あいのりタクシー3丁目まで

月見 夕

春の夜には女子大生が似合う

 全社全滅だった。

 通算三十八通目にもなるお祈りメールを表示したスマホ画面を消し、私は玄関の外に出た。

 しんと静まり返った深夜三時の住宅街。少し暖かくなったとはいえ、まだまだ空気は冷えている。上着を着て来て正解だった。

 どうせ眠れないのだから、ナイトウォークと洒落込もう。和訳しとく? 深夜徘徊。


 ――もう三月になるでしょ。どうすんのよ、あんた

 夜風に紛れてそんな母の声が耳元でする気がして、私は頭を振る。

 どうすんの? 知らんわ。何なら私が知りたいわ。

 卒業が迫る二月末、こんなに途方に暮れると分かっていたらもっと早くから就活に本腰を入れておくんだった。


 心のどこかで、いつまでも大学生でいられると思っていた。

 でも外出するときの上着が少し薄くなって、灯油販売車は鳴りを潜めて、年度末に向けて必要があるのか分からない道路工事が増えて――まあなんだ、確実に春の足音は迫っていた。


 去年の今頃、親友のミカと「就活やってる?」的な話をしたとき、彼女は

「えーまだ何にもやってないよー。ホノカ、抜け駆けしないでよね」

 なんて言ってたな。だから私も何も疑いもせず、

「するわけないじゃん! ミカだって就活始めるなら教えてよね。一緒にやろ」

 ってヘラヘラしてたと思う。当時の自分を助走付きで殴りたい。


 結局のところ、ミカはかなり早い段階でちゃっかりゼミの先生から推薦を勝ち取り大企業に就職が決まっていた。それを私が知ったのは四年の十二月で、しかも人伝ひとづてで、まあ単刀直入に言うと私達はその後大喧嘩して絶交した。


 ――こんな時期まで何もしてない方が馬鹿じゃん!

 ええ、ええ、ごもっとも。今思えば分かるよ。「卒論しっかりやるのが学生の本業」とかっていう言葉に騙されて、昨年末まで何もしてなかった自分が馬鹿だってことぐらい。

 慌てて就活サイトに登録して手あたり次第にエントリーシートを投げつけてみたけれど、面接にすら漕ぎつけられない企業がほとんどだった。嘘だろ、売り手市場って言ってたじゃんニュースで。

 そう、こんな時期まで何もしていなかった学生など、逆に企業は取ってくれないのだ。

 アレだ、クレジットカードを一度も作ったことがないまま四十代とかを迎えると、決して借金や滞納をしたことがなくても借り入れやカード審査なんかに通らなくなるのと一緒だ。身綺麗すぎる経歴スーパーホワイトがこんなに仇になるだなんて思わなかった。


 住宅街を抜け、バス通りへ。当所もない散歩は続く。

 どこに行けばいいのか見当もつかない。この道も、この先の人生も。

 本当、どこへ行こう。たまに通りかかる車のヘッドライトに照らされながら、歩道の先を見据える。一旦始まってしまった人生は、何とかして全うしなければならない。それの、何と困難なことか。

 少なくとも私には家も身元保証する実家もあるけれど、間違いなく心は路頭に迷っていた。

 もうこのまま、知らない土地まで歩いて行ってしまおうか。真夜中の静かな気配が溶ける空気に混ざり、どこまでも歩いていけるような気がする。嘘だ。運動不足だから多分、五キロも歩けばヘトヘトだ。

 ふらりと十字路を曲がり、点滅信号を渡ろうとしたとき。

 バス停前のベンチに、それを見つけた。


 ベンチの座面を抱いて、女の子が横たわっていた。薄手のコートにジーンズ姿。年は多分、私とそう変わらない。ショートカットの彼女はすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てていた。

 バスから降りてそのまま寝落ちしたのか、ICカードが転がっている。何て奔放な。昼間は比較的人通りのある大通りだ。夜中であってもそれなりに人目につく。

 仕方ないので、声をかけてみることにした。


「あの……風邪引きますよ」

「……うーん」

「気分悪いんですか?」

「んにゃ、ただの酔っぱらいなんで……お構いなく……」


 言葉の通り、彼女からは強烈なアルコール臭がした。どれだけ飲んだらベンチで寝るようなことになるんだ。彼女は気まずくなったのか立ち上がるや否や、千鳥足で歩き始めた。


「ええ……嘘でしょ、その足で帰るんですか?」

「うんまあ近いし……二十分くらい」

「酔っ払いの徒歩二十分は信用ならんので……」


 大きな溜息を吐いて、私は足元に落ちていたICカードを拾った。定期券なのか、カードにはカタカナで「オオミヤ トウコ」「二十歳」と記載されている。


「今タクシー呼びますから……ほら、これ落としましたよ」



 トウコと私はタクシーの清潔な匂いに包まれ、並んで座っている。片方が泥酔していると分かるや運転手は嫌そうな顔をしたが、


「あ、大丈夫です。多分吐かないと思うので」


 と言うと渋々車を走らせた。吐かないかは知らない。希望的観測だ。車内で吐いたら捨てて帰ろうと決めて、私はトウコの言う曖昧な居住地へ一緒に向かうことにした。


「トウコさん、こっち?」

「んあ……さっきの角を右」

「運転手さん、Uターン!」


 相当迷惑な客だったと思う。度々寝落ちする彼女の肩を揺すっては、正しい道順を聞き出した。多分まっすぐ帰るより一・五倍くらい走った。


「……お姉さん、めっちゃいい人じゃないっすかー」


 信号が赤から青に変わったとき、トウコさんは坐った目で呟いた。あんな夜道に酔い潰れた女子大生を放っておくほうが心配だ。


「……いい人だったらすぐに就活決まってるわよ」


 そんな言葉が口を衝き、少しだけ自己嫌悪に陥ったところで彼女を見遣った。彼女は口の端から涎を垂らして寝ていた。自由人かよ。

 やがて夜の住宅街に差し掛かったところで、トウコさんはここ、と指差した。


「ここがウチですー」

「運転手さん、一人降ります!」


 女子大生二人に散々振り回された運転手は、はいはいと適当に相槌を打って車を止めた。

 ここが本当に彼女の自宅なのかは定かではないが、まあ出来るだけのことはやった。彼女の言葉を信じるならば、多分ここがそうなのだろう。

 半分面倒臭くなっていた私は、車内に忘れ物がないか確認してトウコさんを降ろした。


「はい降りた降りた――気を付けてね、トウコさん」

「あい……ありがとうございました」


 少し酔いが醒めたのか、丁重に頭を下げるトウコさん。今更しおらしくしたところで酔っ払いには変わらないけれど。

 運転手が扉を閉める間際、トウコさんはぽつりと呟いた。


「あの……お姉さん、良いことありますよ、多分」


 にへら、と笑った顔を置き去りにして、タクシーは滑るように走り出した。

 窓の外の住宅街は時速五十キロで遠ざかっていく。きっと彼女ともう会うことはないけれど、何だろう、最後の言葉はいつまでも耳に残っていた。


「良いこと……ね」


 トウコさんの家は奇跡的に私のアパートの方向と同じだった。あと五分も乗っていれば私も家に帰れるだろう。

 しかし。


「運転手さん、この道一キロくらいまっすぐ行ったらコンビニあると思うので、そこで降ろして下さい」


 少し寄り道をすることにした。良いじゃんたまには。当所もない夜の散歩ほど楽しいものはないだろう。ワンカップでも片手に引っ提げて歩こうか。


 運転手の気だるげな返事を聞きながら私は勝手に窓を開け、流れ込む春の夜風に目を細めた。

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あいのりタクシー3丁目まで 月見 夕 @tsukimi0518

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