第28話 居場所
「きゅ、旧校舎を取り壊し……!?」
榮太郎が思わず驚きの声を上げると、職員室中から「なんだろう」と視線が集まる。目の前に立った白髪の男も訝しげに首を捻った。
「何をそんな大袈裟に驚いとるんだね。あの旧校舎に何か思い入れでもあるのか」
「い、いえ。……しかし、なぜ急にそんな話が?」
「急なものか。旧校舎をいつまで放置しておくんだという話は、今まで何度も議題に上がっとる。費用がかかりすぎるということで、先送りになっていたんだ」
「そ、そうだったんですか」
榮太郎はなるべく不自然に見えないよう努めながら、相手が何を言い出すものか身構えた。
少し曲がった背に分厚い丸めがね、やや神経質そうな細い目の男は、教頭の湯山。
橋月高校の管理全般を請け負っており、一番榮太郎が説教されている相手でもある。
常日頃、余計な説教を食らわないように見かけたら隠れているようにしているのだが、今日は何やら榮太郎の机まで寄ってきたかと思うと、不意に「旧校舎の取り壊しの件だが」と言い出したのだ。
あやうく持っていた書類を落としそうになった。
「……取り壊しはいつの予定なんでしょうか」
「ん? いやいや、まだ決まったわけじゃあない。先日の予算会議で久しぶりにそういう話題が上がったんだ。これから夏休みも控えておるし、万が一忍び込むような生徒がいたら大問題になるが、いつまで放置しておくのかというね」
「――――ああ」
取り壊しが確定事項ではないことに一瞬安堵を覚えつつ、議題として上がっていること事実が問題だ。もし取り壊しとなったら、もちろん机や椅子や、あのロッカーも処分されてしまうに違いない。
「施錠はされているが、なにぶん古い建物だろう? 上下も左右もボロボロで、どこにガタが来ているかも分からんしなあ」
「でも、趣深いという見方もありますよ。我が校の美観を支えていると考えれば、なくなってしまうのは寂しいのでは」
「誰がそんなことを言っておるんだね」
「僕の個人的見解です」
「今、君の美的センスはどうでもいいんだよ」
湯山は馬鹿馬鹿しいというように鼻息を漏らし、言い直した。
「一度、点検を行なってくれと頼んどるんだ。生徒が入り込むような恐れがないか、あるいは床や天井が腐って倒壊の恐れがないか、写真を撮りつつ報告書を作って欲しい」
「報告書」
「そう。鍵は預けておくから、2週間以内くらいに頼むよ。あとついでに、不用品の処分もしておいてくれると助かる。いいかね」
「えっ、不用品の処分って……。あそこ、不用品しかありませんよ? ひ、1人でですか?」
「おお、よく知ってるじゃないか。まあ出来る限りでいいから。はっはっ」
湯山はそう短く笑った後、返事を待たずに、職員室を出ていってしまった。
榮太郎は呆然とその背中を見送ったあと――、
一息つき、むしろ危なかったと思い直した。
この件が他の誰かに任されていたら、双葉が出入りしている抜け穴が見つかり、塞がれてしまう。あるいは、旧校舎自体取り壊した方がいいという判断になっていたかもしれない。
だが榮太郎なら「旧校舎は取り壊すほど危険ではありません」と報告ができる。そう思えば、かなり幸運とも言えた。
点検に取りかかるのは双葉に相談してからの方がいいだろう。
危惧されている通り、すでに、旧校舎に忍び込んでいる生徒がいること――、挙句、教師と結託して出入りしてることがバレたらと思うと、想像するだに恐ろしい。
しかし、まさか異世界の扉があるんですと言う訳にもいかない。不定期、不規則な気まぐれな扉ではあるが……。
そういえば。
最初の一件以来、謎の光を確認できないのは何故だろう。
ロッカーから漏れ出たあの光が『異世界と繋がる合図』なのかと思いきや、全くそういうことはなく、むしろ入口出口さえあやふや。それも気まぐれだろうかと納得していたが、今となっては作為的な何かを感じざるをえない。
なにしろ、世界を行き来する際に、第三者が介入しているかもしれないという証拠映像があるのだから。
あの光は榮太郎を呼ぶためのもの――。
ロッカーが洞窟へつながったのも、榮太郎にエーレンベルクを救うヒントを与えるためのものだった――、とか。
まあ、一人で考えても仕方のない事だ。
ひょっとすると、ちょうどよく異世界への扉が開くかもしれない。
双葉と示し合わせてエーレンベルクに行くことができたら、あの映像のことはノワールに相談しよう。
1ヶ月と少しだが、随分と懐かしんでいたようだし。
○
「…………」
半開きになった扉から、身をちぢませるように教室へ入る。
その時、黒板横に貼り出された予定表を見て、佐々木双葉は憂鬱な表情を浮かべた。
六月の予定の中で、ひときわ目立つように蛍光ペンで塗られた『林間学校』という文字。2年生の行事の中でも、体育祭や文化祭に次ぐメインイベントなので、当然なのだろうが、しかし、体育祭や文化祭と同じように、生徒全員が楽しみにしているとは限らない。
特にグループ単位で動く林間学校では、誰と同じ班になるかがとても重要になる。
双葉は教室の後方に視線をうつした。
「――――」
「――――」
露出された太もも、大きく開けた胸元、様々なアクセサリーを身に着けた女子集団。
その中心にいるのは、ひと際明るい髪色をした背の高い女生徒だ。昔の彼女を知っているが、その頃の印象は煌びやかな化粧の奥へ消えてしまった。
きゃはははは、と甲高い笑い声が響く。
彼女の笑い声が大きければ大きいほど、双葉の居場所が隅へ追いやれるような気がして、心臓の奥がキュッとなった。
林間学校はもう今週末にまで迫っている。
やっぱり一度話してみようか。いや、空き時間を使って課外学習の準備をしておくよう言われているので暇がない。そもそも担当学年でもないし、相談したからと言って状況が改善されるとは思えなかった。
何よりも、彼の中で双葉は『明るく利発なお嬢様』であり、『学校でも別に問題なくやっている』と思われているのだから、余計な心配はかけたくない――。
双葉は目を伏せるように席についた。
その事に気付いたのか、後方での笑い声が一瞬おさまり、そのあとすぐにまた元通りになった。
エーレンベルクに帰りたい。
あの世界には居場所がある。
少なくとも、広い教室の中でポツンと小さな席に取り残されたような、こんな窮屈さを感じることはない。
たとえ偽物のお嬢様だとしても。
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