第9話 アダギウム

「明日は筋肉痛ですかね」


 館の中の強烈な重圧には、流石のララも顔を顰めた。気を抜いたら膝を折って四つん這いになってしまいそうだ。同時にベルナルドを置いてきたことは正解だった。


 事前に奇書の在処は把握していたので、ララは壁に手を当てながら、館の西側の奥に位置するリカルドの書斎へと向かった。書斎にはたくさんの本棚が並んでいるが、肝心の中身は一冊もない。生前のリカルドが全て燃やしてしまったのだろう。そんな書斎の中に存在する唯一の書物。木製の机の上には、革表紙の本が置かれていた。


「魔導士リカルド。あなたの書に残された物語を閲覧させて頂きますね」


 大きく深呼吸をすると、ララは覚悟を決めてリカルドの奇書を開いた。次の瞬間、収録されていた膨大な情報が紙面から溢れ出し、黒い文字の洪水となって書斎全体を満たしていく。文字の水位が上がり、徐々にララの体は無数の文字に沈んでいくが、その表情には怯えはなく、奇書をしっかりと見据えている。


 恐れることはない。これは奇書と対峙する上で避けては通れぬプロセスの一つだ。奇書は触れた者を、著者の意識が反映された精神世界「アダギウム(警句迷宮)」へと引き込む性質を持つ。魔導司書はこれを奇書とのパスであると考えており、アダギウムを介して奇書への理解を深め、蒐集を目指すのだ。アダギウムがもたらす情報量は膨大で、並の人間ならば発狂ものだが、魔導司書であり本の申し子でもあるララはこんな時でも好奇心に目を輝かせていた。


 ついにララの全身が黒い文字の中に完全に沈み、奇書とララの精神が完全に同調する。ララの意識は深淵よりもさらに深い、アダギウムの中へと潜っていった。


 ※※※


「ここがアダギウムの中。まるで時間旅行ですね」


 今回のアダギウムを構成する要素はリカルド・ジンガレッティの人生そのものであり、ララは本来ならばその場に存在しない、誰にも知覚されない幽霊のような状態で、彼の人生を傍観していた。今よりも新しい領主の館の執務室で、二人の人物が向かい合っている。ここは先々代領主であるピエトロ・ファルコニエーリの時代の光景であった。


「ピエトロ様。どうか私も前線に加えてはいただけませんか?」


 赤毛の短髪が印象的な青年魔導士リカルド・ジンガレッティが、主君のピエトロに対して嘆願する。自らの危険も顧みず、その瞳は情熱的で迷いがない。


「戦いは騎士の役目であり、研究職である君が危険を冒す必要はないのだぞ?」


「私の魔導は多くの人命を守るために研究してきたもの。今やらなければ私はきっと、生涯この後悔を引き摺る事でしょう」


 臣民を守るは騎士の務め。自身もまた騎士道を重んじるピエトロは当初から、騎士以外の人員を前線に投入するつもりはなかったのだが、激戦地と化したファルコニエーリ領では日々戦渦によって多くの人命が失われているも事実だ。手段を選んでいる場合ではないことはピエトロも痛感している。


「意志は固いか……ならば主君として命じよう。魔導士リカルド・ジンガレッティ。君の力で一人でも多くの人命を救ってもらいたい」


「はい。この命に代えましても」


 命令という形で活躍の機会を与えてくれたピエトロの采配に感謝し、リカルドは深々と頭を下げた。


「眩暈がするので、場面転換にも合図がほしいものですね」


 世界が一瞬で切り替わり、ララはクアドラード内戦の激戦地であった、ファルコニエーリ領境界の戦場に立つリカルドの背中を見つめていた。


 敵勢力が一斉に放った矢や投石が、ファルコニエーリ騎士団へと降り掛かろうとした時、味方の騎士たちを背中に庇ったリカルドが一つの魔導を発動した。


「まとめて大地にひれ伏せ!」


 リカルドが右手を掲げて叫ぶと同時に戦場の空気が一瞬振動したかと思うと、途端に全ての矢や投石は推進力を失い、大地に引き寄せられるかのように、例外なくその場で勢いよく落下していく。回避不能な物量を放たれたにも関わらず、騎士団へは一矢たりとも届かず、この攻撃による被害は皆無であった。あまりにも現実離れした光景を前に、両陣営ともに言葉を失い、戦場に不釣り合いな静寂がその場に留まった。


「矢や投石は全て私が落とす! 反撃開始だ!」


 静寂を打ち破ったのもまた、リカルドの鼓舞であった。逆境にあったファルコニエーリ騎士団は好機の訪れに志気が回復し、勇猛果敢に攻勢を開始。敵勢力は動揺と再装填までの隙に射撃部隊へと斬り込まれ、大打撃を負った。それでもなお射撃による攻撃は続いたが、ことごとくリカルドの魔導を前に墜落していく。遠距離攻撃に対して圧倒的なアドバンテージを得たことで、接近戦を得意とするファルコニエーリ騎士団は優勢に立った。一人の魔導士が戦場に持ち込んだ魔導が、戦局を劇的に変えたのである。


 この戦いを機にファルコニエーリ騎士団は完全に勢いづき、激戦地だったファルコニエーリ領での勝利を掴み取った。この重要局面での勝利をきっかけに、長期化していたクアドラード内戦は終結へと向かっていく。


「飛び道具が突然地面に吸い寄せられるかのように落下していく現象。やはりリカルド氏の魔導は重圧を操るようですね。しかし、どうして彼は研究成果の破棄を?」


 リカルドの魔術をこの目で目撃したララは自身の考えに確信を強めた。重圧を操る魔導は確かに希少であり、戦局を大きく左右する強力な魔導だが、リカルドの時代でもすでに魔導の分類の一つとして存在していた。少なくとも禁忌とされる程の影響力は持たない。


 リカルドの魔導には彼の素養や独自の技術体系によって、従来とは異なる性質が備わっている可能性は否定出来ないが、少なくとも彼自身が魔導の平和的理由を考えていた以上、どうして自らの命共々全ての研究を破棄する必要があったのか、その理由が今はまだ分からない。


「領民たちの協力もあって、ファルコニエーリ領は目覚ましい復興を遂げている。民あってこその君主であると、改めて思い知らされるよ」


 時は進み。ピエトロとリカルドは高台から、戦渦からの復興を遂げつつある領主町を見下ろしていた。二人しかいなかったはずの場所に、本来この時代に存在していない一人の魔導司書も居合わせている。


「戦乱の世は終わりを迎えた。戦場に居場所を見出してきた我らファルコニエーリ領も変革の時なのかもしれぬな」


 強い騎士団を有するファルコニエーリ領は今後、時代に取り残されていく。領の繁栄のためには新たな形での領の運営が必要となってくると、ピエトロは確信していた。


「同意見です。私の魔導は本来、戦場での犠牲者を一人でも多く減らすために研究してきたものですが、この技術は使い方によっては災害などから人命を守るためにも活用できるのではないかと考えております。この魔導を広く普及する技術として確立することが出来れば、今後の領の運営にも貢献できるのではと考えております」


「それは素晴らしいことだ。領主としてはもちろん私個人としても、君がようやく本分であった魔導研究に専念できることを嬉しく思う」


「勿体なきお言葉です」


「私に出来ることがあれば遠慮なく申してみよ」


「それでしたら一つお願いしたいことが。周囲に人家のない土地で研究に打ち込みたいと考えているのですが」


「構わぬが、これまでの研究所では不満か?」


「滅相もございません。ただ、私の魔導はかなりの広範囲に作用します故に、全力で研究に取り組むべく環境には留意したいのです」


「そういうことであれば検討しよう」


 そうしてリカルドに用意されたのが、現在ララが奇書と対峙している館であった。リカルドはここで数年間、魔導を平和のために利用する技術体系の研究を進めていくことになるが、僅か数年後には彼の、そしてファルコニエーリ領の運命は大きく変わってしまう。

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