第二章 課外学習 林間学校編

第27話 見覚えのない動画


「松野先生」


背後から声をかけられて、振り返る。

廊下の向こうから、ノートを抱えた一人の男子生徒が小走りで駆けてくる。

たしか1−4の川森だったか――、と思いながら、榮太郎は足を止めた。


「すいません、今お時間いいですか」


「 どうした?」


「ちょっと、今回の課題について質問があって。分からないところがあるんですけど」


「し、質問――?」


榮太郎はその言葉に、にわかに姿勢を正した。

高校数学教師になって1年と少し経つが、生徒から授業に関する質問を受けるのは、まだたったの4度目だからである。


何故そんなにも回数が少ないか。

それは榮太郎側に問題がある。

頼りにならない、――厳密に言えば――、頼りにならないという印象を抱かれているからだ。


1対1なら問題ないが、沢山の視線を受けると途端に生来のあがり症を発動してしまう。

黒板と床ばかり見つめ、終始ボソボソ声の授業は、念仏を聞いているかのようだと例えられ、板書だけして寝てしまう生徒も多い。受け持ったクラスのテストの成績は全くもって芳しくなく、他の数学の先生からも「松野先生のところの生徒が、こっちに聞きに来るんですが」とか「いい加減、前くらい向いて喋れないとダメですよ」と、散々お叱りを受けていた。


ゆえに、生徒が質問をしにきたというだけでも、榮太郎にとってはすごいことなのだ。

思わずにやけそうになるが、せっかく熱心に尋ねてきてくれた生徒を怖がらせるわけにはいかない。精一杯、冷静なフリをして応えた。


「どこが分からないんだ?」


だめだ。格好つけようとしすぎて逆に声が低くなってしまった。

男子生徒に怪訝な顔をされてしまう。


「え、えーと? この大問2が分からなくて」


「悪い、ちょっと喉の調子がな。……ああ、これか」


内容を確認し、頷く。

二次関数を少し発展させた問題だった。計算式やグラフが徐々に複雑になり始め、ここで躓くかどうかでこれから先に大きく影響する時期だ。

榮太郎はちょうど手に持っていた数学の教科書を開き、71ページを指した。


「基本的なところを勘違いしてるかもしれないな。マイナスを代入すると軸に対して対称移動するから、他の数字も逆になるんじゃないか? ここと、こことか」


「…………ああ! そっか、そういうことか!」


「いけそうか?」


「えーと、はい! いけます。大丈夫だと思います。ありがとうございました!」


男子生徒は大きくお辞儀をし、教室の方へと去っていく。榮太郎はその背中を見送りながら、ふうと息を吐き出した。





異世界から帰還して、しばらく経った。


金曜日の夕方に異世界に旅立ったはずの榮太郎が、再び戻ってきたのは土曜日の23時だった。

ドロテア湖採掘騒動、元マリア塾再興計画など、あまりにも濃密だった異世界での1ヶ月の間――、こちらでは1日半ほどしか経過していないということになる。


その落差に思わずクラクラしたが、一緒に帰ってきたウィスタリア、改め、佐々木双葉は「休み1日残ってんじゃん。ラッキー」と軽く言っただけだったので、この辺りは慣れなのかもしれない。真夜中の旧校舎から脱出すると、すぐ裏の柵から難なく敷外へと出た。相変わらずの防犯の甘さだった。


短い別れの挨拶を交わし、帰り道を別れて、二人は日常生活へと戻って行った。



それから、1ヶ月と少しが経とうとしている。

梅雨を過ぎ、夏の気配がにわかに勢力を増す近頃。


榮太郎は橋月高校の教室棟から、渡り廊下へ折れて、特別教室棟へ渡る。

昼休みだというのに生徒の気配はほとんどない。右手の階段をのぼると4階に出る。


「遅いよ」


「うわ、びっくりした」


階段を上がってすぐの曲がり角で、佐々木双葉が責めるような表情でしゃがんでいた。

衣替えを終えた夏用の制服姿で腕組みをする彼女の手には、購買で買ったらしいパンが握られている。榮太郎は、尻のポケットから鍵束を取り出しつつ謝る。


「すまん、ちょっと呼び止められてな」


ガチャリ。


小さな鍵で開かれたのは、数学準備室と書かれた部屋だ。

数学の授業で使われる教材や資料が保管されている――、といっても、教室棟から距離が離れていることもあり、ほとんど使われない倉庫と化していた。


栄太郎と双葉は、積み上げられた段ボールの向こう側に置いてある年季の入ったデスクに、対面する形で腰掛けた。


「最近、調子いいみたいじゃん」


双葉が、紙パックの紅茶にストローを通しながら言った。

榮太郎は埃っぽい部屋を換気するため窓を開けながら聞き返した。


「何が」


「授業」


「何で俺の授業の調子がわかるんだ。お前のところは受け持ってないだろ」


「聞こえてくるの、噂が。松野先生ちょっとハキハキ喋るようになったとか。たまに目が合うようになったとか」


「へえ。正直あまり自覚はないんだよな。まあ多少は改善された点があるのかもしれないが……、ちょっとハキハキ喋る程度で褒められてもなあ?」


先ほど生徒に質問を受けたことを思い出しながらも、榮太郎は首を捻る。

珍しいことではあったが、ほかの諸先輩がたを見れば特別褒められるようなことではない。元が低いから、よくなったように見えるだけだ。


「でも、いい兆候に違いないじゃん。このままあっちでリハビリを続ければもっとよくなるって。異世界療法、異世界療法」


「え、俺って病気扱いなの?」


榮太郎がつっこむと、双葉はくすくすと笑った。

その笑い方は当然、ウィスタリアのそれと全く同じだ。窓から吹き込む風に緑の匂いが混じり、ふと懐かしいような思いになる。


こちらの世界に帰ってきてから、二人は昼食を一緒に摂るようになった。

発案は双葉。元々、「異世界の話題は御法度」と念を押したのは彼女の方だったはずなので榮太郎は驚いたが、他人の目さえなければ別に構わないらしい。


どころか、彼女はむしろ積極的にエーレンベルクの話をしたがっているように見えた。

この学校でたった二人だけが、異世界の存在を知っているという事実に、特別性を感じるのは当たり前と言えるのかもしれないけれど。


そこでふと、榮太郎が思い出したように声を上げたので、双葉は体をすくめる。


「あっ、そうだ!」


「なに、急に」


「見てもらいたいものがあるんだよ」


「見てもらいたいもの?」


榮太郎はやや前のめりになり、ポケットからスマホを取り出した。

エーレンベルク邸では長らく没収されており、壊れてはいなかったのでそのまま使用している。問題は、中身の方だった。


「しばらく気づかなかった……、というか、すっかり忘れてしまっていたんだが」


「?」


双葉も首を伸ばし、榮太郎のスマホを覗き込む。

開かれたのはアルバムフォルダ。一番新しい動画ファイルだ。


「な、なにちょっと、やらしい動画を見せて女子高生の反応を楽しもうとかじゃないよね」


「そんなニッチな性癖してねえよ……」


「やらしくないやつ?」


「やらしくない。俺が異世界に初めて迷い込んだ時の動画なんだ」


双葉が「えっ」と驚きの声を上げた。

そう――、本人も忘れていたことだが、榮太郎は旧校舎での不審な発光を目撃した折、万が一のために証拠用の動画を回していたのである。

ここにファイルが残っていることが何よりもの証拠。


動画の再生を押すと、旧校舎を照らす青白い光が眩く映っている。

しかし直後、ガンという音ともに明かりが消えて真っ暗になる。月明かりのおかげで、かろうじてボンヤリと教室の中の様子が窺える。


『だ、誰かいルノカ?』


榮太郎の裏返った声。

双葉が馬鹿にしたような顔で見てくるが、睨んで黙らせた後、動画に視線を戻す。暗い教室の中をおそるおそる物色するが、何もない。そして最後に布に隠れたロッカーの存在に気がつく――、というところで、動画を止めた。


「俺はこの後、ロッカーの扉を開き、ウィスタリアの寝室に足を踏み入れる。そこで運悪くロサに見つかって……、ご存知の通りの展開になるわけだが」


「うん、それで?」


双葉の問いかけに頷いて、動画を再生する。

カメラはロッカーに近づき、手が伸ばされ、開かれた先に寝室の風景が見えた。


正直これだけで、途轍もなく貴重な映像と言える。なにせ異世界とつなぐゲートの証拠映像だ。テレビなどに売り込めば、ニュースになるかもしれない。

まあ、十中八九CGを疑われるだろうが。


カメラがおそるおそる――、あるいはフラフラと引き寄せられるように、境界線を跨いだ。

瞬間、画面が真っ白になった。カメラが壊れたのかと思うがそうではない。何故なら榮太郎の音声が入っているからだ。


『……え? な、なんだここ?』


カメラが動く。

上下左右真っ白なだけで、奥行きがあることがわかる。

そして、遠くにひとつの人影を写した。真っ白な長い髪に、真っ白な服――、顔は小さくてよく分からない。人影がゆっくり浮かぶようにこちらに近づいてくる。すると、画面全体にひどいノイズがかかった。


『はじ――て、マツノエータ――。――――きっと驚かれ――でしょうね――――。

――招い――――願――――エーレンベル――――』


何かを話している。女性の声だ。

途切れ途切れしか分からないが、人影は徐々に像を得て……



ブツリ。



大きな音がして、画面が固まった。

動画はそこで終わっている。


双葉はしばらく、榮太郎のスマホ画面を見つめたまま固まっていた。

やがて人差し指を伸ばし、シークバーを動かして、人影が映った最後の瞬間へ戻す。顔はかろうじて判別できない。しかし、半分確証めいたものを双葉も抱いているに違いないと、榮太郎は考えていた。


双葉はぎこちなく、カラクリ人形のような動きで顔を上げ、口をぱくぱくとさせた。

そして絞り出すように言う。



「……これ、ひょっとして、お母様じゃないの……?」



これは荒唐無稽ながら、ある種の直感に訴えかけるものだった。

榮太郎や双葉は生前の彼女を知らず、寝室に飾られた肖像画で見ただけ。動画に映っている影も、解像度の問題で、白い豆粒くらいにしか見えない。

それでも、二人の意見は一致した。


「着目すべきなのは、俺の声も録音されていること。にもかかわらず、その記憶がないってことだ。この動画を信じるなら、旧校舎からエーレンベルク邸に直接繋がっていると思っていた扉は、俺たちの知らない場所を経由していたってことになる」


「何度も行き来してるけど、そんな可能性考えもしなかった……。つまり、お母様は死んでいない? でも、それにしては……」


双葉の言いたいことは分かる。

動画に映った真っ白な空間は、どちらの世界にしろ、この世の風景には見えない。

なら榮太郎たちは【あの世】を経由したとでも言うのだろうか? 

そんな馬鹿な。


「正直、私たちの手には余ると思う。お父様なら何か分かるかもしれないけれど」


「……ノワール侯に見せていいと思うか?」


「どうだろう。動揺するのは間違いない。やっと妻と娘がいなくなったことを受け入れたところだもの。でも――」


双葉はそこで切り、言葉を選ぶように言った。


「この事実を隠すのは、誠実じゃない」



榮太郎は無言で頷き、画面をとじた。

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