火喰のアルカイヤ

根占 桐守(鹿山)

第1話 自称錬金術師

 近くをせせらぐ川からは、鼻腔よりふんわり頭の芯にまで溶けるような、雪解け水のほろ甘い匂いがする。それに混じって、魔女たちが朝には必ず飲む、花の紅茶の爽やかな香りも漂ってきた。

 春の朝のひんやりとした冷気と、嗅覚を擽る最高の春の匂いに包まれて。この心地よさに流されるがまま、寝台の中で二度寝を決め込もうとしていたガヴィは階下から聞こえてきた、ここ数日の間自分を養ってくれている魔女の言葉によって無理やり叩き起こされた。


「ガヴィ! 起きてる? ボアンさまがいらっしゃってるんだけど。借金がどうたらとか、とにかくどうしてもガヴィに会いたいって……あら?」


 トントントン、と階段を軽やかに上がってきたのは、魔女のメーラ。肩のあたりで切り揃えた赤茶色の滑らかな髪に、魔女の証である立派なが側頭部から生えた、美しき魔女。  

 メーラは寝台で眠りこけていたはずの男が既にいなくなっていることに気が付いて、首を傾げる。しかし、すぐそばの窓が開け放たれ、春の肌寒い風が吹き込んでいるのを感じると、ガヴィの行方に見当がついて、思わず苦笑を零した。


「あらあら。やっぱり逃げちゃったみたいね。お金も持たず大丈夫かしら、あの人」


 ◇ ◇ ◇


 ここは、花山羊はなやぎの民〝魔女〟たちが住まう街——魔女街まじょがいペイタル。羊や山羊の角を持ち、男児は数百年に一度しか生まれない、女性ばかりの種族である彼女たちは魔女と呼ばれている。

 さすらいの自称錬金術師ガヴィにとっては、この魔女街はまさに居心地の良い場所であった。なぜなら、そこにいるだけでやさしく美しい魔女たちは自分を気にかけてくれるうえに、何なら寝床と食事も提供してくれる。

 無精髭は薄く生え、茶褐色や淡い亜麻色が入り混じった髪も乱雑に緩く結われているだけで、服装もまるで整っていない。そんな身なりすらまともに成っていないガヴィであるが、高い鼻梁はすっと通っており、愛嬌がきらめく碧眼は宝石の如く黄色味がかっていて覗き込めば吸い込まれてしまいそうなほどに美しい。つまりは、その彫りの深い顔立ちだけは無駄に整っているようだった。

 しかし現在は、人通りの少ない早朝。いつものガヴィの活動時間帯である昼過ぎであれば、必ず幾人もの魔女たちに声を掛けられるものの、今はどこを見渡しても露店の準備をしている魔女が数えるほどしかいなかった。街で他に泊めてくれる魔女を探すつもりであったが、当てが外れ、宿にでも隠れるかとガヴィは己の懐をまさぐる。


(あー……そうだ。昨日の晩、酒場での賭け事に負けて……素寒貧)


 仕方がない、他に金になりそうなものはないかとガヴィは更に己の懐を探ったところで、見慣れぬ小ぶりな古鏡が懐の奥から転げ出てきた。その古鏡は先日、さっきまで己を養ってくれていた魔女メーラから「ちょっとは身なりに気を付けたら? 色男さん。はい、これ。大切に使って?」という可愛らしい笑顔と共に受け取った贈り物であったと、間をおいてガヴィは思い出す。

 指に摘んだ小さな古鏡を朝日に透かして見ながら。ガヴィは朝日によって碧が金色に煌めく眼を細め、女を殺す笑みをほろりと零す。


「ああ。大切に使わせていただきます」


 質屋の露店を出している恰幅の良い魔女の店主は、ガヴィの古鏡を手に取ってじっと品定めをしながらニヤリと口角をつり上げると、古鏡越しにガヴィを試すように見やる。


「アンタにしちゃ良い物を持ってきたねぇ? ガヴィ」

「だろう? 是非ともいい値で買い取ってくれよ、お嬢さん」

「ったく、相変わらず調子のいい男だよ、アンタは。それじゃあ、銅貨五枚でどうだい?」

「ん……そうだな」


 思っていたよりも安い値だが、宿代には十分足りるかと思い至って、ガヴィは女店主の申し出を了承しようと口を開く。しかし、そこから声が音になる前に。背後から真っ直ぐ刺されるように響いた、低めの透き通る声によってガヴィは遮られた。


「それ。東方カトプトロン派生第五型式の古鏡。金で価値を評するなら最低銀貨五枚はするはずだけど」


 ふと、ガヴィは自分の声を遮った声の持ち主を振り返る。ガヴィのすぐ背後には、十代前半くらいだろうか。それくらいの年頃の、ガヴィより頭二つ分ほども小柄な少年——とも見紛うが無表情で立っていた。薄水色の柔らかそうな髪は随分と短く、鮮やかな紺碧の双眸はつり気味で、刃の切っ先を思い出させる鋭さを感じる。どうにも鋭利な美しさが迸るその端正な横顔は、性別をほとんど匂わせない。女に慣れたガヴィでなければ、容易に判別はつかないだろう。そんなことを思いながらもガヴィは、いつの間にかその不思議な少女の横顔にしばらく見惚れていた。

 質屋の女店主は、少女を目にするや否や、頭を軽く抱えて苦笑を漏らす。


「げっ! なーんだい。来てたの、先生」

「きみたち、ケチだから。ペイタルに来る度見回ってる」

「あー、はいはい! わかったよ、先生には敵わないったらありゃしない。ほら、ガヴィ。銀貨五枚で買い取るけど、どうだい?」

「え。ああ、うん。じゃあ、それで」

「まいど。また良さそうな物拾ったら見せに来な」


 ようやく我に返ったガヴィは女店主から慌てて銀貨五枚を受け取る。銀貨五枚といえば、約半年程度は食うに困らない金だ。あのまま銅貨五枚で売っていたら、危うく大損をするところ。

 ガヴィは、売った古鏡の適正価格を指摘してくれた少女に礼を言おうと再び背後を振り返るが、既にそこにはもう誰もいなかった。


「……残念。だが、これでしばらくは寝食どころか遊びにも困らないな、有難い。あとは、あの腐れババアから逃げ切れば、がっ!?」


 ガヴィはほくほくとしながら質屋を後にしようと数歩進んだところで、顔面を勢いよく長杖で殴られる。その場に尻もちをついて、強打された高い鼻を抑えながらガヴィは視線を上げた。

 そこにいたのは、頭頂部から二本の山羊の角が生え、橙色と白髪が入り混じった髪の小柄な魔女の老婆。老婆は手に持つ長杖でガヴィの頭を小突いて、フンと大きく鼻を鳴らす。


「このろくでなし坊主が……誰のおかげで、人間の。しかも男であるおぬしがこの魔女街におられると思っている? いつまでも小賢しく逃げおって! もう逃がしはせんぞ……そして誰が腐れ婆じゃ!?」

女神婆めがみババア、の聞き間違いだろ? ……ボアンばあ


 老婆の名は、ボアン・アェングス・オディナ。この魔女街ペイタルの街長まちおさであり、ガヴィにとっては数少ない錬金術の仕事の雇い主でもある。ボアンは相変わらずのガヴィの減らず口に呆れて大きくため息を吐きながら、生意気な視線を寄越してくるガヴィの首根っこを捕まえて、その大きな身体を難なく引き摺って歩き出した。


「まったく……おぬしのでなかったら、とっくに魔女街から追い出しておるというのに。とにかく、もう逃げるのは禁止じゃ。今日ばかりは何が何でもついてきてもらうぞ」

「はい? ……って。ちょ、ボアン婆! もう逃げねぇから! 引き摺ってくのやめない!?」


 こうしてガヴィは、老いた小さな魔女に引き摺られて。魔女街ペイタルの中でも、小高い丘にある街長の館へと無理やり連行されるのであった。

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