第29話 覗くだけ


「それじゃあ頼むよ。週明けにまた進捗を報告してくれたまえ」


「はい、分かりました」


榮太郎の肩をポンと叩いてから、湯山は校舎へ帰っていく。それを見送り終えたと思ったところで、釘を刺すように「くれぐれも、施錠し忘れがないように」と声がした。


夕暮れを背景に、校舎の影が長く伸びる。

グラウンドでは生徒たちが部活動に励み、ブラスバンド部が楽器を演奏する音が遠くに響いていた。人目がある中で旧校舎に入るのは妙な感じだな――、と思いつつ、扉の鍵を開けた。



榮太郎は一階の廊下をゆっくりと進んだ。

建物の老朽化は、築70年というだけあって正直どうしようもない。


軋む床と、腐りかけの壁。

たまりにたまった埃。


だが逆に、榮太郎たち以外の誰かが忍び込んだ形跡はない、と言うこともできる。

誰のものか分からない古い足跡は無数に残っているが、教室の中は古い机といすが積み上げられたままで使用された様子はないし、新しいごみが落ちているということもなかった。

溜まり場にするにもオンボロすぎる。よほど公園やコンビニの方がマシ、ということだろう。


各教室に異常がないことを確認した後、秘密の抜け穴を確認することにした。

双葉と一緒に帰ってきた際、教えてもらったものだ。


1階の階段横にある給湯室に入る。

足元に真四角の板があり、取っ手を引っ張ると開く。そこへ身を通すと、ひんやりとした床下へ潜ることができる。あちこちから光が漏れているので、思ったより暗くはない。

そのまましゃがみながら正面に向かって進むと、分厚い木の板が行く手を塞いでいるのだが、これを傾けると――、雑草が茂る旧校舎の真裏へとつながっているというわけだった。

板を戻せば、まったくの元通りである。


よくもまあ、こんな通路を見つけて、入ってみようと思ったものだと感心する。


榮太郎は旧校舎の一階を念入りに調べた。

幸いにして、他の出入り口は見つからなかった。念のため、双葉が見つけた出入口をシートで覆い隠してから――、いよいよ2階へ向かうことにした。


ここ最近、数学準備室で待っていても双葉が現れない日が続いていた。

別に必ず集まる約束をしているわけでもなし、多めの課題でも出たのだろうくらいに思っていたのだが、職員室のホワイトボードを見直した時に「あっ」と気づいた。


今週末に、林間学校があるのだ。


橋月高校2年生にとっての一大イベント。

学校から3時間ほど離れた山の中の林間学習センターにて、一泊二日を過ごし、クラスメイトとの絆を深めるというものだ。肝試しやキャンプファイヤーなどのお約束のイベントに心踊らせる生徒も多いだろう。

しかし、本来の目的は自然環境の中で普段得られない学びを得ることであり、班に分かれての研究発表などもある。

双葉はその事前準備に追われていたので、昼休み現れなかったらしい。


なので結局、旧校舎取り壊しについて話すことはできなかった。

とはいえ、教頭直々に頼まれた業務をいつまでも放っておくわけにもいかず、こうして独断でやってきているわけだが――。


「…………」


榮太郎は、旧校舎に入った時からなんとなく予感を感じていた。

言葉にはできないが、今きっと扉が開いているのではないかという予感。


すると今度は、その予感を確かめたいという欲求がムズムズ湧いてくる。


二階の廊下をまっすぐ進み、最奥の教室へ入る。

榮太郎は自分自身へ言い聞かせるように呟いた。


「今回は、ちょっと覗いてみるだけにしよう。勝手に行き来したら色々と怒られそうだし、それに……」


今までの限られた経験からではあるが、お互いが別々の世界にいる場合、時間の流れかたが同じ早さになる可能性が高い。

元マリア塾から意図せず帰還してしまった時がそうだった。ゆえに榮太郎は3日間も森の中で迷ったという汚名を着ることになったのだ。

今日が金曜日でタイミングは悪くないと言っても、次にいつ帰れるかという保証はない。向こうに行くのはあまりにリスキーだ。


だから、覗くだけ。

ちょっと、覗くだけ。


そう思いながらも、榮太郎はしずかにスマホの録画画面を起動していた。


「…………」


ロッカーにかけられた布を取り外し、錆びた鉄の箱を眺める。

夕陽に照らされたそれは、何事もないかのように黙り込んでいる。

あの薄い扉を隔てた先に、エーレンベルクがある。


しかし、さらにその間にも【どこか】があるかもしれない。


今度、もっと鮮明に撮影することが出来たら。

謎に包まれたマリア・エーレンベルクの死。あるいは、本物のウィスタリア・エーレンベルク失踪の手がかりにつながるかもしれない。

それがよい知らせとなるか、悪い知らせとなるかは分からないが……。


扉を開けた。


瞬間、涼しい風と懐かしい匂いが鼻先を撫でる。


案の定と言うべきだろう。二つの世界を繋ぐ通路は開かれており、少しの暗がりの向こうにウィスタリアの寝室が見える。

これが数日間繋がったままでいてくれれば、双葉と一緒に渡ることができる。

しかし、その前に少しだけ……、


「――――」


榮太郎はおそるおそる、スマホを持った手を伸ばした。

左手でロッカーの縁をつかみ、足はこちらの世界に残したまま――……、



「っ!!?」



次の瞬間、榮太郎は体をグイッと引っ張られた。


体が浮かび、吸い込まれたと言うべきかもしれない。

声を出す間もなく上下がわからなくなり、視界が回転する。


手足をばたつかせてみるが、空を切るだけで手応えはない。


せめてスマホだけは取り落とさないように、両手でしっかり掴み、レンズを前方に向けた。






ドシン、と大きな音がした。

同時に腰に響く衝撃。

一瞬、何が起こったか分からず、目をパチパチと瞬かせる。


「…………あれ?」


そこはウィスタリアの寝室だった。

振り返ると、クローゼットの扉はすでに閉まっている。榮太郎は首を傾げながら立ち上がり、そしてすぐに違和感に気がつく。


手に持っていたはずのスマホがない。


ポケットを探る。旧校舎の鍵は持っているが、肝心のスマホだけがどこにもなかった。さっきの尻餅の衝撃でどこかに飛ばされたのではないかと思いつき、榮太郎が床に四つん這いになった。そんなタイミングで――、


ガチャリ


「…………」


「…………」


寝室の扉が開き、オレンジ色の髪のメイドが入ってきた。


顔見知りだ。

この状況も、初めてではない。

二度目である。


だからこそ、都合が悪いこともある。


「…………何してんの」


質問は端的だが、言葉の端々に呆れと軽蔑と嫌悪がトッピングされていた。

榮太郎は身を起こし、可能な限り平静を装って答えた。


「いや、ちょっと、探し物を……?」


「お嬢様の寝室で?」


「ま、まあな」


「誰かに許可は?」


「えーと、なんというか、取ったとも取ってないとも言えるような微妙なところで」


「なるほど。無断でお嬢様の寝室に入り、四つん這いになって物色してたのね?」


「あ〜……。最大限悪意を込めたら、そういう言い方も出来るかもしれないなぁ」


「…………」


ロサはしばらく黙った後、ゆっくりと右手を構え始めた。

榮太郎はその手のひらの先から魔法が発動される前に、慌てて立ち上がった。


「ちょ、ちょっと待ってくれ! これには事情があってだな……!」


弁明を図ろうと試みるが、有効な言い訳は咄嗟には出てこない。

そもそもエーレンベルクに来るつもりはなく、事故的にやってきたのだからしょうがないが、それをそのまま説明するわけにもいかない。


どうしようもなく口をパクパクさせる榮太郎を睨みながら、ロサは小さく首を傾げてから、言った。



「ていうか、そもそも、何であんたここにいんの? シャルメル様のところに行ったんじゃないの?」


「……え?」


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