を失っていた。人間をスライムにして溶かしたような姿である。もちろん悪臭も酷かったため、プルリは急いで手洗いへ向かった。


「君が一課に来たのがよく分かるね」

 背後から聞こえた同僚の言葉に、プルリはひどい目眩がした。


 後日、少女の家が家宅捜索を受けた。少女の母は重度の鬱病患者で、腕にいくつもの自傷の跡が残っていた。彼女は高齢の母の介護をしていたのだが、認知症が酷く、夫とともに酷く疲弊している状態であった。


 更に悪いことに、夫の方は西部属州と繋がりが明らかにされた。妻のために最新の抗うつ剤を手に入れ、文字通り、彼女と苦痛を分かち合おうとしていた。


 また強い雨が降った日のこと、プルリは一家が皆殺し──処刑されたことを知った。

 執行者は六課の者だった。




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