第7話 俺の心境の謎
♣ ♣ ♣
自分のことが嫌いだ。どうしようもなく面倒くさくて、どうしようもなく弱い。
心が凍り付いているのだと思っていた。誰にも触れられず、遠ざけてしまうような。
誰彼構わず拒絶して、理解しようとしなかった。
ふと気づいたときには、自分の周りには敵しかいなかった。
助けてとは言わなかったけど、助かりたいという自分勝手な願いに押し潰されそうだった。
ある日、願いが届いてしまった。でも、理解できなかった。
どうしてあなたは私に構うの?どうして私を受け入れてくれるの?
目には涙が浮かび、声に嗚咽が混じる。
そして、心の氷にはひびが入った。
その日、私は――。
× × ×
見える魚は釣れない……なんて言葉がある。魚を見るとき、魚もまたこちらを見ているのだ的な事だとは思うが、実際に経験してみない事には理解できないだろう。
はーい、先生。なんですか火鉢君?先生は経験したんですかー?
「はーい……今してるよ~……」
「サトル……何言ってるデス?」
俺の握る釣り竿はピクリとも動かない。たらんと糸が垂れ下がっているだけの景色も見飽きて来た。
近くの川に釣りに来てからかれこれ1時間。変な脳内会話を繰り広げるほどに俺の竿には当たりが無く、隣に置いた空のバケツには綺麗な水と少しの砂利だけが入っている。
「またぼーっとしてるデスね。釣りは辛抱!待ってればワタシ達の所にもお魚さんは来るはずデス!」
同じく水だけ入ったバケツを隣に置いたシャロは、叫ぶと言った方が正しいような音量で語り掛けてくる。
この音量のせいでもしかして魚が逃げていくのでは……?
声で空気が揺れて獲物が動いたって勘違いしないかな(思考停止)
「おやおや~?お二人は一匹も連れてないようだねぇ~?」
「うわっ……天音が煽りに来た」
「塩撒くデス塩!」
「あははっ、そんなの効きませーん」
「よし……シャロ、あれをおみまいしな」
「了解デス!さっき集めた釣りのエサを食らうデ――」
「ごめんごめん謝るから!ミミズこっちに向けないでええ!」
なんて冗談だが、おかげで変なのは撃退できたようだ。
「そろそろ時間だから、荷物の所に集まってね」
「「は~い」」
結局一匹も釣れず、午前の部の俺たちは釣果0に終わってしまった。
「二人とも、早く来ないと食べちゃうわよ~!」
「お魚焼けたよ……冷めないうちに食べよ?」
釣り具を持って集合場所まで向かうと、なんとも食欲をそそる匂いが漂ってくる。
木造りの屋根の下にかまどや調理台が並ぶこの場所は、旅館で管理しているキャンプ場的なもののひとつであり、釣った魚なんかの新鮮な食材をその場で調理できるというありがたいスペースだ。
今日のお昼はここでバーベキュー+釣りたての魚となっており、既に皮がパリパリに仕上がった焼き魚がそこにはあった。
俺とシャロは少し離れたところで釣っていたからわからなかったが、隆二や衣織がかなりの数を釣ったらしい。
「ほら、このお肉も食べごろだよ。虚木さん」
「ありがとうございます!会長もお腹いっぱい食べてくださいね!」
「ふふ、ありがとう」
「椅子ってどこあったかなー?」
「それならこちらに」
「お、ありがとう会長さん」
「どういたしまして」
旅館のスタッフとして同行している神無月会長もそれなりの数を釣ったようだ。絶対遊びに来てますよこの人。なんかみんなと楽しそうに話してるし……流石のコミュ力です。生徒会長。
「悟くん……私、いっぱい釣れたんだよ……!」
「本当にいっぱい釣ってるな……しかもでっか……」
丸々太った川魚が詰まったバケツに愕然としながらも、俺の鼻は肉の焼けるコンロを捉えて離さない。
「肉!野菜!A BEAUTIFUL STAR!」
「落ち着いてシャロ……お肉は逃げないよ……!へへ……ぐへへ……!」
釣り具を置いて手を洗った俺たちは、まるでゾンビのような足取りでコンロへと迫っていく。
「よう二人とも。もうここら辺は焼けてるから、じゃんじゃん食え!」
このお肉を
「あんたたち、結局魚釣れなかったの?」
皿の上のお肉にレモンを絞りながら、日和が俺たちに問う。
「はい。釣れませんでした」
「一匹もデス……」
「はぁ……まぁあれだけ大声出してればそうなるわよ。あむ……」
そっちに聞こえる程だったか……昨日の謎解きの話をしたら盛り上がっちゃったからなぁ……
「働かざる者食うべからずとは言わせないぞ……日和よ。なんせこの旅行自体が俺の功績なのだから……あ、レモン俺も頂戴」
「ワタシもくだサイ」
「そこまで意地悪を言うつもりはないわよ。あとレモンはあっちにいっぱいあるから自分たちで取ってきなさい」
「「は~い」」
「全く、昨日の頼りがいはどこに行ったのよ」
昨夜、釣りに行きたいと言い出したのは俺だが、俺は釣りをほとんどしたことが無い。思い出せるのは随分昔に海釣りに隆二と行ったことくらいだ。
その時はまぁまぁ釣れたのだが、やはり海と川では勝手が違う分難しいな。
「えっと、確か飲み物はこっちの方に……」
そろそろ喉が渇いてきたので、クーラーボックスの置いてある場所へと向かう。
シャロの分も持って帰ってあげよう。どうせカルピスだろうし。
「俺もカルピスなんだけどね……って、ん?」
二本のカルピスを取り出した時、物陰から隆二と跡部さんの声が聞こえた気がした。
近づいて、そーっと顔だけを覗かせてみる。
「はい、あ~ん」
「やりたかったことってこれかよ……あーん。うん、おいしいよ」
「えへへ……もっと食べる?」
「じゃあお願いしようかな」
「おっけー、はいあ~――」
よし、退散。すぐにここを離れよう。
二人とも姿を見ないと思ったら、皆に隠れてこんなことを……なんていかがわしい。
別の意味でお腹いっぱいになってしまった俺は、皆の元に戻るべく歩く。
しかし、ふとさっきの光景が頭によぎり、何かが引っかかる。
「……そうか、向き合わなきゃいけないんだよな」
今までもらった三通のラブレター。その差出人の候補は、三人にまで絞られた。
シャロか、日和か、衣織か。
その中の誰かと、俺は……
「恋人に……なるのかな……」
川の流れる音は絶え間なく、木々のざわめきはせわしなく。
自問自答すらできずに、俺の足は歩むことを止めた。
× × ×
その後、お腹いっぱいになった俺達は、川釣り午後の部へと移った。
昼に食べた川魚のウマさは計り知れなかった。そして午後の部で釣った魚は夕食に出るらしいので、気合が入るってもんですよ。
一度でいいから自分で釣った魚を食べてみたいので、今度の俺は本気だ。
と言っても、釣れるかどうかは運の方が強いので、素人の俺は竿をちょんちょんと動かしながらその時を待つ。
「やっほ……悟くん……」
小さく挨拶をして隣に座るのは、髪を後ろでくくっていて、白い帽子を被っている涼しそうな格好の衣織だ。
「ここ……さっきも居たんだけどよく釣れるんだ」
「そりゃいいことを聞いた……って、衣織、釣り竿は?」
「もう十分釣りは楽しめたから、いいの」
「そっか。贅沢な事をいいますな」
「えへ……だから今は、悟くんと一緒にいたいな」
「それ、楽しいかな?」
「うん。だって……悟くんだもん」
理由になっていないような気がするが……まぁ……本人がそれでいいというのなら、いいのだろう。
「衣織……さっきいっぱい釣ってたけど、何かコツとかあるのか?」
「んー……ゆっくりしてたら、いっぱい釣れると思う」
「それは……そうかもしれないけど」
釣りは気長にってことか。
「気長にいくか。気長に――って、おぉ……!?」
「わぁ……!引いてるよ悟くん……!」
びくびくと竿に伝わる衝撃。魚が釣られまいとしているのがわかる。
「よ……!っと……」
そうして水から引き上げた糸の先には、きらきらと光を反射する元気な川魚の姿があった。
「やった!釣れた!」
「おめでとう!悟くん」
慎重に針を外して、バケツへと投入。
ぐるぐるとバケツの中を泳ぎ回る姿を見ながら、俺は魚を釣れたという喜びを嚙みしめていた。
「いぇーい!」
「いぇーい……!」
そうして二人でハイタッチを交わす。ゆっくりだったので音は全然でなかったが、満足感に包まれる。
「嬉しいもんなんだな……釣れるのって……」
「悟くん、すっごく嬉しそう」
そんな俺の様子を見て微笑む衣織。
実際嬉しいので、俺は笑みだけを返した。
(シャロとにぎやかに過ごすのも良かったけど、これはこれで楽しいな……)
午前とは正反対の時間を過ごしながら、俺は再び糸を垂らす。
そして冷静になってみると、今こうして衣織と釣りをしていることが不思議に思える。
衣織と二人でいるのは何度かあったが、ほとんど学校の中でだけだった。
プールには行ったが、周りには人がいた。
でも今は、完全な二人っきりだ。周りには誰もいない。周りに木が多い日陰だから、近くで釣りをしているはずの皆の姿は見えない。
そんな状況で考えるのは、首のチョーカーのことだ。
衣織がジョーカーだったら?もし違ったら?
そんな事ばかり考えてしまう。
「……」
二人の間に会話はない。無言の時が過ぎていく。
でも、不思議とそれが心地いい。この静寂さえも、楽しいとさえ思える。
そんな静寂がいつまで続いただろう。数秒、数分、はたまたもっとか。
静寂を崩したのは、衣織だった。
「あのね……悟くん……」
そこで言葉が止まる。隣を見ると、水面を見つめた衣織が口を開けたり閉じたりを繰り返している。
どうしたの?……と言おうと思ったが、衣織の真剣な眼差しがこっちに向いたことで、言葉が引っ込んでしまった。
切り詰めたような衣織の顔。何かを決心したようなその雰囲気に、俺はただ待つしかなくなる。続きの言葉を。
そして衣織は口を開く。
「私……ずっと悟くんに言おうと思ってたの。――〝ありがとう〟って」
「え……?」
「覚えてるかな。去年……私達が出会った時のこと。それで……友達になった時のこと」
「……覚えてるよ。忘れたりなんかしない」
衣織と仲良くなったきっかけだ。話すのが苦手な衣織の練習相手になってと言われ、結局俺の提案で友達ということになった。
あれから衣織は人と話せるようになり、シャロや日和なんかの友達もできた。
「今の私がいるのは……悟くんのおかげ。もし悟くんがいなかったら、私はずっと人と話せないまま、学校が嫌になって、行きたくなくなって……いろんな人に迷惑をかけてたと思う」
「そんな事無い――」
「あるよ。わかっちゃうんだ……きっとそうなるって……」
衣織の言葉には、それを納得させる何かがあった。
反論なんか、できなかった。
「でも、そうならなかったから、今の私がここに居る」
「っ……」
「悟くんが、居てくれたからだよ?……あなたが、私をここに居させてくれた。学校に、居場所をくれた」
衣織の言葉が強くなる。言葉の一つ一つが直接心に響くように。
「だから……ありがとう……!ずっと言いたかった……!ずっと思ってた……!」
釣り竿が手から離れる。カランカランと音をたて、石の上を転がっていく。
今魚が釣れたら、釣り竿が川に流される。
でも今は、衣織に時間を奪われていた。
「こんな事……いきなり言われても困るよね、ごめんね?」
「い、いや……嬉しかったよ。衣織の気持ちが知れて……どういたしましてって、言えばいいのかな」
「それでね、悟くん」
身体を寄せて来た衣織の手が、俺の手に重なる。
小さくて温かい手は、ひどく震えていた。
「な、なに?」
「これから……もっと悟くんが困る事……言ってもいいかな」
「それは……」
言葉が出ない。言おうとする言葉がまとまらずに、どこかへ消えていく。
神経が研ぎ澄まされ、いつもなら気にならないはずのチョーカーの感触が気になってしょうがない。
「私……ずっと……」
衣織の大きな瞳が俺を捉える。重なっている手を通じて感じる衣織の体温は熱く、手の震えは止まらない。
――いや、この手の震えは……本当に衣織のものなのか?
「悟くんが――」
「助手ー!!どこ行ったのよー!」
「「っ!?」」
俺を呼ぶ日和の声で、反発するように二人の身体が離れる。
「あ、いたいた。エサ箱忘れてるから取りに来なさいって会長が言ってたわよ。って、衣織も一緒だったのね」
「え、あ……うん……」
「どうしたの?なにかあった?」
「いや、何でもないよ。気にしないで……」
「ふーん、ところで助手、釣り竿はどこに行ったの?」
「へ?」
転がっていった方を見ると、今丁度川の方にぐいぐいと釣り竿ごと引っ張られているところだった。
「わぁぁ!引いてる!」
俺は慌てて竿を拾う。間一髪間に合ったが、肝心の魚は逃げてしまった。
エサだけ食べられた結果となってしまった。
「ぼーっとしてたけど、熱でもあるの?」
「大丈夫。ちょっと考え事してただけだよ」
「ならいいんだけど、釣り竿落とさないでよね」
「気を付けます……」
多分今するべきことは、釣りなんかじゃない。でも……
「俺……エサ取りに戻るよ」
俺は誰とも目を合わせることなく、エサ箱を取りに向かった。
衣織が何を言おうと思っていたのか俺にはわからない。何を思っていたのかも、全部わからない。
人の心はわからない。難解な謎だと思っている。
俺はそんな謎から……逃げた。
遠ざかって行く彼の背中を見ながら、私は胸に手を置いた。
今にも破裂しそうなくらい高鳴っている心臓はまだ落ち着きそうにはない。体にうまく力が入らなくて、頭がふわふわするみたいな感覚に陥る。
残念だったのか、ほっとしたのか。あるいはその両方か。
私がしそうになったことを考えると、この緊張は自然なことだった。
「衣織?どうしたの?衣織までぼーっとして」
「え?あ……いや、なんでもないよ」
「……ねぇ、助手と何話してたの?」
「話?」
「うん、二人でいたんでしょ?私も混ぜなさいよ」
「それはいいけど、釣りはしなくていいの?」
「結構釣ったから、釣りは休憩。サイズだけなら今日皆が釣った魚の中でも一番が釣れたわよ!」
「すごい……!」
「ふふん!そうでしょ!」
日和ちゃんは嬉しそうに腕を組む。隣に座ったことでよくわかる彼女の身長でそうすると、かっこいいより先にかわいいと思ってしまう。
本人は小さいって言われるとちょっとむすっとするあたり、身長のことを気にしているんだと思う。
「ねぇ、衣織……」
「どうしたの?日和ちゃん」
「えっと――いや、何でもないわ」
「?」
こうして話しているうちに、心臓は次第に落ち着きを取り戻していった。
でもまだちょっとだけドキドキする。頭もふわふわしたまま。
これで……良かったのかな?
× × ×
この旅館の夕食はいつ食べても絶品だ。釣った魚もいい感じに調理されていて達成感的なものを感じる。まぁ俺が釣った魚はどれかわかんなかったんだけど。
そうしてわいわい談笑しながら夕食を済ませて自由行動となり、俺はとりあえず部屋に戻って満腹感に浸っていた。昨日は謎解きで頭がいっぱいだったのであまり温泉宿を楽しめなかった。今日はゆっくりとこの旅館を満喫するとしよう。
茶葉の入ったパックを湯飲みに入れ、お湯を注ぐ。昨日からいろんな人がこの部屋に来るからこのお茶のパックもそろそろなくなりそうだ。
「……」
ゆっくり旅行を楽しもうと思ったが、やっぱりそうはいかないらしい。
お茶を飲んで一息つくと、頭の中に浮かぶあの手紙。
曇天の星空の謎、頑張ってください。応援しています。
一生懸命に謎を解く、かっこいいあなたが大好きです。 あなたにお世話になりっぱなしなエースより。
ジョーカーからの三通目のラブレター。今はカバンに保管しているが、その差出人が誰かはまだわからない。
ジョーカー候補の女の子は皆魅力的な女の子だ。そんな女の子が好意を持ってくれているのは嬉しい。だから早くこの謎を解いて返事を返したい。
頭ではそうわかっているのに。
「……なんで、解けないんだろう」
謎を前にして足踏みをしたことは一度もない。それがいかに危険な謎でも、まずは解いてみるところから始めていた。それなのに……ジョーカーの正体を解こうとすることは、なぜかひどく怖かった。
この葛藤が生まれたことによってわからないことが増えた。俺は、俺の気持ちがわからなくなった。
「悟先輩、入っていいですか?」
「うん、どうぞ」
こんこんとノックの音が響き、遠慮がちにかけられる声に返事を返すと、「失礼します」と言って織姫が入って来て、対面する座椅子に座った。
「どうしたの?何か用?」
「いえ、あの……」
織姫の様子はぎこちなく、何かを言い辛そうにしている。しかし決心がついたのか、織姫は確かな口調で俺に問いかける。
「悟先輩は、昨日のラブレターについてどう考えてるんですか?」
「っ……!」
思ってもみなかった事を聞かれて動揺してしまうが、すぐに平静を取り繕う。
「どうして……そんなことを聞くの?」
「今日の悟先輩、なんだかいつもと様子が違うようでした。そわそわしたり、ぼーっと考え込むことが多かったりして、まるでずっと悩んでいるみたいで……」
自分では気づいていなかったが、傍目からわかるくらいには表に出ていたらしい。
確かに悩んではいた。あの中の誰かにジョーカーがいるのかと思うとどうしたらいいのかわからなくなる。
「悩んでたよ、そのラブレターのことだ。差出人が誰かはまだわからないけど、今日釣りをして遊んだ女の子の中にいるんだよね」
「……はい」
織姫はあのラブレターの差出人を知っている。だからこその疑問だろう。
「正直、俺は人を好きになるってことがよくわかんないんだ……だから、悩んでた」
「そうだったんですか……」
「ずっと悩んで、今わかった。俺は怖かったんだ……今の関係を崩すことが」
「それは……」
「さっきも言った通り、俺は人を好きになるってことがよくわからない。だからその差出人と恋人にはなれないかもしれない。そうなっちゃうと、今の関係は崩れちゃう……友達でいられなくなるかもしれない。俺は、それが怖かったんだ」
言葉が弱くなっていく。強いところなんか一つもない、弱い俺の言葉だから。
そんな言葉を受けて、織姫は立ち上がって俺に詰め寄った。
「何言ってるんですか!なんでそんな事言うんですか!」
「織姫……?」
怒りと悲しみを含んだような声で織姫は続ける。
「まだ差出人が誰かもわかってないのに、何でそんなこと言うんですか!その人がラブレターを渡すとき、怖くなかったとでも思ってるんですか!?」
掴みかかりそうな勢いで言葉を連ねる織姫。その一つ一つが俺の中に響いていた。
ラブレターを渡す――なんて、勇気がいるに決まってる。例え何通かに分けて送ったとしても、勇気がいることに変わりはない。
俺は今までの関係を崩したくない。でも、ラブレターを渡す方がそう思わないなんてありえない。
俺が感じている恐怖の何倍も怖い思いをして、手紙を送ったんだ。
「あの人は悟先輩だから謎を解いて見つけてくれると思っているんです!それなのに、せっかく勇気を振り絞ったのに見つけてもらえないなんて、そんなの……」
「あんまり……だよな」
今まで恋愛から逃げて来たツケが回って来たんだろうな。
やっと気づいた。こんな簡単なことに。
恋愛がわからなかったのではなく、分かろうとしなかっただけなのだ。
「俺、自分のことしか考えてなかった。相手がどう思うかなんて分かろうともしなかった」
「悟先輩……」
「織姫、頼みがある」
「何でしょう?」
「思いっきりビンタしてくれ」
「え?い、いいんですか?」
何故だ、とは言わない。俺の真意を理解したのだろう。
今までの弱い自分に区切りをつけたい。人の思いに真摯に答えたい。関係を失うことへの恐怖を捨て去りたい。
そんなこんなを、全部ひっくるめて。
「手加減なしで頼む!」
「はいっ!」
その夜、心地いい静寂の中に一つの破裂音が響いた。
「ありがとう、目が覚めたよ」
「どういたしましてです!」
こんな短時間で終わるような悩みで、一人の女の子の告白を台無しになんかさせない。俺はもう自分の気持ちから、変化から逃げない。
君の
いくつもの星が輝く空の下。私はそこで一人温泉に浸かっている。
「あぁ~……生き返るわ~……」
今日は釣りやらバーベキューやらでいっぱい遊んだから、温泉のお湯が全身に染みわたるようだ。
謎解きイベントの景品にしては豪華すぎるこの温泉旅行でも、そんなこと気にならないくらいには満喫できている。もしかしたらクリアできてなかったかもしれないから、助手には感謝……いや、次こそは私が助手に勝つんだから!いやでも、感謝はした方がいいのかな……うーん……
私が変な板挟みにあっていると、扉が開く音がした。
「よかった、誰もいない……」
「いるわよ」
「わぁっ!?……って、日和ちゃんか……」
本当に見えていなかったのか、尻もちをつきそうになるほどにびっくりしている衣織。湯船に肩まで浸かっていたら私は見えないのねそうなのね。……はぁ。
「隣いいかな……?」
「別にいいわよ」
「お邪魔しまーす……わぁ……気持ちいいね……」
「そうね……本当気持ちいいわ……」
幸せな息が重なる私達。温泉旅館の温泉がこんなにいいものだとは思わなかった。これなら客が来るのも納得できる。
「この温泉に入るのも今日で最後なのね」
「そっか……明日にはもう帰らなきゃいけないのかぁ」
「長いようで短い温泉旅行だったわ」
初日は謎解きでほとんど潰れちゃったし、今日は楽しくてあっという間に時間が過ぎてしまった。本当に短い温泉旅行だった。
「でも……楽しかったね」
「そうね。それは心から同意するわ」
夏休みなんて、ただ家にいる時間が多いだけのものだと思ってた。現に1年生の時はそうだった。
1年生の時の私なら、こんなの想像もできなかっただろう。
「ね、日和ちゃん」
「なに?」
「また一緒に……旅行に行きたいな……」
「ふふ、そうね。その時はまたみんな誘いましょう」
「うん……!」
「まだ終わってもないのに次の旅行の話なんて、呑気なものね。私達」
「ちょっとくらいいいよね。夏休みだもん」
こんな風に友達ができて、一緒に笑い合う。
こんな事、予想もできなかったでしょうね。
それもこれも、あの時あなたが――
「悟くんに感謝しなきゃだね」
「な、何で助手の名前が出てくるのよ!」
「え?だって……悟くんに誘われたから……」
「あ……そ……そうね。そうだったわ」
思考と現実がリンクして動揺してしまったけど、何とか誤魔化せた。
今は私達以外温泉には誰もいない。誰かが入ってくるかもしれないけど、タイミングは今しかない。
「ねぇ、衣織」
「どうしたの?」
「あなた――助手のことが好きなの?」
時間が止まったような気がした。衣織は眉一つ動かさずに固まっている。
お湯の流れる音だけが、時間の動いている証明だった。
「なんで、そんなこと聞くの?」
先にこの静寂を破ったのは衣織だった。真剣な眼差しでまっすぐ私を見つめて問いかける。
「助手のこと呼びに行ったときに、あなた達の会話が聞こえたの」
「……どこから聞いてたの?」
「ありがとうって言いたいって所からよ」
会長に言われて助手を探していると、物陰から助手の声が聞こえた。すぐにそこに行こうと思ったけど、どうやら衣織と会話しているようだった。なぜか私はそこに行くことができなくて会話を聞いていた。それで様子を覗いてみると、衣織は助手に詰め寄っていた。そして、何かを言おうとしていた。
「あの時、助手に告白しようとしてたんじゃないの?」
「……」
また衣織は何も言わない。静かに揺れる水面を見つめて瞬きを繰り返す。
そして顔を上げて、白い息とともに呟いた。
「私は――悟くんのことが好き」
衣織は決定的な言葉を言った。何の混じりけのない想いを口に出した。
「そうだよ。あの時、言おうと思ってた。好きだって……抑えきれなかったから」
「……」
「あの時を逃したら、もう伝える機会が無いと思ってたから。もう、我慢できなかったから」
「……さい」
「え?」
「ごめんなさい……!」
私は言葉を絞り出す。謝らなければならなかったから。
「ど、どうしたの?何で謝るの?」
「私……知ってた……衣織があの時告白しようとしてたこと……」
「え……?」
「知ってて、邪魔したの」
「日和ちゃん?」
「あなたが助手に近づいて、告白しようとしてて、そうしたら……体が勝手に動いて……わざと二人に聞こえるような大声を出したの」
あの時、衣織は後ろ姿しか見えなかったけど、助手の顔は見えた。
すっごくうろたえていて、今まで見たことない顔をしてた。その顔を見た瞬間、胸が張り裂けそうになった。
「私は……友達の告白を邪魔する、最低な人間なの!」
手で押さえても流れる涙を止められない。ぽたぽたとお湯に落ちていく。衣織の顔を見ることができなくて、自己嫌悪が止まらない。
これじゃあの時と、何も変わらない。
「だから、こんな私は――!」
続くはずの自虐の言葉は出なかった。いや、出せなかった。
衣織に優しく抱き寄せられ、醜く吐いていた言葉が止まってしまう。
「大丈夫だよ、日和ちゃん。私は気にしてないから」
「う、嘘よ!だって、あなた言ってたじゃない!もう伝える機会が無いって……!」
「私ね、人間関係下手っぴなんだ。だから、今は伝える機会が無いって思ってても、いずれそんな機会が来るかも知れないって思うの。この旅行だって、数日前までは想像もしてなかったんだもん」
「っ……でも……でも!」
「大丈夫だよ。私も……きっと同じことをしたと思うから」
「同じ……こと……?」
「うん。誰だってそうだよ……そんな状況、辛いよね」
「え……?」
衣織が優しく頭を撫でる。怒りのかけらもない。ただただ優しい温かい手。
「私は日和ちゃんが酷いことしたなんて思ってないよ。告白はまたやり直せばいいんだから」
「そう……なの……?」
「うん。それにね、私は悟くんと同じくらい、日和ちゃんや他の皆が好きなんだからね」
「っ……」
「だからね。もう泣かないで……日和ちゃん」
「っ……うぅ……衣織……衣織……!」
泣かないでって言われたけど、たくさん泣いてしまった。衣織はずっと優しく抱きしめてくれて、私は安心の中にいた。
涙が枯れて泣き止む頃には、私達は少しのぼせそうになっていた。
× × ×
「夜風が気持ちいいわね」
「うん……夜のお散歩もたまには悪くないね」
お風呂あがりの私達は、近くの整備された林道に足を運んでいた。生い茂る竹の間から吹き抜ける風が、とっても気持ちよく感じる。
肌からうっすら湯気が昇る二人の会話を聞くものは誰もいない。
例え野生の生き物であっても、幽霊であっても、聞かれてはならない話だ。
「これが……私を救ってくれた王子様の話」
「そんなことがあったのね……ほんと、キザなことする男だわ」
「……キザっぽいところも含めて王子様なんだよ?」
「わかってるわよ!……な、何でそんな恥ずかしいこと普通に言えるのよ!?」
あれだけ人と話すことが苦手だった衣織が普通の人でも言うのをためらうようなことを連ねていく。
恋っていうのはこうも人を変えるものなの?
「それで、日和ちゃんはその話を聞くためだけにお散歩に誘ってくれたの?」
笑みを含めて問いかける衣織。全部見透かされているようだ。
「違うわよ……その……」
「その?」
これは衣織に話しておきたい。いや、話さなきゃいけないんだ。
「あなたに聞いて欲しかったの。――私と、助手のこと」
「……うん、聞かせて」
並んだ石畳を踏んで二人は歩く。二人の影が光に揺られ、引いては伸びてを繰り返す。
湯気はもう昇っていない。火照った体は既に冷めている。
しかし散歩はまだ、終わりそうにはない――。
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