私の桃が、いちばん。
神逢坂鞠帆(かみをさか・まりほ)
第1話
居間で出された桃を食べていると、おうお先生が僕を呼ぶ。促されて、台所のテレビを見つめる。
「ん?」眉間にしわを寄せる。「この人、どこかで…」
バレエを踊る男性の姿。ターンし、背後が見える。僕は、この人を知っている。
「あの、モデルの」
「ご名答」
おうお先生は、笑った。
「君たち、これは集団セクハラというものだよ」
講義が終わるなり、青年が走り去って行く。髪はボサボサで、胸元ははだけ、ベルトも閉めず、裸足のまま駆けて行く。尋常ではない。しかし、私は彼がヌードデッサンのモデルだということを知っていた。たとえ、学外の人からは、追い剥ぎにあったようにしか見えずとも、バレエのレッスンに間に合わないのかもと私は呑気に構える。さすがに、どこかで身だしなみは整えるだろうし。そうして、「ヌードデッサン中につき、ドア開放厳禁」の貼り紙がしてある教室の前に立つ。ドアにかけた手を止め、学生の言葉に首を傾げる。
「ほうら、私の桃がいちばんよ」
「いや、俺の桃が」
さきほどから、桃、桃とかしましい。しかし、彼らはヌードデッサンをしていたのではなかったか。もう一度、眼前の紙を凝視する。意を決して、入室する。教室を見回すと、やはり中央にはモデルが立っていたであろ台がある。それを囲むイーゼル。喧々諤々の論争をしている学生の中に、可愛らしい男の子を見つける。
「あ、おうお先生。こんにちは」
「こんにちは」
こちらも笑顔で返す。隣に回り込み、手元のスケッチブックを眺める。まさか。学生連中からも、画板をひったくる。見渡す限り、尻、尻、尻。
「尻だ…」
得心した。これでは、
「君たち、これは集団セクハラというものだよ」
事の起こりは、およそ二時間前。本日は、プロのモデルがやって来るヌードデッサンの日である。貴重な機会を最大限活用しようと、学生の一人は、男子小学生に相談したのだ。曰く、「モデルにしてほしい目新しいポーズはないか」と。少年は、先日、美術関連のテレビで見た像のことを思い出す。
「ルーブル美術館にある、お尻を食べられている人。あれが描きたい」
尻。なんと魅惑的な提案だろう。ほとんど大差ないポーズばかり、さらうように練習してきた学生たちは雷に打たれたようだったと言う。
「だって、尻ですよ。先生」
某科の医師でもないのに、こんな言葉をかけられる日が来ようとは夢にも思わなかった。そして、なんだか無性に笑えてきたのだった。
「あれがきっかけで、彼はモデルを辞めてしまった」
「でもね、そのおかげでバレエ留学に行く決心がついたのだって」
蜜くんの顔が上がる。
「お尻さまさまですね」
「違いない」
それから、二人で残りの桃を食べた。かの獣も、男の尻は大層甘かったのだろうか。そんな考えが浮かんで、なんだかくすぐったかった。
私の桃が、いちばん。 神逢坂鞠帆(かみをさか・まりほ) @kamiwosakamariho
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