第8話 クッキー狂騒曲(1)

 その日、エリシャの胸は朝から高鳴りっぱなしだった。

 何故なら彼女の鞄の中にはテオドールに渡すクッキーが入っているから。


(オルダーソン家に伝わる秘伝のレシピで作ったし、味は料理長とメイドアミのお墨付き。きっと喜んでくれるはず!)


 緊張に心臓が暴れまくっていて、具合が悪くなりそう。それでもよろめく足で必死で地面を踏みしめる。

 たかがクッキーをあげるだけ……なのだが。


(『昨日のジュースのお礼にクッキーを焼いて来ました。どうぞお召し上がりください』……ではちょっと堅苦しいかしら? 『クッキーたくさん焼きすぎてしまったので、食べてください』……では余り物を押し付けているようだし。『あ、こんなところにクッキーが! テオドール様、召し上がりになりますか?』……って不自然すぎる!!)


 自然な台詞回しを何度もシミュレーションするが、考えれば考えるほどドツボに嵌っていく。


(落ち着いてエリシャ。貴女は誉れ高きオルダーソン家の娘、これくらいの困難を乗り越えられなくてどうするの)


 怖気づく自分を鼓舞するエリシャ。あくまでクッキーを渡すだけなのに、合唱隊でソロを歌う時の気合の入れ方だ。

 テオドールが在籍しているのは、エリシャの隣のクラス。始業前に一人の時を見計らって素早く手渡してしまおう!

 そう思って彼の教室を覗き込んでみると、


「おはようございます、テオドール様!」

「おはよう。今日の髪型似合うね」

「おはよう、テオドール! 王国史の課題やってきてるか?」

「ああ、ノート見せてやるよ」

「テオ! 委員会の活動報告書を……」

「それなら昨日提出してるぞ」


 ……男女問わず、大勢のクラスメイトに囲まれていた。

 今更にして実感するが、エリシャの想い人はとんでもない人たらしだったのだ。


(どうしよう、あの人垣に割って入る勇気はないわ。でも、せっかく作ったのだし……)


 逡巡している彼女に、背後から年配の教師が声をかける。


「オルダーソンさん、ここで何をしているのですか? もう授業が始まりますよ」


「え!?」


 気づけば予鈴がとっくに鳴り終わった時間だった。


「あら、わたくしったら教室を間違えてしまって……」


 苦しい言い訳をしつつ淑女のお辞儀をすると、エリシャは踵を返して自分の教室に逃げ込んだ。


(大丈夫、今日は始まったばかり。チャンスはいくらでもあるわ)


 この時はまだ楽観視していたのだが――。

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