第6話 星空の謎
バスで30分ほど。自然に囲まれた山の中に、件の旅館はあった。
住み慣れた町とは違う、緑の景色。もし田舎に住んでいたらこんな風景が日常だったのかもしれないと思うと、少しだけ残念になってくるほど美しい風景だった。
ゆらゆらと揺れる深い翠の木々や鮮やかな若竹がからからと音を立て、風に乗って自然の香りを届けてくれる。旅館のすぐそばを流れる大きな浅い川は、遠目から見ても川底が見えるほど透き通っていて、泳ぐ小魚の鱗に強い陽の光が反射している。
そしてそんな自然に囲まれながら俺たちを出迎えてくれたのは、古くはなく、されど新しすぎもせず、山奥にひっそりとたたずむ祠のように、風景との調和を確立している立派な旅館だった。
旅館の周りには枯れ葉一つ落ちておらず、丁寧に切り揃えられた生垣の間から少しだけ見える大きな庭園には、見事な枯山水が描かれていた。
「すごい立派な旅館ね……」
「写真で見るのとは違うなぁ……」
いかにも秘境の温泉旅館、といった雰囲気に当てられ、俺と天音の口から思わずそんなことが漏れる。
「ほんっとナイスだよ悟!推理力の正しい使い方だね!」
天音が荷物を持っていない方の手で、わしわしと強く俺の頭を撫でてくる。
果たしてそうなのか、疑問の余地はあるが、少なくともそのおかげでこうしてみんなで温泉旅行に来られているのだ。悟りくんに感謝だ。
「でも、ほんとに俺達まで誘ってもらってよかったのか?」
「最大10人までって話だったから……むしろ来てくれてありがとうだよ」
「っ!ほんとにお前は~」
「あ……ありがとうございます!」
照れるように顔をほころばせる隆二と、その隣で頭を下げる隆二の彼女さん。
体格は全体的に小柄で、ガタイの良い隆二と並んでいることで、その体格がより小さく見える。身長差カップルは色々と苦労すると聞かされたことがあるが、こうして見るとなんとなくわかる気がする。
肩まで伸びたやや内ハネの黒髪に、良く似合った赤い眼鏡をかけている彼女の名前は
そろそろ付き合って1年らしく、たまに……いや、結構な頻度で二人が腕を組んで帰路につくところを見かける。ぜひとも仲のいいままでいて欲しいものだ。
「でも本当にすごいデス……ニッポンの文化に触れられて感激デス……!」
「シャロちゃんは日本生まれ日本育ちだよね……?」
「ノンノンイオリ!細かいことは気にしないのデス!」
「全然細かくないわよ……」
「全然細かくないと思います……」
俺が誘ったのはシャロ、衣織、日和、織姫、隆二と跡部さんで、保護者として天音を加えた、計8人で2泊3日の温泉旅行を楽しむつもりだ。
俺抜きでも全員かなり仲が良いので、行きのバスの中はそれはそれは盛り上がっていた。シャロが「温泉旅館と言えば殺人デス!」と言い出したのがきっかけで、変な方向に期待が高まってしまった。なんとなくは察していたが、その時は俺が探偵役らしい。んで最初に死ぬらしい。なんでだよ。
何はともあれ、隙間のない石畳を踏んで玄関へと向かう俺達。
両開きのドアを開くと、ロビーからは温かな木の香りが漂ってきて、無機質な日常の建物とは違う雰囲気の世界へと誘われる。
ロビーは茶色を基調とした雰囲気溢れるもので、囲炉裏やソファ、コーヒーマシンなんかも置いてあり、十分にくつろげるスペースとなっている。
細かなところは後でじっくり見るとして、まずはチェックインを済ませるべく、フロントにいる浴衣の男性に声をかけ――ようとしたが、俺たちの姿を見るや、その男性は薄く笑みを浮かべて深く一礼した後、穏やかな口調で話しかけてくる。
「火鉢様ですね。お待ちしておりました。荷物をお部屋までお運びしますね」
「は……はい」
天音がそう返事すると同時に、フロントの奥からしわ一つない着物を着こなした女性たちがわらわらと出て来て、俺たちの荷物を丁寧に運んでいった。
かなり珍しい接客ではあるのだが、俺はどうも何かが引っかかる。
この男性の笑みに感じる違和感……まるでその笑みが、笑いをこらえたことで生まれたような――
「ようやく……ようやく出会えた……」
「?」
幻聴かと思う程に小さな声が聞こえた。しかしその口の動きを見るに幻聴ではない。男性は確かにそう言ったのだ。
……となると、そういうことか。
俺は自分の役目を果たすべく、一歩前に出る。
「あなたがこの旅館の支配人……
薄い笑みを浮かべた男性は、口角をより吊り上げ、右手を胸に、左手を背中に回し、俺に向かって丁寧に一礼する。
「初めまして。いかにも、私がこの神無月旅館の支配人。
以後、お見知りおきを……と差し出された手を握り、俺たちは握手を交わす。
この人が神無月未来さん……この旅館の支配人にして、あのイベントの主催者でもある生粋の謎解きマニア。
この人の持つ独特のオーラに当てられたか、やけに空気が肌に張り付くような気がした。
「お部屋にご案内致します。どうぞこちらへ」
神無月さんに連れられ、美しい日本庭園を眺められる廊下を歩く。
日当たりは良好。その光を受ける廊下の壁には染み一つついておらず、どこを見ても隅々まで手入れが行き届いている。流石は高級温泉旅館と銘打っているだけのことはある。
あのイベントをクリアした後、景品の温泉旅行券を受け取った俺は、シャロや日和と一緒にこの神無月旅館のことをネットで検索してみた。
神無月旅館――雄大な自然に囲まれた天然温泉は来る人皆を癒し、豪華な食事とゆったりとくつろぐことのできる部屋という魅力を持った、年々宿泊者数を伸ばしている温泉旅館だ。少し宿泊費は高めだが、それを鑑みても訪れる価値があるほどの魅力が詰まっていると言える。
そこまでは調べられたのだが……肝心の支配人の情報は名前だけ。顔まではわからなかった。どんなものかと思っていたけど、意外と普通の顔つきで驚いた……というのも失礼な話だな。
そうして案内された個室で目に入ったものは、中央にお茶菓子の置かれた机に、それを取り囲むように座椅子が並ぶ畳の空間。その空間から障子一枚を隔てた先には、山と山を隔てるように流れる川が見え、鳥の奏でる歌がなんとも心地いい。
そしてその隣には個室露天風呂……という奴だろうか。うちの浴槽の何倍かはありそうな円形の露天風呂が、自然を楽しめる形で設置されていた。
これにはつい感嘆の息が漏れてしまう。
ここが……俺の個室かぁ。
「ごゆっくりどうぞ」
「はい」
完全に予想外だった。やっぱり支配人……神無月さんは変わっている。
「俺たちの貸し切り……なんて、景気良すぎだよな……」
廊下を歩いている時に説明されたのだが、俺達8人にはそれぞれ別の部屋が割与えられているらしい。それもどの部屋も遜色ないほど良質だそうだ。
この旅館は年中予約が殺到するほど人気の旅館だ。にも関わらず全く客がいないのは何故だと思ったが、俺たちの宿泊する2泊3日の間だけ、扱い上は休みということになっているらしい。
「さて……」
神無月さんが変わり者なだけだと考えられれば楽なのだろうが、曲がりなりにも支配人。客の流れを途絶えさせてまで無料で俺たちに事実上の貸し切りを与える理由が、俺は気になっていた。
「失礼いたします」
俺の思考を断ち切るように、扉の奥から若い女性の声が聞こえてくる。
おそらく従業員さんの声だとは思うのだが……どこか聞き覚えのある声だった。
そうして扉が開かれると、紺色の着物に身を包んだ、見目麗しい女性がそこに立っていた。やはりというかなんというか、どこか見覚えがある。
「こほん、こうして直接話すのは初めてだね。――火鉢悟君」
「あなたは……」
やっとわかった。その声に聞き覚えがあって、その姿に見覚えがある理由。
「神無月……会長……」
そう、この人は栄誉ある神薙高校の現生徒会長。
容姿端麗、文武両道、人をまとめ上げるカリスマ性、そのすべてを持った、優等生という言葉がお似合いな人だ。学年は俺の一つ上の3年生だが、その活躍は度々耳にする。
不必要な校則の撤廃に始まり、イベントの企画や開催など、生徒会としての業務はもちろん、全校集会ではいつも壇上に上がって何らかの賞を受け取っている。
今思えば、この人の苗字は神無月だった。となると、この旅館にいるのも納得できる。
しかし、俺の部屋に訪ねてくる理由まではわからない。敬語はすでになく、旅館として接するつもりはないようだ。
そんな俺の疑問は、会長の言葉によってかき消されてしまった。
いや、吹き飛んだと言った方が正しいか。
「遠路はるばるご足労。どうかゆっくりしておくれ。私の〝依頼〟でも聞きながら……ね」
× × ×
俺はお茶を出すときのマナーを知らない。上座だとか、お客様との立ち位置だとか、来客に飲み物を出すときにそんなことを気にした事は無い。そんなかしこまった機会など、俺にはまだ無いと思っていたからだ。
でも、勉強しておいた方がよかったな。
「ふぅ……悪いね。いきなり押しかけた上に。お茶まで入れてもらってしまって」
「いえ、丁度ゆっくりしようと思っていた所です」
深みのある茶の香りが部屋を包む。川辺だからだろうか、夏にしては涼しい気温の中、静かに言葉を交わした。
「もうしばらくゆっくりしていたいところだが、長居をするつもりもない」
俺の前に座る会長は、丁寧な所作で湯飲みを口から離しながら、本題に入る。
「少し相談に乗ってくれないか」
「相談……というのは、さっき言っていたことですか?」
依頼をしたい。会長は確かに俺に向かってそう言った。冗談ではなさそうだし、はて。
「あぁ、その内容だが、とある〝謎〟を解いて欲しいというモノでね」
「謎……?」
「この温泉旅館にまつわる謎。それを解いて欲しいんだ」
「ふむ……でも、どうしてそれを俺に……?」
俺の言葉に、会長はふっと表情を緩めて言葉を返した。
「簡単な話だよ、悟りくん。君なら解いてくれると信じているからさ」
「……それは、あなたと……あなたのお父さんの依頼ということですか?」
「――さぁ、どうだろうね」
その表情を見て、あるいは、その言葉をもって、俺は理解した。あのイベントから、俺がこうして依頼されることまで、全て繋がっていたのだと。
『Cicada3301』という組織の話を聞いたことがある。その組織は様々な暗号をネット上に散りばめ、その暗号を解いた者……つまり、高度な知的能力を持った人物を一般人の中から見つけ出すことを目的とした活動で、一時期話題になっていた組織だ。
その組織自体は今関係ないが、俺が言いたいのはその内容だ。
神無月さんは全国各地でイベントを開いていると言っていた。それは単なる景品付きのイベントではなく、そのイベントをクリアできるものを選別するものだったのではないか。
しかし、例えそうだったとしても、そうでなかったとしても、俺のやることは変わらない。
「その謎の詳細、聞かせてください」
俺と会長との接点はない。しかし、この依頼にどれだけ本気かは誰でもわかる。その気持ちが俺の前に謎となって現れたのだ。なら、それを拾い上げてみようではないか。無責任に、楽観的に。
俺は探偵なんかではなく、ただの謎解きマニアなのだから。
「ありがとう。火鉢君」
そう漏らす会長の顔には、確かな安堵が浮かんでいた。
× × ×
「ん~……これ!わぁ!上がりです!」
「万由里が1番かぁ……はいどうぞ」
「ならば2番を狙うまでデス……ほわぁ!?」
会長が去った後、なぜか俺の個室に全員が集合した。
そしてしばらく旅館の感想を語り合っていたのだが、今は旅行先でやったら楽しいことランキング上位であるババ抜きを楽しんでいる。
「さぁサトル……ジョーカーなんて持ってないので安心して引くがいいデス……!」
「いや絶対持ってるでしょ。さっき叫んでたし」
「っ……!それはどうかなデス……!」
顔を引きつらせて一番右のカードをちらちら見ているシャロ。ここまでわかりやすいと逆に心配になってくる。
俺はゆっくりとその視線と逆のカードを抜き取る。
「視線で誘導してるのがバレバレ……はい、俺も上がり」
「ノ~!!」
何年一緒に居ると思ってるんだ。その程度のブラフに引っかかるほど俺は鈍感じゃない。
「手加減しなさいよ悟~シャロに優しくしなさいって何回も言ってるでしょ~……あ、揃った。やった!」
「アマネの言う通り!なのでみんなの手札をこっそり教えるデス……」
「わぁ直球な卑劣」
皆苦笑いしてんじゃん……あぁ、衣織と日和が手札を必死に俺に見られまいとしている……そんなことしないのに……
「そう言えば、ここに来る時神無月会長とすれ違ったんだよ」
「なんか嬉しそうでした……」
隆二と跡部さんが思い出したようにそう切り出す。
「神無月さんのお宅が旅館やってるのは知ってたからもしかしてって思ってたけど、やっぱりこの旅館だったんだ」
衣織にカードを引かせながら天音は言う。あまり関心は無さそうだ。
そんなやり取りを聞きながら、俺はふと外の景色に目を移す。
何度見てもいい眺めだ。ぜひとも夜の景色も見て見たいものだ。
(まぁ――見る暇があるかどうかは知らないけど……)
さっき聞いた会長の依頼。――その内容はこうだ。
丁度1か月前の6月下旬。その日は一日中曇っていて、ちらちらと雨も降っていた。そんな夜、一人の客が温泉に浸かった後に廊下を歩いていて、ふと夜空を見上げたところ、曇りのはずのその夜空には、満天の星空が広がっていたのだそう。他の客は星空など見ていないと言うが……
さて、どういうことだろう。
(曇りのはずの空に星……なんとも不思議な状況だ)
会長によると、その客は絶対に見たと言い張っていたそうだ。あまりにも真剣に訴えるので調べないわけにもいかず、されど謎は解けない。そんな状況に痺れを切らした支配人は、謎解きイベントという形で探偵を雇うことにしたのだ。
「ねぇ、助手」
正直全くわからないが、依頼を受けたからには考えるしかない。
「ねぇってば!」
まだ情報が少なすぎる。まずは詳しい話を聞こうか。
「助手ったら!」
「っ!」
「なに考え事してるのよ」
俺を見下ろす日和は、腕を組んで首をかしげている。
つい考え込んでしまったようだ。今はとりあえず……
「次のゲームで日和をボコボコにする方法を……ちょっとね」
「へぇ……?いい度胸じゃない」
今は、旅行を楽しもうか。
× × ×
「殺してくだサイ……」
「いや、割と面白かったと思うよ……?」
「私は好き」
「私もです!」
ババ抜きの罰ゲームである一発ギャグを披露したシャロ。
普通にウケてたと思うが、シャロの顔はずっと真っ赤に染まっている。恥ずかしかったかぁ……
「もういいデス!旅館内の探索に出かけてきマス!」
「それじゃ、俺らも行こうぜ。温泉とか見て見たいしな~」
「うんうん!早く行こう隆二くん!」
なんか解散になる流れだな。俺としても謎を解く手掛かりの散策に出かけようと思っていたところだ。
(さて……どこから行こうか……)
星空を見たと言っていたのは離れにある温泉から本館に続く廊下だ。まずは件の現場を見に行ってみようか。
残ったお茶を飲み干して、俺は部屋を後にした。
「……へぇ?」
× × ×
離れから本館に続く廊下は優雅な日本庭園の中にあり、遠くからは鹿威しの軽快な音が響く。
――かぽん
うん、軽快。
そして空を見上げてみると、真っ青に薄いオレンジが混じり始めている。
まだ夕食までには時間がある。庭園を楽しみながら暗くなる前に探索するとしよう。
「なにかわかりそう?」
「まだ何もわかんないな……いかんせん手掛かりが……って、え?」
いつの間にそこにいたのか、振り返った先にはにやけ顔を張り付けた日和が立っていた。
「なんで日和がここに……というか、日和も依頼されたのか?」
「依頼……やっぱり、あの会長さんはそういうこと……」
依頼はされていない。ということは……
「皆が会長さんを見たって言うし、助手の様子が変だったからついて来てみたら、やっぱり何か謎解きをしてたってわけね」
「別に隠すつもりはなかったけど……まさかバレちゃうとは」
きっと将来は良い探偵になるな。なんて適当なことを考えてしまう俺だった。
「というわけで、どんな謎なのか聞かせて頂戴」
「……わかったよ。探偵さん」
会長の依頼の内容を説明すると、日和は口を結んで考え込む。かと思えばすぐに口を開き、突きつけるように俺に言う。
「内容は理解したわ。それじゃあ早速手掛かりを探すわよ!」
「……言われなくてもそうするよ」
助手を振り回すのは探偵のお決まりとでも言いたいのだろうか。日和はその小さい体を揺らしながら、廊下の方へと指を差した。
助手扱いは御免被るが、探偵ではないのもまた事実。
「曇天の星空……うん、それがいいわね」
日和は眩しそうに空を見上げながら、今回の謎を命名している。
そんな様子を見ながら、俺は付近の手ごろな椅子に腰かける。
日和は現場をしらみつぶしに探している。となると、ここに俺がいる理由は薄いだろう。二人で探せば何か変わるかもしれないが、俺は別の場所に用がある。
この謎についていくつかの確認をしなければならない。
「日和~」
「何よ助手。そんなところにいないであなたもこっち来なさいよ」
「いや、ちょっと行く所あるから、なにか見つけたら連絡してね」
「え?行く所って、どこに……」
どこ、と言われると返答に困る。用がある人がどこにいるのかを、俺はまだ知らない。
「支配人さんの所、かな」
「支配人……そう、わかったわ」
すんなりと調査に戻る日和。話の内容はわからなくとも、自分がそこにいる必要は無いことを感じ取ったようだ。
それから俺は、受付に行って支配人さんに用があるとだけ伝えた。
今はロビーの椅子に腰かけて、出された飲み物をちびちびと飲んでいる。
旅館特有の間取りと雰囲気に包まれながら飲む麦茶は、少しだけ特別なもののように感じた。
そんな俺の元に歩み寄って来たのは、支配人さん――ではなく、
「こんにちは。悟くん……」
「こんにちは。さっきぶりだね、衣織」
ふわりと揺れる艶やかな長い黒髪に、透き通った白い肌が可憐な女の子。
そんな衣織は俺の隣に座り、軽く言葉を交わす。
「ちょっと用があって、支配人さんを呼んでもらってるんだ」
「心読んでくるの……びっくりしちゃうよ……」
「はは、ごめんね」
「それで、その用って?」
「それは……今解いてる謎に関してなんだ」
「……謎?」
衣織にも依頼の内容を話すと、その大きな瞳は興味ありげにこちらを向いている。
「曇天の星空……なんだかロマンチックで不思議なお話だね……」
「確かにね」
衣織の言う通り、なんとも不思議な話だ。曇りの日に星が、それも満天の星空。
けれども、不思議なものには解がある。
幽霊の結論だって、何年たっても枯れ尾花だ。
「待たせたね。火鉢君」
今度こそ俺に声をかけて来たのは、支配人さんではなく、神無月会長だった。
「どうして会長が?」
「すまないが、父上は今手が離せなくてね。言伝があるなら聞こう」
「いえ、俺は曇天の星空の目撃者について聞きたかったんです」
「曇天の星空……あぁ、そのことか。いい名称をつけてくれたようだね」
日和の命名なのだが、今はそんな事はどうでもいいな。
「依頼をしたのは私だ。いいだろう。知っていることは何でも教えよう」
「ありがとうございます」
俺たちは向かい合った席に移動し、聞き込みを始めた。
「一応の確認から入りますが、その日は一日中曇りだったんですよね」
「あぁ。地面がぬかるむほどでは無かったが、雨が降っていた時もあった」
「それは夜もですか?」
「そうだ。その日は中々眠れなくてね。深夜に散歩がてら館内を歩いていたんだが、星は見えなかった」
一瞬だけ晴れた、なんて可能性は無いに等しいな。
「では次に、星空の目撃者について聞きたいことがあるのですが」
「何かな?」
「その夜、目撃者はお酒に酔っていましたか?」
「酔っていたと思うよ。後日頭痛で苦しんでいたからね」
「お酒……関係あるのかな……」
「わかんないけど、一応の確認だよ」
酒が回っていれば見間違いで説明がつく可能性がある。
そう、例えば……
「最後に、この付近で〝ホタル〟は見られますか?」
「――いや、この付近にはいないよ。残念だけどね」
「ホタル……確かに星空みたいに光るね……」
それなりに納得のいく仮説だったが、使えないか。
「ありがとうございました。後は自分で考えてみます」
「役に立てたようなら嬉しいよ。もう質問が無いなら私はお暇させてもらうよ。幸運を祈っている」
柔らかな笑みを浮かべて去っていく会長。その背中を一瞥した後、俺はすぐに歩き出す。
「これからどうするの?悟くん……」
「そうだね……一旦自分の部屋で考えをまとめてみるよ。会長が言うように、幸運を祈って……ね」
「そっか……うん、がんばってね……私はそういうのあんまり得意じゃないから力にはなれそうにないけど、応援してるね……!」
「ありがとう、衣織。それじゃあね」
「うん……ばいばい」
俺は衣織と別れ、自分の部屋に続く廊下を歩く。
仮説が一つ潰れたが、進展は確かにあった。ゆっくりと歩いて行けばいい。
一つの謎を、ゆっくりと紐解いて行けばいいのだ。
そう――思っていたのに。
この後待ち受ける〝謎〟に、俺は再び頭を抱えることとなる。
「――そろそろかな」
曲がり角に消えるその言葉は、誰が呟いたのだろう。
× × ×
夕食は豪華なもので、名前も知らないような料理が並んでいた。
それはそれはおいしかったと思うのだが、曇天の星空について考えていたせいか、あまり味は覚えていない。これは由々しき事態だ。なんてもったいないことをしてしまったのだろう。
外はすっかり陽が落ちて、窓の外に見える景色は黒く染まっている。そのためか、虫の声が昼間よりも大きく聞こえる。テラスの椅子に腰かけながら口ずさむ鼻歌に合わせるように。
もうしばらくこうしていようかとも思ったが、せっかく温泉旅館に来たのだ。タイトル詐欺は味気ない。
着替えやタオルなどを持って、俺は浴場に続く廊下へと出る。
「あ……」
扉を開けた瞬間、丁度通りかかった女の子の青い瞳と俺の目が重なる。
「サトル!いまから温泉デスか?」
「うん……シャロも?」
シャロはこくりと頷いて肯定する。
「じゃあ、一緒に行こうか」
温泉目指して二人で歩いていると、シャロが思い出したように俺に問いかけてくる。
「そういえば……サトルは旅館に着いてからずっと何してたデスか?旅館の探索してるときに度々見かけたデス。床を覗き込んでみたり空を見上げて見たり」
「まだシャロには話してなかったっけ……」
「ぬ……なんか意味ありげデス」
廊下を歩きながら依頼のことを説明していると、丁度温泉の目の前に到着する。
「曇天の星空……謎デスね」
シャロはゆっくりと夜空を見上げる。
「うん……どう解き明かしたものか……」
「解き明かす……そうデスね。サトルなら……いつかわかるかもしれませんね」
今は晴れているので、空には満天の星空が広がっている。俺たちを見下ろす星空は、ただただ綺麗だった。
でも、俺はそんな星空よりも、隣で星を見るシャロの横顔に目を惹かれた。
普段の活発な姿とは違う、どこか儚げな姿。
その宝石のように青い瞳は、星空よりももっと、もっと遠くを見つめているような気がして……
「ま、今は考えてもわかんないデス。……サトル?どうしたデスか?」
「え……あぁ、いや、何でもないよ」
「そうですか?なら、よかったデス」
何事もなかったようにはにかむシャロ。
本当に、何事もなかったかのようだ。
さっきのシャロは一体……何を考えていたのだろう。
それは結局、わかりそうにはない。
シャロと別れ、青い暖簾をくぐった先。更衣室のロッカーには着替えの服が一人分入っていて、すりガラスの向こうからは、ざぱーっとお湯を被るような音が聞こえてくる。
「ん……?誰か入ってる……隆二かな」
着替えて腰にタオルを巻いた後、首のチョーカーを外して浴場へと入る。
夜風を素肌で感じられる露天風呂の一角、立ち込める湯気の中にうっすらと見える人影。それは……
「やぁ、火鉢悟くん。少し話をしないか?」
湯船につかっていたのはこの旅館の支配人。神無月未来さんだった。
「話……ですか、というかその喋り方……」
「あぁ、今はただの神無月未来だ。別に構わないだろう?」
「それはそうですけど……」
話しながら、俺は体を流し、湯船につかる。
「ふぁぁ……」
湯が全身に染み込むような感覚に、思わず息が漏れる。
「はは、どうだい?我が旅館自慢の天然温泉は」
「極楽ですぅ……」
「全く同感だ」
そうしてしばらく極楽を堪能した後、改めて神無月さんの話を聞く。
「それで、話というのは曇天の星空のことですか?」
「あぁ。進捗はどうかと思ってね」
「……正直、まだ何も」
いくつかの仮説を立ててはみたが、どれも納得できないモノばかりだ。
まだ足りないのだろう。核心に迫るような情報が。
「君の仮説の一つは雅から聞いたよ。ホタルは私も考えたが……もしいたとしたらこの旅館はもっと有名になっていただろうねぇ」
「それはそうでしょうね……」
ホタルのいる温泉旅館。なんとも欲張りな場所だ。
「去年、ここから少し離れた田園でホタルを見たことはあるが、少しと言っても2駅程離れた場所だ。はぐれたホタルでもここまでは来ないだろう」
「ふむ……」
「今年では川をもっと上流に登った所で、去年まではいなかったホタルがいたと友人が言っていたが、そこも距離は遠い」
「そうですか」
未だ停滞している状況。それを打破するには運が絡んでしまう。
果報は寝て待つのが一番いいが、それでもただ待つのは辛いものだ。
一旦思考を止め、温泉を楽しもうと思ったが……
「サトルー!そっちはどうデスかー!?私はすっごく気持ちいいデース!」
「こ……こっちもすごく気持ちいよ~!」
塀を隔てた向こうから、シャロの声が聞こえてくる。
「ははは、元気な子じゃないか」
「は……はい」
なんだか恥ずかしくなり、言葉が沈んでいく。
それをごまかすように、俺は神無月さんにふと気になったことを質問する。
「そういえば、神無月さんはどうしてそこまでしてこの謎に拘るんですか?」
「拘る……というと?」
「各地でイベントを開いてまで、この謎を解決しようとすることに疑問を持ったんです。ただの勘違いで済ませられそうな話なのに、なぜあなたは?」
と言うと、神無月さんは口元を緩めながら返した。
「……私はね、単に謎解きが好きなんだ。君と同じさ」
「俺と……同じ」
「学校では随分有名だそうじゃないか。悟りくん」
その名前がこんな所まで広がっているとは思わなかった。誰だ最初に言いだした人。
おそらくは神無月会長に聞いたのだろう。俺が学校で行った謎解きの話をいくつか聞いた後、神無月さんは満足そうに温泉を出て行った。
俺の話を聞いている時の神無月さんは終始楽しそうで、本当に心の底から謎解きが好きなようだ。
「俺はもうあがるけど、何か飲み物いるかー?」
「ワタシはもう少し浸かっていきマス!でもフルーツ牛乳は欲しいデス!」
「おっけー。自分で買いな」
「奢ってくれるんじゃないんデスか!?」
「そんな事言ってないからな。それじゃ、お先~」
「ひどい!悪魔!デーモン!デビル!」
「それ全部同じ意味だよ……」
やっぱシャロをいじってるときが一番楽しいな。
楽しかったお礼に、後でフルーツ牛乳でも買ってあげるとしよう。
× × ×
マッサージチェアってあるじゃないですか。あれって結構気持ちいいものなんですね。俺初めて知りましたもん。100円で得られる満足感じゃないですよ。破格ですよ破格。
「むぅ……」
というわけで。温泉を堪能した俺は、かれこれ10分程マッサージチェアを堪能していた。
しかしいくら体の疲れは取れても、精神的な疲労は少しずつ溜まっていく。謎がなかなか解けない時には気分が沈むものだ。
なかなか解けない謎が一つじゃないとなると、なおさらだ。
「いつになったら……君を見つけられるんだろう」
首につけている黒いレザーのチョーカーを撫でて、今抱えている一番大きな謎を考える。
まだ影も形も掴めていないクイーンのことを考えていると、100円の効果が切れたのか、背中に当たる動きが止まってしまう。
「お隣、失礼しますね」
追加のお金を投入しようかと思った時、隣のマッサージチェアが埋まる。
その子はお風呂セット一式を持った、これから温泉に向かうであろう織姫だった。
「悟先輩はお風呂あがりですか?」
「うん。織姫はこれから?」
「はい、用だけ済ませてすぐに入ります!」
「……用って?」
「はい、これなんですけど……」
織姫は持っていたお風呂セットの中から一つの封筒を取り出した。
――ピンク色の、小さな封筒だ。
「っ!?なんで織姫がこれを……!?」
「えっと、これ……悟先輩に渡して欲しいって頼まれたんです」
「誰に頼まれたの……!?」
「え……っと……それは、絶対に言っちゃダメって言われました……」
「っ……じゃあ、いつこれは渡されたの?」
「さっき……3分程前です。廊下ですれ違う時に頼まれました」
3分前ということは、恐らくもう痕跡は残ってないだろう。
「……とりあえず、受け取るよ」
その封筒を織姫から慎重に受け取り、〝火鉢悟君へ〟と書かれているのを確認する。
そして封筒を開き、手紙を読む。
曇天の星空の謎、頑張ってください。応援しています。
一生懸命に謎を解く、かっこいいあなたが大好きです。 あなたに頼りっぱなしなエースより。
(間違いない……本物のクイーンからだ……!)
字、内容、そのどれもがクイーンのものだ。
となると……この旅館にいるということか……この手紙の差出人が……
「ふわぁ!?まさかラブレターだったなんて……!?」
織姫が心底驚いたような声を上げる。一方の俺は冷静だった。
「織姫、曇天の星空のことなんだけどさ」
「……そう書かれていますけど、それって何のことなんですか?」
「いや、やっぱり何でもないよ」
曇天の星空。これはヒントになる。その単語を知っているクイーン候補は三人だけなのだ。
シャロ、衣織、日和。その三人の中に、必ずクイーンがいる。
これで、かなり絞れたな。
だが、絞れただけだ。それではクイーンが誰かまではわからない。
いや、今はエースだったか。その前はジャック。
クイーンでも、ジャックでも、エースでもない……何者でもなくて、何者にもなれるなら、
この〝チョーカー〟の持ち主……シャロ、衣織、日和。全員が君になれるなら、さしずめ君は……
――〝ジョーカー〟かな。
× × ×
クイーン改め、ジョーカーから三通目のラブレターを貰った後、俺は部屋に戻って一人考え込んでいた。
ジョーカーがあの四人の中にいるのなら、会長の依頼などすぐに終わらせてしまうべきだ。
今ある情報でも謎は進む。そんな気がする。
頑張って……と言われたからな。
椅子に腰かけている身体が、どこまでも沈んでいくように、意識の中へと沈む。
あれだけ心地よかった虫の声ももう聞こえない。そこにあるのは、謎解きの舞台だけだ。
俺は今、思考の中にいる。
さぁ、推理を始めよう。
まずは曇りでも広がる星の可能性だ。
ドローン?飛行機?光の反射か何かの粉?
あらゆる可能性をかき集めろ。記憶の奥底を攫いだして、もっと理屈を束ねて……
否、違う。
もう一つだけ、さっき拾った謎があった。
(調べてみるか……)
俺はある仮説を胸に、部屋を出る。
廊下から見える庭園には薄く明かりが灯っており、遠くから聞こえる川の流れる音と相まって、夏の夜にしては涼しげな印象を受ける。
月明かりがよく映える晩だ。こんな日は星でも見て見ようか。なんてな。
「あら、助手じゃない」
「日和か。そんなところで何してるんだ?」
庭園にかかる橋の上から声をかけてくる日和。その手にはメモ帳らしきものが握られている。
「さっきまでは聞き込みをしてて、今は休憩中よ。そういうあなたこそ、今まで何してたの?」
「謎を解いてる。現在進行形でな」
「ふぅん。殊勝な心掛けね」
ふいっと顔を反らしながら、日和は眼前の池に目を落とす。
そこには虚ろながら、俺と日和の姿が映っている。ゆらゆらと揺れて、今にも消えてしまいそうだ。
「依頼を受けたのは俺だ。途中で投げ出すなんて真似はしないさ。それに……」
日和の目が俺を捉える。こちらを見上げるその目は大きく、丸く、そしてどこか誇らしげだ。
「俺が謎解きを途中でやめないことは、知ってるだろ?」
「えぇ、知ってるわ。いつもそうだったものね」
自信を込めて言うと、いつもの堂々としている日和の顔が、少しだけ破顔する。
いたいけな子供に将来の夢を何度も聞かされている時のような、微笑ましい表情だった。
そんな優しい笑顔に少しだけ戸惑った俺は、日和の持っているそれに話題を切り替える。
「聞き込みって言ってたけど、どうだったんだ?」
「この旅館について従業員さんに聞きまわってみたんだけど、役に立ちそうな情報は無かったわ」
日和はパラパラとメモ帳をめくりながら、憂鬱そうなため息を一つ。
日和は日和なりに頑張ってくれていたということがよくわかる。
「星がよく見えるスポットだとか、オカルトチックな噂話だとか、挙句の果てには都市開発の影響で私の実家回りに家が沢山建っただなんて、関係ないことまで聞かされる始末よ」
「……」
「それで――って、助手?」
今の話、前者二つは旅館に関係のある話だ。
だが何故だ?一番関係ないはずの、都市開発の話が妙に引っかかる。
「最後の、都市開発があった人の実家って、どの辺だ?あぁいや、知ってたらでいいんだけど」
「それは聞かされたけど……なんでそんなことが気になるのよ?」
「俺もわからない、何か引っかかるとしか……」
「えーと……確か……ここから〝二駅くらい離れたところ〟って言ってたわね。今は住宅街になってるけど、ちょっと前までは田園風景だった場所だそうよ」
俺はすぐにスマホで検索する。
キーワードは、都市開発、そして――
「やっぱり、何か閃いてたのね」
「やっぱりって、なんでそう思ったんだ?」
「口調、いつもと違うじゃない。あなたが何か閃いたときはちょっとだけ口調が強くなるもの。気づかないとでも思った?」
「口調……そっか」
まさかそんなことで気づかれてしまうとは思わなかった。
そして再びスマホに目を落とし、情報を取り入れる。
俺の予想が正しければ、重要なのはさっき得た情報と温泉で聞いた情報の関係性だ。それがこの地図のアプリで導き出せるはずだ。
(……ビンゴか。どうやら、見えて来たな)
「で?何がわかったの?教えなさいよ」
「あぁ、でもそれなら、もう一人呼ばなきゃな」
「もう一人?」
「決まってるだろ。依頼人さん――神無月会長だよ」
「っ……!」
謎解きにおいて、決めつけとは愚行そのものだ。常識にとらわれないからこそ、謎は謎たりえる。
柔軟な思考を持たなければ、謎は俺には応えてくれない。型など、最初から持ち合わせてはならないのだ。
例えそれが、一度否定された仮説であってもだ。
「呼んだかい?探偵君」
声のした方を見ると、昼間とは違う浴衣を着た神無月会長が立っていた。
「二人の逢瀬を邪魔する気はなかったが、私の名前が聞こえてね」
「逢瀬!?わ……私たちは、その、そう!ただの情報交換です!決して逢瀬なんかじゃ!」
必死にまくし立てる日和。俺が訂正するより先にしてくれたのは良いのだが、そこまで否定することもないだろうに、そこまで心外なのか。
「少しお話したいことがあるので、どこかで座って話しませんか」
「いいだろう。それなら君の部屋に行こう」
「……なんでまた」
「あそこからの眺めはお気に入りなんだ」
「そうですか」
至極普通な理由だったが……最初に来た時には景色なんか見てたか?
「なんでもいいじゃない!早く行って話を聞かせなさいよ!」
「わかったから、そんなに引っ張るなよ……」
急ぐ日和に腕を引かれ、俺の部屋へと戻る。
その時間の中で、俺は言うべき言葉をまとめ終えた。
3人分のお茶を注ぐが、これって俺の仕事なのだろうか。旅館の従業員的には会長?いやでもこの部屋の客は会長だし、いや、旅館の客は俺か。……ん?まぁいいや。
「それで、話とは何かな?」
出したお茶を一口飲んだ会長が、早速切り出してくる。
まっすぐ投げかけられた言葉に、俺の返す返事は決まっている。
「全て解けたんです。曇天の星空の謎が」
「!」
「やっぱり……説明しなさい!」
俺はこほんと仕切り直し、説明を始める。
「まず結論から言うと、星空の正体はホタルです」
「君は、ホタルは違うと結論付けたようだったが?」
「えぇ、その時は別の理由だろうと思っていましたが、新たに情報を仕入れて確信しました」
まずは、神無月さんと話した時のことだ。
「神無月さんが言っていました。二駅ほど離れた田園でホタルを見かけたと。そして今年は川の上流で去年まではいなかったホタルを見かけたとも言っていました」
「それは、私も父に聞かされたから知っているけど……」
「実は、会長が今年見た上流のホタルは、神無月さんが去年見たホタルが移り住んだものだったんです」
「移り住んだ?なんで言い切れるのよ」
「神無月さんが去年ホタルを見た田園、今はもう無いんです。そうだろ?日和」
「なんでそこで私に振るのよ」
「ほら、日和が教えてくれたことだろ。旅館の従業員さんの実家回りがどうなったのか」
「まさか……都市開発の影響?」
二駅ほど離れた田園風景を検索してみると、今は丁度都市開発真っ最中の場所だった。
「なので、そこに住めなくなったホタルが移動して、上流に移り住んだんです」
「そこまでは理解したよ。でも、ここから上流まではかなりの距離だよ?はぐれホタルでもここまでは来ないと思うけど……」
父親と同じことを言う会長に、用意していたスマホの画面を見せる。
「これは……地図?」
「去年ホタルが見られた田園があったのは、この場所です。そして今年ホタルを見たという場所はここですね?」
「あぁ、そうだけど……これが何か?」
「よく見てください。去年ホタルがいた場所と、今年ホタルがいる場所の間。直線状には何があります?」
「っ!そういうことか!」
「じゃあ助手……曇天の星空は……」
「移り住む最中のホタル……ということです」
二つの目撃場所を線で結ぶと、その間にはこの旅館があった。
「ホタルの飛ぶ速度を考えても、丁度1か月前にはこの辺りを飛んでいるでしょう」
「だから……その時しか見られなかったんだね……」
この謎の全貌はこうだ。曇りの夜、風呂あがりの客は住処を移すために移動しているホタルを目撃した。お酒に酔っていたその客は、そのホタルの群れが光る様子を星空だと見間違えてしまったのだった。
「これが、俺が解いた謎の全てです」
やっと解けた謎。その解放感は心地よく、今にも眠ってしまいそうなほどに心地いい。
「……ホタル、そうだったのか。全く、本当に見事な推理だった。ありがとう。火鉢君」
「悔しいけどわかんなかった……でも、私の上げた情報あってこそなんだからね!」
「わかってるよ……ありがとう。日和」
実際、日和がいなかったら解けなかったかもしれない謎だ。本当に感謝している。
「私は父上に伝えて来よう。探偵君が真実を解き明かした。とね」
会長は残ったお茶を飲み干し、機嫌良さそうに扉へと向かう。
「……改めて、ありがとう。火鉢君」
「はい。――〝謎〟の提供、ありがとうございました」
言い終えると、会長は微笑みながら部屋を後にした。
「これで明日はめいっぱい楽しめるな……」
「そうね、明日は何処かに遊びに行ってみようかしらね」
「いいね……あ、釣りなんかもしてみたいね。近くの川に魚いっぱいいたからね」
「私……釣りはあんまりやったことないから、あんたがリードしなさいよね、助手!」
「はいはい……ところで……」
「何よ」
「俺寝たいんだけど……日和はいつ自分の部屋に戻るんだ?」
「……さぁ、どうかしらね。推理してみれば~?」
俺は今、いつも通り話せているだろうか。
「推理って……なんでよ」
日和はあのラブレターの差出人……ジョーカーかもしれない女の子の一人だ。
この子が俺のことを好きなのかもしれない、と思うと、いつも通り話せているかわからなくなる。動揺を日和に悟られないか、心配になってくる。
もちろん、日和のことが嫌なわけじゃない。小柄な体格に、やや幼げな顔立ちはすごく可愛いと思う。少し高圧的な部分はあるものの、根はやさしい子で、話していて楽しいし、何事にも全力で取り組む心構えは尊敬しているし、好感が持てる。
日和は魅力的な女の子だ。そんな子が俺のことを好いてくれるとなると、嬉しくは思う。思うのだが……
「この推理に関しては、まだ私に及ばないわね。助手」
俺は……俺の心は……日和をどう思っているんだ?
結局、日和はすぐに帰ったが、俺はすぐには寝られなかった。
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