嘘つき夫婦の子育て

野生いくみ

第1話

 早く仕事に戻りたい。〆切も近いのに。

 太田正義おおたまさよしは胸の中でため息をついた。放課後の小学校の校庭から、はしゃぐ子どもの声がこの校長室まで聞こえる。置かれた来賓用の立派なテーブルを挟み、一人の女性が正義と妻の福子をにらんでいる。

 先週の木曜日、長男のただしが友達に怪我をさせた。幸い相手は軽症で済んだが、母親が怒って学校にクレームを入れた。両親そろって謝罪してほしいという。突き飛ばされ尻もちをつき、手のひらと腕やひじに擦り傷が残ったくらいのことに、それほどの深刻さはあるだろうか。

 相手の子は小学三年生。鷺沼悠人さぎぬまゆうと。その母の琴美がべっ甲のメガネの奥からじっとりとこちらをねめつけている。

「お宅はどういう教育をなさってるんですか」

 仲裁役として同席している教頭と担任をさえぎって鷺沼琴美は本題から斬り込んだ。挑発に乗らないよう、正義は頭を下げた。面倒事は訴訟にでもならない限り謝っておくに限る。

「この度は大事な息子さんに怪我をさせてしまい……」

「怪我だけですか? 嘘をついたことはどうお考えです?」

 話が見えず隣の福子を見ると、こちらは琴美をにらんでいる。

「人の子どもを嘘つき呼ばわりする方がおかしいです」

 二人にはこれまでに何かやりとりがあったらしい。福子は強い調子で言い返した。しかし、感情の高ぶりで先が言葉にならない。それを見て取ると、琴美は鼻で笑った。

「正しいことを言われて相手を突き飛ばすなんて、どういう教育方針です?」

「嘘の何が悪いんですか⁉」

 奥歯を噛みしめ、しぼり出すように福子が聞き返す。テーブルの上で握った拳はかすかに震えていた。

「あら、まあ、ビックリ! 開き直りですか? 嘘つきは泥棒の始まりって幼稚園で習いませんでした?」

「良い嘘だってあります!」

 福子は涙まじりに反論して琴美をにらみ据えた。感情的になると筋道立てて話せない福子は悔しそうにくちびるを結んだ。珍しくない仕草が今日はいじらしかった。

「良い嘘! どんな嘘なら役に立つんです?」

「それは……お話を作る人……? 漫画家とか、映画監督とか、俳優さんとか……」

「社会貢献できるなら、それは嘘と言いません。忠くんとは違います」

 何のことかわからないまま『嘘』という言葉の応酬が続く。二人の表層的なやりとりに首を突っ込みたくない、できれば早く家に帰って仕事の続きがしたい、明後日が〆切だと気もそぞろだった。しかしこの水かけ論を止めない限り終わりは来ない。

 さっき入れ違いに下校する忠に会った。友達と一緒だったが、正義と福子を見るなり駆け寄ってきた。ひどく心配そうだった。ケンカの件だと察したのだろう。普段頼りない自分が我が子を守るのはこういう時だと口を開いた。

「申し訳ありませんが、うちの忠がついたという嘘を教えてください。鷺沼さんが何を嘘と捉えられたのか知りたいと思いまして」

 一瞬虚を突かれた琴美が、中身を思い出し、また怒りをにじませる。

「死んだインコがあの世から帰ってきてリビングのテレビに留まっていると忠くんが」

 隣でうつむいていた福子は顔を上げ、責任を問うように横目を走らせた。正義は壁にかけられた初代校長のモノクロ写真をしばしうつろに見つめた。

 だから私がここに呼ばれたのか……。

 いろいろなことに合点がいった。

「忠くんは元々嘘つきだそうですね。話を聞いたら、この前もサンタクロースはいると主張して先生を困らせたとか。……ね、先生?」

「え? はい、そう……ですね」

 どうやら事実らしく、担任は火に油を注がない返答を選んだ。正義は遠い目のまま、隣の二代目校長のチョビひげを見つめた。

「サンタは百歩譲ります。経済は回り、子どもも好きなものがもらえて一石二鳥。トナカイもソリも空を飛ばないし、煙突もないんだから、嘘だってすぐわかります」

 琴美が求めているのは、嘘をついたことへの謝罪だといまさら気づいた。執拗に迫る動機は何なのか、職業病でつい考えてしまうがそれ自体現実逃避だと気づいて、また琴美へ顔を向けた。

「でも『見えないの?』って言われたら、反論できますか? 『うちのインコは帰ってくるよ?』って」

 琴美のまなざしがわずかに潤んだ。

「失礼ですが、悠人くんもペットを亡くした経験が?」

「三カ月前に。でも、悠人はもちろん、私にもミーコの姿は見えません。宗教によってはこの世に帰ってくると言いますが、姿が見えますか? それなのに忠くんのお父さんもお母さんも見えるっていうじゃないですか! だから悠人は『嘘つき』って言ったんです。それで怒った忠くんに突き飛ばされて」

 四代目からはカラーになる校長たちを八代目まで見やって我が子を想った。忠は嘘つきな自分たち夫婦の子どもとして立派に育っているらしい。大好きなインコたちと両親を馬鹿にされて怒ったのだろう。

 嘘を授けた者の責任として腹をくくり、正義は風呂敷を広げた。

「鷺沼さんの所は違うんですか? うちのセキセイインコは戻ってきますよ。飼い始めてもう七羽あの世へ旅立ちましたが、どの子も全員帰ってきます。いちばん甘えん坊なのは頭が白で体が水色のピーなんですが、時々テレビの上にちょこんと乗ってます。前からそこがお気に入りでした。たまに友達を連れてきて、私たちに紹介してくれますよ」

 ぽかんとしていた琴美がみるみる目を吊り上げる。

「死んだ鳥が帰ってくる? 友達連れて?」

「ええ、あの世のことをたくさん話してくれます。前からおしゃべりで」

「それはインコだからでしょ。オハヨーとかコンニチハとか」

「いえいえ、もっとしゃべります。あの世ではみんなご飯を分け合うけれど、カラスさんが虫を分けてくれたのは参ったとか。あ、カラスは思ったよりいい人だったと言ってました」

「カラスは人じゃありません!」

 つられた琴美は論点のズレた叫びをあげた。相手するのに疲れたのか肩で息をしている。さも見てきたかのように話す正義に、堪忍袋の緒が切れて、琴美はばんっとテーブルを叩いた。

「あの子、何度も聞いてきたんですよ! ミーコはどうして帰ってこないのかって。ずっと不思議だったんです。全部、忠くんのせいだったんですね。死んだものが帰ってくるはずないでしょう? どうしてそんな可哀想な嘘を子どもに言えるんですか。私には絶対無理!」

 話す内に琴美の目は潤んでいった。それまでの苛立ちははがゆさへと色を変え、彼女自身も子ども以上に悲しんでいるのが伝わってきた。

 名前からして猫だろう。正義は言葉を詰まらせた。彼女がなぜ怒っているのかようやく理解できた。死んだ飼い猫を恋しがる我が子に何もしてあげられない。そこに友達が『うちはあの世から帰ってくる』と無邪気に語り続けたらどれほど罪深かっただろう。悠人は喪失感でいっぱいになり、母はとても悲しかったに違いない。

 正義は初めて真剣に自分の嘘を省みた。愛鳥の一羽一羽が愛しくて、いつしかできあがった家族内のおとぎ話。それが誰かを悲しませるとは思ってもみなかった。正義にとって、嘘は誰かを楽しませるものだったからだ。

 いちばん右の十一代目校長は写真の中で優しい目をしていた。好々爺こうこうやのように太田家の嘘を笑ってくれるかもしれないと口を開いた。

「鷺沼さんのおっしゃるとおり『嘘』です。我が家のインコたちも姿は見えません。きっと防犯カメラをつけても映ることはないでしょう。でも、そこにいます」

「宗教ですか?」

 疑わしそうな琴美に「いいえ」と首を振る。

「ナナは寂しがり屋で食事時にカゴに入れられるのが不服らしく、いつもジャジャジャ! と怒っていました。フウは肩に乗せると顔をすり寄せ、撫でてくれとせがみました。知ってます? 三十グラムしかない鳥にも喜怒哀楽があって、悪さをすると天井を見てごまかすんです。みんな甘えん坊で表情豊かで人間が大好きでした。だから考えるんです。天国はどんなところか、先に逝った子たちと出会えたか。陽気なピーはきっと友達ができたら自慢にくる。だからオヤツのチンゲン菜は時々用意しておこう。カラスを連れてきたらどうするか。大歓迎だけど、声がうるさいからカーカー鳴かないようにお願いしなきゃ。……なんて、家族みんなで話しています」

 隣で福子がわずかに微笑み、人差し指で何かを撫でる仕草をした。正義にはピーの姿が見えた。

「確かに嘘は良くないかもしれません。でも、私たち家族は死んでも生き続けるインコたちを想像すると楽しいんです。そのための嘘なら閻魔大王の前に引きずり出されても文句はありません」

 琴美は黙って聞いていた。ぽつりと言う。

「……上手に嘘がつけません」

「鷺沼さんが知ってるミーコさんのことでいいんです」

 視線を揺らした琴美はひとつため息をついた。

「……ミーコは冬になると膝に乗ってきました。重くて困るんだけど温かくて、子猫のときからずっとそう。悠人と奪い合ってました」

 思い出を口にして、琴美は鼻をすすった。

「悲しい話はしたくなかったけど、その方がよほど悲しくて寂しいかもしれませんね」

 しばらく黙っていた琴美は頭を下げた。

「嘘つき呼ばわりしてすみませんでした。悠人とミーコの話をしてみます。それにしても、太田さんは嘘が上手……いえ、想像力豊かですね」

 この場が丸く収まったのが嬉しくて正義は頭をかきながら口を滑らせた。

「職業なので」

 隣で福子が息をのんだ。気づいた正義も思わず口を押えた。

「職業?」

 いぶかしむ琴美。「お父さん、自分で言ってどうするのよ」とため息つく福子。教頭も担任も興味津々のまなざしを向けている。正義の職業は絶対に口外するなと家族にきつく命じていた。ただの会社員と嘘をついてもよかったが、自分を偽るだけの嘘はこの場にそぐわない気がした。

「私は、しがない小説家です。夢と『嘘』を売るのが商売です」

 福子以外の誰もが豆鉄砲を食らった鳩のようだった。正義は誠意を込めて頭を下げた。

「少しは社会貢献していますのでお許しください」


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