第94話 アイドルだった私、心の内側を知る

 寝着にガウンを羽織った状態で、床の上、膝を抱えているのはアッシュ・ディナ。


 ディナ子爵家三男。職業、音楽家。

 目の前で好きな女が、第二皇太子と息も絶え絶えに汗まみれだ。それをただ見せつけられているだけ。


「はぁっ、はぁっ、ちょっとはっ、休ませてもらえないっ、だ、だろうかっ」

「あ~らっ、こっ、この程度でっ、私が満足するとでもっ?」

 誰がどう見てもリーシャが優勢だ。

 舞台であれだけ動いた後だというのに、まったくもって疲れを見せない。


「しかしっ、こっ、このままではっ、身が持たないっ」

「だから初めに言いましたよね、私っ。やめたほうがいいですよ、ってっ」

 肩で息をしながら、お互い一歩も譲らない。


「……あのぅ」

 床で膝を抱えているアッシュが、手を挙げる。

「もういい加減にしたらどうです? 今何時だと思っているんですか?」

 冷めた視線を二人に向ける。


「アッシュ! あなたどう思うわけっ? こんなっ、こんなていでっ」

「ちょ、そっ、そんな言い方っ、どうなんだっ?」

 相手がこの国の第二皇子であることを、私はすっかり忘れていた。そんな私を見てアッシュは溜息を吐く。


「確かに酷いです。私ですら出来そうな簡単なステップですよ、それ?」

「なっ、なんだとっ? そこまで言うならやってみろっ」

 バーナムに言われ、アッシュは肩を竦め立ち上がると、ガウンを脱ぎ寝着のままその場でステップを踏んでみせた。

 って、なに、アッシュったらすごい! 一瞬でやってのけたじゃないの! バーナムったらめちゃくちゃ悔しい顔でアッシュを睨みつけた。


「こんなこと言うのは失礼かと思いますが、バーナム様はリズム感がなさすぎです。いや、リズム感はあるのかもしれませんが、それを体で表現する能力が、皆無ですね」

 ああ、アッシュも口が悪くなってる。相手は第二皇子なんだけどねぇ?


「なっ、俺にそんな口を利くとはいい度胸だな!」

 権力を持ち出すバーナムに、しかしアッシュもひるまない。

「こんな夜中に拉致同然で呼びつけておいて、結果、見せられたのが一向にうまくならない踊りですよ? なんでしたっけ、第一皇女様の婚約パーティーでルナウ様のように踊って歌って皆をアッと言わせたい、でしたっけ? はっ。舐めてますよね? 我々が……ルナウ様がどれだけの時間と努力であそこまで成長したとお思いなんですか? 一晩頑張った程度で形になるとでも? ちゃんちゃらおかしい話ですね」


 半眼で、淡々とした口調で言い放つ。言われたバーナムは、口をパクパクさせながら、しかし反論も出来ずにいた。


「リーシャ様もリーシャ様です!」

 あ、矛先変わった。


「こんな夜中に第二皇子様の部屋にのこのこ入って、何をしてるんですか? 話を聞いて、協力することにしたのならそれはいいとして、なんだってこんな夜中にいきなり体動かしてるんですかっ? きちんと日取りを決めて、必要な練習スケジュールを立ててきっちり指導なさればいいのでは? ええ?」

 あああ、アッシュってば怒ってるぅ。


「……確かにアッシュの言う通りだ。ルナウの、あの舞台での圧倒的な歌とダンスに魅了され、俺は少しばかり興奮しすぎたんだ。リーシャに稽古をつけてもらえば俺も踊れるんじゃないか、って、そう思って……」


 まぁ、わからないではないのよね。ほら、よくミュージカル見た後なんかにさ、私も踊れるんじゃないか、って思っちゃう、あれよね! 実際やったら足上がらないしくるくる回ったりもできないの!

 でも、確かに無謀だったわね……。一晩でどうにかなるものじゃないわ、これ。よっぽど時間かけないと。


「わかっていただけて何よりです。では、これで失礼します。さ、リーシャ様、帰りますよ」

 スッとリーシャの手を握るアッシュに、バーナムが声を掛ける。


「そういえばアッシュ、お前はリーシャが好きなのか?」

「……は?」

 ギギギ、と首だけをバーナムに向け、首を傾げるアッシュ。

「あの曲。最後のあれ。ずっとリーシャを見てたよな。まるでリーシャにだけ聞かせようとしてるかのような……。あの曲を作ったのもお前なんだろ?」

「……曲は、ルナウ様と相談しながらですけど」


「それで、リーシャはアッシュのこと好きなのか?」

「へっ?」

「なっ!」

 私とアッシュ、同時に声が出た。

「わ、私?」

「そうだよ。アッシュがリーシャを好きなのはよぉくわかった。でも、リーシャはどうなんだ?」


 そんなことをっ、今聞くわけっ?

 チラ、とアッシュを見ると、顔を真っ赤にしながらも真剣な眼差しで私を見つめ返事を待っている。どうしよう……。


「それは、その……」

 言い淀む、と。

「あーあーあー、そうか、んだな。うん、わかった。それなら、アッシュに話を取り次いでも問題ないな」

 バーナムが声を張り大きく頷いた。

「話を……取り次ぐ?」

 アッシュが聞き返すと、バーナムは腰に手を当て、


「あの舞台を見て、王都在住の公爵家令嬢二名、伯爵家令嬢三名からアッシュを紹介してほしいという依頼があってな。勿論という、婚約の申し込みに限りなく近い話だ。アッシュは確か子爵家三男だろ? いやぁ、公爵家に入れるなら玉の輿だなぁ。しかも第二皇子である俺が仲を取り持つわけだから、こりゃ断れないよな、アッシュ?」


「はぁっ?」

「そんなのダメよっ!」

 またしても、被る。


「ん? ダメ? なにがダメなんだ? リーシャに口出しする権利はないだろう?」

 ぐっ……、

 私、二の句が続かない。


「アッシュの幸せを願うなら、こんないい縁談話を邪魔することはできないはずだぜ? 音楽家は続ければいいさ。でもこっちで活動することになりそうだな。アッシュはこのまま王都に残って、公爵家の令嬢と、」

「だからそれは、ダメなのっ」

 私、バーナムの話を拒否してる。


 おかしい。だってアッシュにとってはこの上なくいい話……よね? 王都の公爵家令嬢との縁談なんて、望んでできることじゃないもの。しかも何人もの女性がアッシュを気に入った、ってことでしょ? それってすごいことだよ、うん。


 でも、マーメイドテイルにアッシュは絶対必要で、だから、アッシュがいなくなるなんてことは絶対有り得なくて、というかアッシュがいなくなったらみんな困るのよ。


「音楽家が必要ならいくらでも探せばいい。王都公演のときだけアッシュに参加してもらうってことも可能だ。別に誰も困らないさ」

「困るのよっ!」

 私、混乱してくる。

 アッシュがいなくなったら、みんなが困るんだから。だからダメなの!


 、困る……、


「……リーシャ、様?」

 アッシュが驚いた顔してる。

 あれ?

 バーナムもなんだか難しい顔して私を見てる? 

 あれ? あれ? なんで二人の顔がぼやけるんだろう?


 あれ? 私なんでこんなに胸が痛いんだろう?

 アッシュがいなくなる?

 公爵令嬢と、結婚?


 それが嫌なの?

 どうして? いい話なのに。いい話のはずなのに。


 マーメイドテイルの曲が心配? それもある。それもあるけど、違う。

 苦しい。息が苦しいの。

 おかしいな。

 頬を伝うこれは、なに?


「アッシュにはあとで俺から紹介を、」

「いやだ! いやだいやだいやだぁ!」

 私は叫んでいた。子供みたいに。なにこれ、みっともない。


「……ルナウの言ってた通りだな。鈍すぎだぞ、リーシャ。ちょっと突いてやろうと思っただけなのに、そんな顔されちゃ敵わんな」

 バーナムが呆れたように言い放つ。

「な、によっ?」

 言葉が上手く出てこない。喉の奥がつかえる。

 呼吸が上手く出来ない。

 どうして?


 アッシュがいなくなる?

 どこかの知らない令嬢と……いやだ!!


「今のお前の顔、お前に見せてやりたいよ」

「……は? わ、たし、の、顔が……な、なによ」

 もう、呆れ顔のバーナムの顔もほとんど見えない。睨み付けてるつもりなんだけど、バーナムは困った顔して笑ってる……ように見える。

 あとからあとから溢れてくるものが、ぽたぽたと流れては、落ちる。


「リーシャ様!」

 アッシュが私を抱きしめる。苦しいほどに、私を。

 私はグルグルする頭で一生懸命考える。バーナムに対する怒りとか、自分に対する怒りとか、言葉にならない苦しさの意味とか。

 だけど、アッシュに抱きしめられてるうちにそんなぐちゃぐちゃしたものがスーッとどこかに流れていく。

 ああ、アッシュの匂いだ。抱き締められてるだけなのに、頭がおかしくなりそうなほどに愛しさが込み上げる。

 でもごめん、私さっきまでめちゃくちゃ踊ってたから汗臭いんじゃないかなぁ?


 そんなことを考えているうち、目の前が真っ暗になったんだ。

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