第4話 思い出の謎
「あ……」
「おはよう……もう体調は大丈夫?」
翌日、昇降口にて上履きに履き替えている吾妻を発見する。
元気そうで良かったが、俺を見て固まってしまっている。まだ本調子とは言えないのか?
「大丈夫よ。き……昨日はありがとう。それでこそ私の助手よ!」
目線を泳がせながら、いつものようにびしっと指を突き立てる吾妻。
「助手じゃないけどな……まぁ、吾妻が元気そうなら良かったよ」
「……」
俺の安堵とは裏腹に、どこか不満げな吾妻。自分の髪を指でくるくるといじりながら、何か言いたそうにしている。そして消え入りそうな声で言葉を漏らした。
「……って……」
「え?」
聞き取れず、聞き返してしまう。
「日和って……呼んでくれないの……?」
「……」
何を言うのかと思えば、完全に予想外のことだった。
……まぁ、思って見ればそろそろそうするべきなのかもしれない。昨日のことを踏まえてもいい機会だろう。
だって、俺たちは友達だから。
「……じゃあ、改めてよろしくな。
「――っ!……よろしく!助手!」
「俺は助手のままか……」
「助手なんだから当然でしょ!」
「だから助手じゃ……」
「口答えは無用よ!だって今日こそ私が勝つんだから!」
声高らかに宣言して、足早に教室へと向かう日和。
本当に、元気そうで何よりだ。
「そろそろ俺も教室行くか……」
俺は自分の靴箱を開け、上履きに履き替えようとする。
「ん?」
しかし俺の上履きの上には、一つの封筒が乗っていた。
〝火鉢悟君へ〟と書かれている、見覚えしかない一つの封筒だ。
「これって……」
急いで周囲を見渡す。幸い人はいないようだ。
俺はもし誰か来ても見えないように、そのピンク色の封筒を慎重に開けた。
助けてくれてありがとう。本当にかっこよかった。
そんな王子様みたいなあなたが大好きです。 誰よりも◆◆◆◆■■◆◆◆ジャックより。
(今度はジャック……か。同一人物なのは確かだろうけど……これも謎だな……)
俺は文面を記憶して、すぐに手紙をカバンへとしまう。
「待たせちゃってごめんな。すぐ見つけるって約束したのに……」
ヒントが支給された。私を見つけ出してという
一通目のラブレターを貰った日から調査紛いのことはしているが、進展らしい進展は一切ない。
そんな苦悩を見られていたのだろう。だからクイーンはこの二通目を出した。
これを受け取ったからには、もう覚悟を決めなければならない。
恋という、この世で最も不可解な謎を解き明かすという覚悟を――。
♦ ♦ ♦
桜が散って、花びらの絨毯が風でめくれるのを、私はただ見つめていた。
何を思うでもなく、ぼーっと。後悔も、不安も、全部どこかに置いて来て。
何も考えていなかった。何も予期していなかった。
その足音が近づく時まで、私は……何も――
× × ×
「テスト終了!書くのやめて後ろから集めて来てー」
俺は一つ伸びをして、自分の答案を渡す。
やっと期末テストが終わったという解放感と、訪れる夏休みという楽しみに、クラスの雰囲気は明るい。
もう梅雨も明け、青空と共に熱い日光が降り注ぐ季節になった。
そんな開放感の中、首に手を置いたときに感じるベルトのような慣れた感触。
このチョーカーをつけられてから数週間が経過したが、クイーンの正体はいまだ掴めない。
二通目の手紙をもらったのは良いが、その謎が全く解けない。
しかしわからない事だけではなかった。
あのタイミングで『助けてくれてありがとう』と言ってきたということは、あの手紙をもらった日の近くに俺が助けた誰かがクイーンだということではないか?
いや、二通目の手紙はジャックだったか。トランプの役で名乗ることに何か意味があるのだろうか。
ひとまずの仮称はクイーンとしておこう。
助けた、と言えるような人といえば、図書室で謎を解いた堀北先輩たち。不審者騒動に巻き込まれた織姫。そして看病に行った日和。
ぱっと思い出せるのはこのくらいだ。この中で可能性が一番高いとすれば織姫を除外して日和だが、あいつが俺のことを好きかと聞かれると、よくわからないというのが正直なところだ。いつもつんつんとしている日和がこんなことをするイメージが浮かばない。
先輩たちとはあの時話したのが初めてだ。堀北先輩とは委員会でやり取りはしていたが、業務的なものだけだ。それだけで好意を抱く事は無いだろう。
織姫はそもそもチョーカーをもらってから始めて会ったし……考えれば考える程わからなくなる。
そして二通目の手紙の中で一番大きな謎といえば、誰よりも◆◆◆◆■■◆◆◆という奇妙な文だ。
これに推理を当てはめるには……あまりに情報が少なすぎる。
テストがやっと終わったのだ。勉強に回していた分の頭をこちらに移すとしようじゃないか。
「サトルー!終わったデス!一緒に帰りまショウ!」
テストは午前中のみ、それを火曜日から金曜日までの4日間行う。なのでまだお昼も食べていない状況だ。
「ご飯行きマス?」
「ごめん、シャロ……俺今日は委員会の仕事で居残り……」
昨日一昨日その昨日はシャロや織姫と一緒に帰っていたが、今日は居残りがあるということを言い忘れていた。
「そうなんデスか……それなら仕方ないデスね……」
わかりやすいくらいに落ち込むシャロ。しかしすぐに友達にご飯に誘われていた。いい友達を持ったようで俺は嬉しい。
「それじゃな……シャロ」
「バイバイデース!」
友達とのご飯が楽しみなようで、元気そうな笑顔で手を振るシャロ。
そんな平和な日常を過ごしながら、指定された教室へと向かう。
俺の所属している委員会は美化委員。主に校内の清掃や花壇の手入れなどを行う委員会だ。
全員何かしらの委員会に入らなければならないというのがこの学校のルールなので、できるだけ楽なのがいいなと思ったが、美化委員は結構忙しい。
しかし慣れ初めてくると、それなりの楽しさというものを見つけ始める。
ゴミ拾いの時に校内を歩き回ったら面白そうな謎に出会えるし、中庭にある花壇の手入れをしている時なんかには、面白いうわさ話などが聞けたりする。
そんな楽しみを見つけてしまってからというもの、俺はこの委員会が気に入ってしまった。
もちろん仕事はちゃんとこなす。……たまに花壇の水やり忘れることもあるけど。
でもその時は――あの子が教えてくれるだろう。
× × ×
今日のお仕事は校内のゴミ拾い。テストのときは掃除がないから、こうやって俺たちにしわ寄せがくる。
テスト終わりの校内には、俺たち以外には部活に励む生徒しかいない。これでは噂話なんかを聞くことができないではないか。ちょっと楽しみにしてたのに……
「だから、何が言いたいわけ?」
その時、曲がり角の向こうから苛立ちを含んだ女子生徒の声が聞こえる。
何事かと思って見に行くと、そこにはおそらく先輩だと思われる体操服を着た女子生徒が、俺と同じゴミ拾い用の袋とトングを持った身長の高い女子生徒に詰め寄っているという光景があった。
「さっきから口パクパクさせて、何?」
先輩が女子生徒に詰め寄る。しかし言い寄られている方は口をパクパクとさせたまま何も言わない。
(……なるほど、そういうことか)
俺はデジャブを感じ、その現場へと歩み寄る。
「頭に葉っぱついてますよって言いたかったそうです」
「え?……あ、ほんとだ」
状況が呑み込めていない様子の先輩。
「だよな?
俺が視線を向けると、近くに来たことで改めて実感させる高身長の彼女は、こくこくと頷いて肯定する。
「すいません、この子……声あんまり大きくなくて……よく誤解されちゃうんです」
「そ……そうだったんだ……ごめんね?怒っちゃって。教えてくれてありがとね」
そう言って先輩は急ぐようにその場を後にした。
体操服を着ていたことから、部活中に休憩しに来たかサボりに来たか。そんなところだろう。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
かろうじて聞こえる彼女のか細い声は、まるでガラス細工のように脆く、それでいて綺麗な声だった。
そんなこの子の名前は
俺の身長が170くらいだから、180くらいあるんじゃないかという身長に、どうしても視線が吸い寄せられてしまう大きなふくらみ。身長のせいか、丁度俺の目線と被るので、毎回罪悪感と共に目線が止まってしまう。
そしてその顔立ちは大きな丸い目に凛々しい口元。年相応のあどけなさを残している、可憐な顔立ちだ。
そんな衣織の評価は高く、OKをした事は無いが、何度も告白をされているらしい。そしてその体格から、バレー部にスカウトされているところを何度か見かけるが、いつも断っているそうだ。その理由は、衣織はかなりの人見知りで、声も大きく出せないため、うまくやっていける気がしないらしい。
誰とも話すことのないクールな美少女というのが周りからの評価だが、本当は話したくても話せない、ただの人見知りな美少女だ。
そんな衣織と出会ったのは1年前。とあることがきっかけで仲良くなり、こうして普通(?)に話せるくらいには仲良しだ。
せっかくなので、俺たちは一緒にゴミ拾いをすることにした。
「ね、悟くん……そのチョーカーどうしたの?」
「ちょっとおしゃれ。似合ってる?」
「うん……似合ってるよ、私もつけてみようかな……」
「きっと似合うよ。衣織なら」
元の素材が良いので、多分衣織は何を身に着けてもおしゃれになると思う。
「……ありがとう」
目線を反らして返事を返す衣織。その頬は少しだけ赤みがかっていた。
もしかして……照れているのか?
気のせいかもしれないが、少しだけ戸惑ってしまう俺だった。
(衣織……か)
× × ×
ゴミ拾いはつつがなく終わり、各自解散となった。クイーン候補である堀北先輩を観察してみたりもしたが、俺に対して恋愛感情を感じるような仕草は無く、至って普通の態度だった。まぁ俺の恋愛的観察眼なので信用はあまりできない。ただ目が合ったら必ず嬉しそうに手を振ってくれたので、あの図書室の一件で仲良くなれたようで良かった。
そして時刻は12時14分。お昼ご飯には丁度いい時間だ。
天音は数学のテストの採点で忙しいので、家に帰ってもご飯を作ってくれる人はいない。となるとこれは帰りにどこかに食べに行くしかないな。
そう思い立った俺は、学生のお昼といえばなマックを目的地に設定して、靴箱にて靴を履き替える。
「あ……」
そうして玄関から出ようとした時、後ろからかすかに声が聞こえた気がしたので振り向くと、そこには俺と同じくこれから帰るところだったであろう衣織が立っていた。
その目は何か言いたそうだが、開いた口は何かを言うでもなく、ただ言葉にならない息を漏らしているだけだ。
俺は近くに行って耳を寄せる。
そうすると、やっと衣織は話し始める。
「悟くん……」
その時、ぐぅぅ……と衣織のお腹からかわいらしい音が鳴る。
言葉が途切れたので見上げると、衣織は顔を真っ赤にして唇を震わせていた。
「えっと……」
俺は多分衣織が言おうと思っていたことを聞く。
「お昼ご飯……一緒に食べに行く?」
「っ……うん」
その返答は間違っていなかったようで、衣織と俺は歩き出した。
「マック行こうって思ってたんだけど……どっか行きたいところある?」
「うぅん、私もマクドがいい」
「それならよかっ……え、マクドって略す派なの?」
マック派とマクド派。勢力的には半々だと思うのだが、俺の周りの人間は皆マック派だ。
「うん……マクド」
「いやでも……マックシェイクとか言うじゃん……」
「そんなの関係ない……から、マクドだもん」
一歩も譲らないどうでもいい激戦を繰り広げながら、俺たちは〝マック〟へと歩いて行く。
やっと顔を見せ始めた夏の暑い日差しが、滴る汗と共に俺の頬を撫でる。
セミがみんみんと鳴き始め、冷たそうな川の水へと目線が吸い寄せられる。
夏だなぁという会話を二人で交わしながら、俺はそんな季節の変化を意識の隅でとらえていた。
「ね、悟くん……明日、空いてるかな」
夏関連の会話をしていた俺達だったが、改まって衣織が話を切り出す。
今日は金曜日。休日の予定は特に無いが、何か用があるのだろうか。委員会関連か?
「空いてるけど……どうしたの?」
「昨日ね、福引でこれが当たったの」
そう言って、衣織がカバンから取り出したのは2枚のチケット。
そのチケットは最近この近くにオープンしたレジャープールの入場チケットであり、期限が明日までと書いてあった。
それを俺に差し出したということは……
「一緒に、遊びに行ってくれないかな……?」
「え……」
「ダメ……かな……?」
「全然ダメじゃない。俺は嬉しいんだけど、でも……本当に俺でいいの?」
その誘いはとても魅力的ではある。この時期に入るプールは気持ちいんだろうなぁということは、度々考えてはいた。
ただ、衣織はあまり異性に対しての免疫がない。俺と一緒に行って果たして心の底から遊ぶことができるのだろうか、気を遣わせはしないだろうかという思いが湧いてくる。
「うん。悟くんと一緒に行きたい……から」
ただ、その想いは杞憂だったようだ。
「そういうことなら……遊びに行こうか」
「うん……!」
和やかな笑みを浮かべる衣織。
これまでプライベートで衣織と遊んだことは無かったので、どうなるのだろうというどきどきが湧いてくる。
でも、きっと楽しいのだと思う。
マックで頼んだものが全く同じだったくらいには相性がいいのだから。
二人で食べられるようにポテトLを二人とも頼もうと思っていた時は、変な笑いが出てきた。
その後、くだらない会話をしながら昼食を取り、明日の待ち合わせ時間や場所なんかを決めて解散となった。
娯楽という花を咲かせ、人生という花壇を彩っていく。
これは、そんな夏休み前の、思い出作りの話だ。
「……ふふ」
お財布、よし。タオル、よし。……かわいい水着、よし。
多分明日もすると思う荷物チェックを済ませて、私はベッドに倒れる。
今は夜の10時。早く寝ないと待ち合わせに遅れちゃうから早く寝たい。
「悟くんと……二人でプール……えへへ……」
早く寝なきゃなのに、浮ついた心が眠らせてくれない。
悟くんも眠れないくらい楽しみにしてくれてたらいいなぁ……なんて、意地悪なことまで考えちゃう。
思えば……今まで学校でしか話せてなかった。勇気が足りなかったから。
でも、このままじゃダメだって思った。
やっとできたチャンスなんだから、とっても楽しい思い出にしたい。
あなたと過ごした思い出は――私にとっての救いだから。
あの時のこと……今でも鮮明に覚えてるよ。
あなたにとっては何でもない事かもだけど、私にとっては……人生が変わるような、王子様との出会いだったんだから。
私に居場所をくれた、誰よりもかっこいい――そんな
× × ×
「おおお……!」
雲一つない快晴の空の下。きゃっきゃわいわいとにぎやかな声がプールの流れによって生まれている。
レジャープール自体が久しぶりだった俺は、どうにもテンションが上がってしまう。
流れるプールでゆったりと泳ぐ人の談笑も、大きなウォータースライダーから聞こえる楽しそうな歓声も全てが新鮮で、誰もが思う夏の楽しみの一つが目の前にあることへの興奮を抑えきれない。
正直な話、楽しみすぎてかなり遅くまで起きてしまっていたので、朝天音が起こしてくれなかったら遅刻していたかもしれない。
それほど楽しみにしていたのだ。僕悪くない。だから今はめいっぱい楽もう。うん。
早く水に入りたい気持ちはあるが、それは衣織が着替え終わってからだ。
既に着替え終わった俺は更衣室から少し離れたところにあるベンチに腰を下ろし、声の絶えないプールの方を眺めていた。
そうして待つこと数分、控えめな足音が近付いてくる。
「待たせちゃってごめんね……悟くん」
「だいじょ――」
大丈夫、と言おうと思ったが、振り返った先の光景に言葉が詰まってしまった。
少しかがんで俺と目線を合わせている衣織は髪を後ろでまとめていて、その可愛い顔がより引き立っている。
白い肌と反するように、されど良く似合う黒いレースの水着が、さっき見た私服のような大人しいイメージとはまた違った、大人びた衣織を引き出している。そしてかがんでいるため、その魅力的な胸元が強調されてしまって、俺の心を揺さぶる。
歩いて行く人も、男女問わず皆一度はその姿に目が留まっていた。
そんな美少女を目の前にして何の反応もしないことなどできるはずもなく、しかしうまく言葉にできないというもどかしさもある。
「どうかな、似合ってる……かな?」
「う……うん……凄く可愛いよ」
「そ、そっか……えへへ、ありがとう……」
なんと言い表せばいいかわからず、率直な感想だけが口から零れた。
衣織はそんな俺の事情を知る由もなく、ただ嬉しそうにしていた。
さっき私服を見た時も思ったけど、衣織はかなりおしゃれな人種だ。
元の素材がずば抜けていいこともあるだろうが、さらに可愛く自分を着飾っている。
……今感じているドキドキが、今日はずっと続くのだろうか。
「それじゃ、今日は楽しもうか、衣織」
「うん……!」
目の前の楽園に向かって、俺たちは並んで進む。
肩が触れるか触れないかくらいの隙間しかない俺たちの距離感は、傍から見たらどう見えているのだろうか。
友達か、身長的に姉弟か、それとも恋人同士か。
本当はただの友達だけど、もし衣織がクイーンだったとしたら……俺たちは友達ではなくなるのだろうか。
いや、そんな妄想は無駄か。二通目の手紙の内容は助けてくれたという内容だ。
衣織との間にそんな心当たりはない。わざわざ手紙に書くほどの王子様みたいなことはした覚えがない。
それでも、もし衣織がクイーンだったらと思うと……またドキドキしてしまう。
……なんか、今日の俺変だな。
思春期男子として、魅力的な女の子である衣織と一緒に遊んでるからか?
そんな疑問は、楽しいこの時間の中に溶けていった。
「やっぱ浮き輪で流れるのが一番だな~……」
「悟くん……子供みたい……」
「何を~、そんなこと言う子はうちの子じゃありません……!」
「はわぁ……」
浮き輪に体を預けてぷかぷかと流れのままに漂流する俺と、その浮き輪に腕だけ乗せて一緒に流れる衣織。
たまに意地悪して浮き輪を揺らすいたずらなんかもしてみる、楽しい。
日差しの強さと水の冷たさでいい感じの温度になっていて、最高にリラックス。なんなら寝そう。
こうしているのも悪くないが、やっぱりプールといえばということで、衣織と共にウォータースライダーの列へと並ぶ。
ウォータースライダーの全長はかなり長めで、それに比例して列も長い。これはかなり楽しみだ。
「いっぱい並んでるね……」
「確かにな。さっき並んでた人もまた列に並んでたよ」
使用の際のルールには触れていないが、そこまでするほど楽しいのだろうか。
「あ……」
衣織も俺と同じようにそのルールを見て、ある一点を読み上げる。
「二人乗りも大丈夫……なんだね」
「そう書いてあるけど、したいの?二人乗り」
「えぇっと……その……し、してみたい……な」
途切れ途切れになりながらも、俺の目を見てそう言う衣織。
俺としても楽しそうではあるのだが……
「じゃあ……一緒に乗ろっか」
「う、うん!」
そう満面の笑みで返されたら俺は受け入れるしかない。しかし問題は肌の触れ合う面積がかなりのものになるという点だ。健全な男子高生としては、なんというか刺激が強すぎるというか、とにかく想像しただけで心臓の鼓動が速くなる。衣織はそのことに気付いているのだろうか。
「……優しく……してね?」
これは……どっちだ……!?
「えっと……うん」
曖昧な返事しかできない俺が真意を考えていると、もうプール中が見渡せるほどに高くまで列が進んでいたことに気付き、丁度俺たちの前の人が下界へと出荷されていくところだった。
そしてそれから少しだけ時間をおいて、係のお姉さんが指示を出す。
「はい、もう行っても大丈夫ですよ。あ、二人乗りですか?二人乗りですよね?それではお兄さんこちらの浮き輪に座ってください!」
会話を聞いてたんじゃないかと思う程察しの良いお姉さんに言われて、ウォータースライダーの入り口に浮き輪を設置してそれに座り、発進しないように台の枠を手でつかむ。
「お姉さんはお兄さんの間にどうぞ!」
「し……失礼します……」
そして俺の座っている足の間に、衣織が遠慮がちに腰を下ろし、俺の身体にもたれかかるようにして座る。
予想通り……いや、予想以上の密着具合に、思考がうまくまとまらない。
身体で感じる衣織の体温やすべすべとした柔らかな肌が、俺の目の前にあるつややかな髪が、俺の思考を支配する。
そんな俺の様子など知る由もなく、お姉さんが浮き輪を押して、ゆっくりと前に進む。
「それでは行ってらっしゃい!彼女さんのこと落とさないでくださいね!」
最後の最後で的外れなことを言うお姉さんの声と共に、一気に浮き輪が押し出された。
「速……!」
かなりの速度で滑る俺達。うまく聞こえないが、衣織も小さく声を上げている。
そしてカーブが入り、遠心力で身体が大きく揺れる。
植えられた南国風の木の葉がすぐ横にある。まだまだ高度はありそうだ。
「落ちるなよ、衣織……!」
「うん……!」
永遠とも思える時間をかけて滑り切った俺たちは、互いに顔を合わせる。
「楽しかった!もう一回滑りたい……!」
「俺も……!」
謎解き以外でこんなにも心躍るのは久しぶりだ。友達と遊ぶってのは、やっぱりいいものだな。
その時、ひゅうっと大きな風が吹いて、植えられている木の葉がからからと音を立てて揺れる。その風で靡いた衣織の髪に滴る雫が、やけにきらきらと輝いて見えた。楽しそうな衣織の想いが、そこに表れたかのように。
「でもその前に……水分補給しよう。この日差しは凶悪だ……」
「あ……うん、そうだね……」
二人で売店に行って、二人ともオレンジジュースを買う。
それを日陰の椅子に腰かけてちゅうちゅうと飲む。冷たいものを一気に飲むとお腹がびっくりするけどそんなの知らないね。ごくごく飲んじゃうね。
「ぷはぁ、うまうま……」
「うん……でも、おごってもらってよかったの……?」
「チケット貰ったんだし、飲んだり食べたりする分くらいおごらせてよ」
「そういうものかな……?」
「そういうものだよ」
「……そっか……ありがとね。お言葉に甘えます」
微笑みながら、再びストローに口をつける衣織。
……これって傍から見たら完全にデートじゃないか?
そう思うと、なんだか恥ずかしくなって、思わず目線を反らしてしまう。
「……ん?」
その目線を反らした先には、たまに頭に手を置きながらふらふらと歩く大学生くらいの男の人と、その隣で浮き輪を持っている、同じく大学生くらいの女の人がその男の人を心配そうに見ながら歩いていた。
男の人は「大丈夫」だと言っているが、その足元は危なっかしい。
……あぁ、なるほど。そういうことか。
「どうしたのかな……」
俺の視線の先を見た衣織は、心配そうに疑問を漏らす。
「あの男の人が頭打ったんだよ。あのウォータースライダーでね」
「え……なんでそんなことわかるの……?」
「さっきあの人たち、列に並んでたんだ。時間的にも丁度あの人たちの番だったと思う」
いかにも青春な感じで良い雰囲気だなぁと思った記憶が残っている。
「それは私も見てたよ?恋人同士なのかなって……でも、なんでウォータースライダーなの?」
「頭を打った原因は、あのウォータースライダーの近くに生えてる木の葉っぱだ」
「……葉っぱ?」
「うん。ほら、あそこの木、ウォータースライダーの真横に植えられてるよな。滑ってるときに気づいたんだ。それで、さっきの風で葉っぱが揺れて丁度滑ってるあの人たちの前に出て来たんだ。それでびっくりしたあの男の人は勢いよく避けてしまった」
「それで……頭打ったんだ……」
「そういうこと」
改めてあの人達を見ると、男の人は諦めたようにウォータースライダーの方を指さしていた。
女の人の方は少し怒っているようだった、よほど心配していたのだろう。
あの二人は良いカップルだな。
「でも……なんで男の人はすぐに言わなかったのかな……?」
その光景を見て俺の推理に納得した衣織が、俺の方を向き直って聞いてくる。
「わかんない」
「わかんないんだ……」
例え俺でもわからないものはわからない。解の無い謎か、解が多すぎる謎は俺の専門外だ。
「でも、多分……見栄を張りたかったんじゃないか?」
「見栄……そういうものかな?」
「そういうものだよ。好きな人には自分を強く見せたいんだよ。男ってやつは」
みんながみんなそうとは限らないが、あの人はそうなんだと思う。だって、どう見てもベタ惚れなんだから。
「……悟くんも、そうなの?」
「俺?」
「うん。その……す、好きな人に……見栄を張りたくなっちゃう?」
「今は好きな人いないからわかんないけど……でも多分、そうしちゃうだろうな」
俺は誰かに自分の弱い所を見られるのが苦手だ。なんでって聞かれたら困るけど、人間は誰しもそれに近い考えを持っている。好きな子相手となればなおさらだ。
「そう……なんだ……」
どこか嬉しそうに笑みを浮かべ、再びオレンジジュースを飲む衣織。
……なぜそんなに嬉しそうなんだ?
「ごめん、ちょっとトイレ……」
「ここで待ってるね……」
人の考えていることはわからない。友達でも、家族でも、それは同じだ。
それを読み取るのは謎解きのようにはうまくいかない。
俺の専門外の、解が多すぎる謎だ。
「好きな人……いないんだ……」
誰にも聞こえない声でそうつぶやく私。
まだ……チャンスがあるってことだよね。
「でも、逆のパターンはありそうだよね……」
上がっていた口角が、次第に下がってきちゃう。考えるのはもちろん、この場にいない彼のこと。
こうして目の前に悟くんがいないと、今この瞬間は夢なんじゃないかなって思えてくる。臆病な私が、やっと踏み出した一歩だから。必死に勇気を出して交わした約束だから――やっと手に入れたリードだから。
× × ×
神薙高校に入学して間もない時、私は誰とも話せなかった。
いじめられてたってわけじゃない。話しかけてくれる人もいた。
生まれた時からずっと人見知りな私は……ただ怖かった。
人と話すのが、人との関係を作るのが。
だから、私はずっと一人だった。
残念なことに、私の身長はクラスで一番高かった。
だからクラスにいてもずっと視線を浴び続けた。
そんなある日の委員会決め。私は人と話すことが少なそうな図書委員に立候補した。
でも、クラスでも人気な女の子が同じく図書委員に立候補してしまった。
その女の子が『譲ってくれない?』と頼んできた。本当は図書委員がよかったけど、私は美化委員に入ることになった。そんな時だった。
クラスの男の人たちが、次々と美化委員に立候補し始めた。
委員会はそれぞれ男子一人、女子一人という人数になっていて、女子は私に決まった。
さっきまでは図書委員が人気だったのに、どうしていきなりって思ったけど、その男の人達の目が私に集中しているのに気づいて、わかってしまった。私がいるからだって。
私は自分に自信がない。不愛想で、可愛げのない女だって思ってた。でも、スタイルにはちょっとだけ自信があった。前読んだ雑誌に書いてあった理想のスタイルの数値まんまだったから。
さらにその視線が私の顔じゃなくて少し下に集まっているのに気づいて、私は怖くなった。
被害妄想かもしれないけど、何かされるんじゃないかって、不安だった。
結局、同じ委員会に入った男の子とは話すことなく、放課後の委員会の時間がやって来た。
その時の私は不安で頭がいっぱいで、どの教室で委員会が行われるのかを聞き逃しちゃった。
その男の子に聞くのも怖くて尻込みしてると、ついて行く間もなくその男の子は何処かへ行っちゃった。結局私はどこにも行けなくて、自分の席から外を眺めていた。
クラスにいても、男の人からの視線が怖い。委員会に行ったとしても、今日の委員会に来なかった不真面目な奴だって思われるのが怖い。
そんな不安に押しつぶされそうになりながら、私はただぼーっと外を見ていた。
時間を見ると、すでに委員会の集合時刻。
……最低だ、私。
もう、どこにも居場所は無いんだ。
『美化委員会、第二講義室でやってるよ』
「ぇ……?」
誰もいなくなった教室に、ただ一人だけ、彼は立っていた。
同じ美化委員に入った男子生徒、確か名前が……
『ほら、早く行こう』
何でここに?何で何も言わないの?
そんな疑問が浮かんでたけど、その時も、教室まで行くときも、私は一言も言葉を発せなかった。
火鉢君について行って、第二講義室に到着する。そしてスライド式のドアを開けると、思ったより大きな音でドアが開き、既に座っている生徒たちの視線が突き刺さる。
『何かあったのかな?』
先生がそう聞いてくる。他の皆も気になっている様子だった。
とっくに集合時刻は過ぎている。言い訳なんてできない。
『俺が保健室で休んでるこの子に……委員会の教室を伝え忘れてたんです。遅くなってすいませんでした』
私が答えるより先に、火鉢君がそう言って先生に向かって頭を下げた。
『そうか、今度から気を付けるように』
慌てた私はすぐに訂正しようとしたけど、火鉢君の目がそれを拒んでいた。
まっすぐな、迷いのない瞳。
でも、目が合うことに、不思議と抵抗は無かった。
その後、委員会のこれからの方針を決めて、すぐに解散になった。
とことこ帰ろうとする火鉢君の背中を焦りながら追いかけて、中庭の辺りで声をかけようとした。
まずお礼、それに、何で助けてくれたかを聞かなきゃって思って追いかけて来たけど、やっぱりうまく言葉が出なかった。でもそんな時、火鉢君は振り返って……
『君が第二講義室に来ないから、委員会の場所わかんないのかなって思って、教えに行ったんだ。君はサボるようなことはしない真面目な生徒だって知ってるから』
話しかけられて、私は一瞬びっくりしたけど、それよりも質問の内容を口に出してもないのに答えられたことにさらにびっくりした。まるで、全て悟られているようで。
『君が委員会の時そわそわしてたし、こうして俺の所まで来たから、そう聞きたいのかなって思ったんだ。違った?』
また思ったことを当てられたけど、私はすぐに頷いて、言い当てられたことを肯定する。
本当に不思議な人だって思った。でも、なぜか安心できた。
「……ごめん……なさい」
すっと言葉が漏れた。一度そうなると、まるで流れ始めた水のように、次々と言葉が口から漏れていく。
「私のせいで……遅刻しちゃって……悪者になっちゃって……助けてくれたのに、私、言葉が出なくて……ありがとうって言えなくて……ごめんなさい……」
感謝の言葉が出なかった。出せなかった。今だって、目の前で黙って聞いている火鉢君の顔が見れなかった。
『真駒さん』
でも、火鉢君の優しい声で、私は彼の顔に目を向けた。
『助けたなんて、そんな大げさなことじゃないよ。ただ教室に連れて行っただけ……これくらい、同じ委員会の仲間なら当然だよ』
「仲間……」
『そう、仲間。……もし俺と一緒に居るのが嫌だったら、俺はもう委員会には行かない』
「え……?」
『真駒さん、委員会決めの時、男子から変な視線向けられて居心地悪そうにしてたよね。だから約束するよ。もし真駒さんが嫌なら、俺は――』
「嫌じゃ……ない……です」
火鉢君はちょっとだけびっくりしたような顔をしている。
「だから……委員会……行きましょう?」
『……あはは、良かった。これで先生に怒られなくて済むよ。ありがとう』
「……っ……ありがとう……なのは、私です。ありがとうございました。火鉢君」
「――どういたしまして」
目が合った。嬉しそうに微笑む火鉢君と。
初めて学校の人と目を合わせながら話した。ずっと怖くてできなかったけど、こうして目を見て話してみると、何も怖くなかった。
多分、この人だからなんだろうな。
「あの……少し……お話できませんか……?」
震える声でそう言う私。恥ずかしさを押し殺して、必死に火鉢君と目を合わせる。
「いいよ。そこのベンチでいいかな?」
「はい……」
二人でベンチに腰掛ける。私は声がぎりぎり届く距離で話し始めた。
「私……ずっとクラスに馴染めなくて……みんなとどう接すればいいか、とか、どう思われるのかな……って考えたら……何も言えなくて……」
火鉢君は「うん」とだけ相槌を打つ。続きを促しているようで、さらに話す。
「でも……さっき火鉢君に助けられて、このままじゃダメなんだって思ったんです……迷惑……かけちゃいましたから……で……ですから……」
私は改めて火鉢君の方を向き直って、精いっぱい声を出す。
「私の……話し相手になってくれませんか……!」
「……」
火鉢君は私を見て固まる。見開いた目からは何も感情が読み取れない。
でも、すぐにふっ、と笑った。
「え……?」
「ごめん、馬鹿にしたわけじゃないんだ。君が望むなら、俺は喜んで話し相手になるよ」
「っ……!ありがとうございます!」
「でも」
「でも?」
「もっと単純に――友達になって……で、いいんじゃないかな」
「友……達」
「うん、友達。一緒に話して、遊んだりして、困った時は支え合う。いたって普通の友達。……話し相手か、友達か。君は俺と、どっちになりたい?」
色々なことがぐるぐると頭の中を回る。夢の中にいるような、頭だけじゃなくて、目や耳までもが考え事をしているような感覚。
でも、答えはすぐに出た。
「友……達に……友達になりたいです……!」
「そっか……うん、これからよろしくね。真駒さん」
初めてできた友達は、ちょっと変わった人だった。
考えが読めなくて、行動に迷いのない、とっても優しい男の人。
話していてどこか安心できる、ちょっと不思議なお友達。
「友達……えへへ……」
「嬉しそうだね、真駒さん」
「っ……あわわ……」
つい浮かれちゃった私をおかしそうに微笑みながら見る火鉢君。
思わず目線を外しちゃうけど、顔は熱いまま。
「俺も友達が増えて嬉しいよ」
そう言ってくれる火鉢君。話してみてわかったけど、この人はかなり変わってる。
なんていうか、言動がまるで絵本に出てくる王子様みたいで……ちょっとドキドキする。
そんな彼だから、思っていることを素直に話せる。
「……私、友達ができたの初めてなんです……だから、友達っていうのに慣れてなくて……でも、すっごく嬉しいんです……あの、友達らしいこと、してみたいです……!」
「友達らしいこと……かぁ」
「どんなことがあるんですか……?」
「うーん、遊びに行ったり――っていうような答えを求めては無さそうだ。そうだね……敬語じゃなくて、ため口で話したり、あだ名とかで呼び合ってみたり……かな?」
「なるほど……確かにそうで――そう、だね」
「まだまだぎこちないね、不器用っぽい」
「むぅ~……」
「はは、悪かったよ、ちょっとからかって見たくなっただけだ」
友達らしい会話の中で、火鉢君の口調が変わる。
同じクラスなのに話し方すら知らない私だったけど、こっちの火鉢君が自然体なんだってことがわかる。
「……じゃあ、あ……あだ名……つけたい……!」
「いいよ。この火鉢悟にぴったりのあだ名を考えておくれ!」
楽しいなぁ。こうやって笑い合って、話すだけでもすっごく楽しい。
友達って……こんなにいいものなんだ。
でも、もしかしたら――
「悟くん……」
だからなのかな?
「あ……あだ名、なの?それは」
「……思い浮かばなかった」
「そっか……」
本当は思ってたことが口に出ちゃっただけなんだけど、言わない。――言えない。
「まぁ――名前で呼ぶのも友達らしいよな。衣織」
「――っ……!」
ただ名前を呼ばれただけなのに、なぜかすっごくドキドキする。人に話しかけるときのドキドキとはまた違った、嬉しさや、恥ずかしさが混ざったような、よくわからないドキドキ。
「ごめん、嫌だったか?」
「うぅん……!いきなりでびっくりしただけだよ……!むしろ嬉しいっていうか……その……」
嫌ってわけじゃないのは本当だけど、すっごく恥ずかしいのも確か。
でも、今の私なら大丈夫かな。
「だから改めて……よろしくね、悟くん!」
「っ――あぁ、こちらこそよろしくな。衣織」
これが、私とたった一人の友達との出会い。
その友達はクラスでも、委員会でも、何度も私を助けてくれた。
2年生になってからは別のクラスになっちゃったけど、その友達がいてくれたから、私は人と話すのが怖くなくなった。
あなたと過ごした思い出は、あなたがくれた居場所は、いつも私を助けてくれる。
不思議な王子様。ずっとずっと、あなたをお慕いしています。
あなたに救われた――人見知りなお姫様より。
× × ×
素敵な思い出を懐かしんで、肌に張り付く髪を払いながら、冷たいままでいてくれるジュースを飲む。
この
でもそれはだめ。少しでも自分の足で前に進むんだって決めたから。
でも……どうすればいいんだろう……!
「ねぇねぇお姉さん、ちょーっといいかな?」
「え……?」
すぐ近くで聞きなれない男の人の声がして振り返ると、怖そうな男の人たちがにやにやしながら私を見下ろしていた。
「お姉さんかわいいねぇ~、今暇っぽいしさ、俺らと遊ぼうよ」
「え……えっと……」
そんなのはもちろん嫌。知らない人について行ったら危ないってことは子供のころからわかってる。
それなのに、うまく言葉が出ない。
……やっぱり、何にも変わってない……私。
「ん?……まぁいいや、ほら早く行こうぜ~」
「や……やめっ――」
一人が私の腕を強引に掴もうとする。
その手が近づいてくると同時に、私の恐怖は増して目をそらしてしまう。
無意識に、助けてと願って――
「ねぇ、お兄さんたち」
「あ……?」
再び目を向けると、男の人の腕を横から掴む腕があった。
「その子さ……俺の連れなんだけど、何しようとしてたの?」
悟くんは掴んでいた手を離して、一歩も怯まずに集団の男の人たちの前に立つ。
男の人たちと私との間に身体で壁を作って、手で私をかばうようにしてくれている。
こんな状況だけど――いや、こんな状況だからこそ、悟くんの後ろ姿が……本物の王子様みたいに思えた。
水を差された男の人たちは不快感を露わにして、威圧するように悟くんを睨みつける。
「悪いけど、ナンパするならこの子以外にしてくれない?」
そんな視線を一身に受ける悟くんの声に恐怖なんか微塵も無くて、強い口調で言い返す。
私はさっきから腰が抜けて立ち上がれない。さっきジュースを飲んだはずなのに喉がカラカラになって何も言えない。
「こいつ……!」
悟くんの態度にしびれをきらしたのか、一人の大きな男の人がずいっと前に出てくる。
さっき一番私の身体を見てきた人だった。
「舐めやがって……」
「……」
悟くんはまっすぐその男の人を見据えている。何を言われても平然としている様子に、男の人の顔が引きつって来る。
「っ……!下手に出てりゃあ……!」
その男の人が拳を振り上げて、一歩前に出る。
(この人、本気で悟くんを殴る気だ!)
私は何とか身体を動かして、そのまま動かない悟くんに向かって手を伸ばす。
でも、その背中には届かなかった。
そしてその拳も、悟君には届かなかった。
「子供に手ぇ上げちゃダメでしょ……大人として」
「な……!?」
突然悟くんの前に滑り込んできた男の人が、その拳をするりと受け流していた。
「ふんっ!」
「がはっ!?」
そしてそのまま男の人の腕を掴んで素早く組み伏せ、動けないようにする。
その人の仲間は、予想外の出来事に動けないでいる。
「綾!しっかり撮ってた!?」
「ばっちりよ優くん!証拠として十分成立すると思うわ!」
「離せ!てめえ!」
「続きは署で聞くからね~」
「まさか……警察……!?」
「まぁ……大体そんなものかな。怪我はないかい?助手君?」
「はい。おかげさまで」
私が混乱しっぱなしでいると、すぐにプールの監視員さんが駆け寄ってきて、男の人たちは連れていかれた。
「あなたも、怪我してない?」
カメラを持っていた女の人が、私に向かってそう尋ねる。
「え……は、はい。その……ありがとうございました……!」
「僕たちはただ仲介しただけ。本当に助けてくれた人はそこの彼じゃない?」
「あ……ありがとう……!悟くん……!」
「衣織が無事ならそれでいいよ。何か変なことされなかった?」
「うぅん、大丈夫だよ?……それより、この人たちは?」
私はずっと気になっていたことを尋ねる。どうも悟くんとは知り合いっぽいし……
「僕は吾妻優。妻の綾と一緒に探偵をやってるんだ」
「吾妻綾です。悟くんには色々助けてもらって、今では仲良しよ~。今日たまたま遊びに来てたら悟くん喧嘩してるんだもの、びっくりしちゃった」
「そ……そうなんですか……」
探偵さん……実際に見たのは初めてだ……
「……助けてもらってありがとうございました。優さん達がいなかったら俺は今頃どうなっていたことか」
「本当だよ~僕たちがいなかったらどうするつもりだったの?」
確かに、今日はたまたま遊びに来てたって言ってたし、二人に助けを求める時間なんて無かったはず。
「遠くの方に探偵のお二人が見えたんで、何か騒ぎがあったら助けてくれるんだろうな……って思いましたから、安心してナンパを止めることができましたよ」
「……もし僕たちが気づかなかったら?」
「その時は監視員さんに助けを求めるなりなんなり……ここは人目に付きやすいですしね」
なんでウォータースライダーからすぐ近くの休憩スペースに行かないのかと思ってたけど、そんなこと考えてたんだ……
「全く、そういう問題かな……」
「はい、なのでこの話はもうここまでにしましょう。せっかく遊びに来たんです。わだかまりを残したくはありません」
悟くんは殴られそうになっても一歩も動かなかった。私をかばう体制のまま、真っすぐ男の人を見据えていた。
あの時の悟くんからは……恐れを微塵も感じなかった。
「お礼はまた家に来て遊ぶこと。でいいかな?」
「いいですけど、それじゃあ俺がずっと得してますね」
「うふふ……それじゃあ優くん、私達はこの辺で退散しましょ」
「日和には悪いけど……後は若い二人にだな」
「あの胆力……ますます欲しくなっちゃった……」
「探偵としての才能しかないぞあの子は……」
「「?」」
何やらぶつぶつ言った後、二人はひらひらと手を振ってその場を後にした。
「あの……悟くん……ごめんね」
私は二人が去った後、改めて悟くんにお礼を言う。
「私のせいで……悟くんが危ない目に遭っちゃって……だから……本当にごめ――」
「えい」
「にゃ!?」
突然悟くんが軽いデコピンをしてきて、痛くは無かったけどびっくりして変な声が出ちゃう。
「――ははっ、可愛い声」
「かわっ……!?もう……何するの……」
「さっきも言ったろ?せっかく遊びに来たんだから、俺は楽しいままでいたい。衣織にも楽しいままでいてもらいたい。だから……これでもう終わりってことで」
「悟くん……」
「俺はまだまだ遊び足りないんだ。ほら、行こう」
椅子から立ち上がって、手を差し伸べてくれる悟くん。
その手はさっきの人たちとは比べ物にならないほどに優しくて、なんだか安心できる。
「うん……!」
私は迷わずその手を取って、二人で一緒に歩き出す。
今日は……とっても素敵な日。
きっとこの先……決して忘れることのない、そんな思い出作りのお話。
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