アンコール企画参加作品

水狗丸

ささやかな余白


 あるアパートの一室、錆びた風呂場は腐敗した土の臭いに満ちている。


 排気口から赤いリボンが垂れ下がっている。裏に雑に解けた塊が、網目に妖しく絡んでいた。一見ラッピングに使われるような変哲もないリボンであるが、一つだけ特徴がある。

 端っこにささやかな余白があったのだ。まるでそこまで色が行き届かなかったような。

 

 それは如何にももどかしい余白であった。絵画でいう空間的な余白とはまるで違う。中途半端で、美しくなくて、手にとって赤いインクを吸わせたくなる気にさせてくる。そんな醜い余白であった。


 アシュリーは一人で浴室に踏み入った。目隠しのため見えていないが、浴槽に枯れ果てた人皮が積もっている。

 その中には先に捜索していた同僚も含まれていた。斯様な犠牲は珍しくないし、彼らは命と引き換えに情報をくれた。


「これは一定の慎重さと警戒心を持たぬ者を誘惑し、自傷に導き、吸血することで殺害する」

 彼は冷静に分析した。


「これは強き心を持つ者か、盲人が対応すればよい」

 懐からライターに似たフックを取り出し、リボンに下げる。下に付いたピンを抜くと、ねずみ花火のようにリボンを燃やした。実のところ、これは別部署で制作された玩具である。自分には無害な紐が相手と聞いて貰ってきた。


 ところで部屋に住んでいたのは、とある高級娼婦であったという。彼女は乱暴な客に顔を何度も殴られて仕事を失い、欝の末に浴槽で首を吊って自殺した。


 ただ自分の美しさへの誇りは消えなかった。リボンはその現れである。無念や執着がここに住み着き、やってきた人間を貪っていた。彼女はなまじ人に好かれていたのだろう。鍵の空いた部屋に勝手に入る者が何人もいて、リボンに惹かれて死んでいった。


 アシュリーは灰が消えるまでリボンの最期を見届ける。やがて消滅を確認した。目を失ってから怪異の存在を鮮明に感じるようになっていた。お陰でわざわざ天井を調べる必要がない。この部屋は事故物件としてもの好きに高く売れることだろう。


「それにしても、わざわざアシュリーさんが出向くことだったんですか?」

 寮で報告書を書いていると、同室のルカが愚痴をこぼす。彼はベッドに寝そべり、本を広げた。ルカは実力のあるアシュリーが、雑用を買って出たことを咎めていた。

 

「たまたま手が空いていたからな」

「貴方のことだから、どうせ安価で受けたんでしょうに」

 彼は口を尖らせた。

 暇だったことも、安く請け負ったことも事実である。もし安くしなかったら、もし予定が空いていなかったら、貧しい誰かの目が潰されていた。


 無駄と分かっていたが、アシュリーはそのことを黙っておいた。

 虚しい正義感だけが、彼の誇りだった。

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