【おまけ】 とある一日

(※時系列は、一章終盤のキクルが訪ねてくるちょっと前あたりです)








朝食を摂り終えた榮太郎は、ベッドの上に大の字になり、天井を見上げていた。

窓から吹き込む爽やかな風で揺れるカーテン。雑音も雑踏もなく、ただゆったりと流れていく時間。ホコリの粒が光を受けてキラキラと輝き、消えていく。それらをいくつも見送ったあと、榮太郎はついに呟いた。


「暇だ」


暇。圧倒的暇。

時間あまりすぎ。

やることも、暇を紛らわす方法も何もない。


榮太郎がこうも退屈を極めているのには、理由がある。一階書庫の大掃除だ。

ウィスタリアが何やかやと忙しくなってしまい家庭教師業務が行えない中、書庫に毎日入り浸らせてもらっていたのだが、『本日、定期的な掃除と虫干しのため立ち入り禁止』とロサから言い渡されてしまったのだ。


ならば昼寝で時間を潰してもいいのだろうが、それも居候をさせてもらっている手前、なんだか申し訳ない。かといって、他にするべきことも思いつかない。榮太郎はしばらく悩んだ結果、もそりと身を起こした。


「……庭でも散歩するか」



⚪︎



裏手の出入り口から邸外に出る。

見上げれば小鳥が空を飛んでいく。今日も今日とてこの世界は良い天気だ。塀沿いの花壇にはカラフルな花が可憐に揺れていた。どれも微妙に見たことのない花ではあるが、もともと疎い榮太郎には関係なかった。


木陰下の砂利道を歩いていると、不意に頭の上にわさわさした何かが降ってきた。


「おぶっ」


驚いて払いのけたそれは、葉のついた木の枝だ。

枝の付け根が、鋭利な切り口で切断されている。上から声がした。


「あれっ、エータローさん! もしかして当たっちゃいました!? 大丈夫ですか!?」


見上げると、木の枝に足をかけたレミンが大きな枝切り鋏を手に申し訳なさそうな表情を浮かべている。しかし、よくよく見れば、足元に切り落とされた枝葉が散らばっていた。ボーッとしていて気が付かなかったらしい。


「ああ、大丈夫。今のは俺の不注意だった。すまん」


榮太郎は大丈夫と手を振るが、レミンは滑るように梯子を下りてきて、怪我がないことを確認してから、ようやく安堵の吐息を漏らした。


「何か考え事でもしていたのです?」


「考え事というほど大したことじゃない。強いて言えば何かやることないかなぁって……。あっ、そうだ」


作業着姿のレミンを見て、榮太郎はいいことを思いついたという風に、ポンと手を打つ。


「レミン、なにか俺に手伝えることないか?」


「ほ? 手伝えることですか?」


「毎日、一人でこの屋敷全体を世話するのは大変だろう? ここにひとつ手が空いてるからさ、今日は好きなように使ってくれていいぞ」


「えっ? そんな、悪いですよ」


「一人で部屋にいて暇だったんだ。昼食までまだまだ時間もあるし。助けると思ってさ」


唐突な申し出にレミンは少し悩んだ様子だったが、「助けると思って」という部分が効いたらしく「分かりました。では、ぜひともお願いするのです!」と、承諾してくれた。





「ちょ、ちょ、ちょ……、ちょっと待ってくれレミン……」


レミンを手伝うと申し出て1時間。榮太郎は箒に体重を預けながら、息を切らしていた。


「どうしましたか?」


「ど、どうっていうか……、はあっ、はあっ、ちょっと休憩……」


「え? まだ1時間くらいしかお仕事してませんよ?」


まるで平気そうな顔のレミンを、榮太郎は信じられないと思いながら見つめる。

思えばレミンの仕事ぶりをよくよく見たことはなかった。それでも庭師と呼ばれる職業のイメージは朧気ながら持っていた。


木の枝や葉を剪定し、形を整え、庭全体の調和を生み出す繊細な職人稼業――。


しかし結果から言えば、レミンの仕事ぶりは榮太郎のイメージを大きく逸脱していた。

ツインテールの小さな少女は、一旦梯子で木に登ると、木から木を軽業師のごとく飛び回りながら移動していった。そして滑空しながら鋏をジャキジャキ動かせば、数舜遅れて枝葉が宙を舞う。

その様子を見て、榮太郎は思わず感嘆の声を漏らした。


「シーイズニンジャ……」


などと感心している場合ではなく。

榮太郎は榮太郎でレミンが落とす木の枝や葉を箒で懸命に掃いて片づけようとするのだが、どれだけ急いでも気付けばレミンは全く別の木に移動してしまっている。追い付くために全力で箒を動かしても、その差は開くばかりだ。


レミンがようやく地面に降りて来る頃には、榮太郎は汗だくになってしまっていた。元々体力に自信があるわけでもないが、今回に限ってはレミンの方がおかしい。

この広大な屋敷の庭を1人で管理しているという事実を、正直なめていた。


「はぁ、はぁ……、いっそ草むしりでも、してた方が、邪魔にならなくて、いいんじゃないか……?」


榮太郎がふらふらと地面にへたり込み、まばらに生える雑草に手を伸ばす。そこへ、


「あっ、危ないですよ!」


そう聞こえたと思った瞬間、地面がうわんと波打ち、榮太郎の体が一瞬宙に浮いた。

真横で、レミンが地面に手を当てているのが見えた。


「――あべっ!」


10センチほどの高さから落ち、榮太郎は尻餅をつく。

同時にポトポトと地面に落ちる物がある。先ほどまでところどころに生えていた雑草だ。

見回せば当たりの地面からは雑草だけが器用に引き抜かれており、見える範囲内に榮太郎が抜くべきものは何も残っていなかった。


「そうか、魔法……。便利なんだな……」


「ふふ、そうでしょう? ――クワップ」


レミンは自慢げに呪文を唱えると、今度は地面に散らばった枝葉がひとところに集まり、こんもりとした山ができた。

一方榮太郎は、一時間必死こいていた仕事内容がものの数十秒で完了されるのを目の当たりにして、何かが折れるような音を聞いた。


ポキ。


「なんか、仕事の邪魔してすまん……。俺のいる場所はここじゃないみたいだ……」


「あれ? 急にどうしました? も、もしかして、レミンなにか悪いことしちゃいました? レミンはエータローさんに手伝ってもらってすごく助かりましたよ?」


「やめて、今はその優しささえも辛い……」


「どうしてそっぽ向くのです? どこか痛めましたか? なでなでしますか?」


「やめろ! どこも痛めてないし、自分の無力さに打ちひしがれもいない! 大丈夫だから!」


心配げにのぞき込むレミンの視線から逃れるように、榮太郎は庭を走り去った。

泣いてない。断じて泣いてなんかいない。


しかし、と榮太郎は思う。

誰かの仕事を手伝うという考え自体は、いい案かもしれない。少なくとも、自室で何もせず無為に時間を潰すよりは有意義だ。幸い、行き先にはもう一つ心当たりがあった。


気持ちを立て直した榮太郎は、キッチンがある方向へと足を向けた。





「手伝い?」


ヘリベルトが榮太郎の顔を不思議そうな顔で眺めながら言った。見れば包丁で、手早く野菜の皮むきをしている。


「はい、何か俺にお手伝いできることがありませんか」


「どうしてそんな事を? 君には君の仕事があるだろう?」


「それが、ここのところ、ちょっと時間を持て余してまして……」


「贅沢な悩みだねぇ」


榮太郎は肉体労働適正がないかわりに、手先は器用な方だ。一人暮らしの経験も長く、キッチンに立つこともある。一から料理を作れとでも言われない限り、多少の手伝いならできる自信があった。

しかしヘリベルトは、榮太郎の顔を見つめて難しい表情を浮かべる。


「たしかに申し出としては嬉しい、君には恩があるから聞いてもあげたい。でも、残念ながらここの手伝いは不要かなぁ」


「……皿洗いでも、食材の下処理でも何でもしますよ?」


「違うんだ、そういう事じゃない。これは僕のポリシーみたいなものでね」


「ポリシー?」


ヘリベルトは一定の速度で動かしていた手を止め、包丁を鼻先に掲げた。

ふとその目線に恍惚な表情が混ざったのを見て、榮太郎はしまった――、と思った。


「そう、ポリシーだ。それは何か? この屋敷のみんな、特にレディには僕が一から十まで愛をこめて作った料理を食べてほしいんだ。料理は愛情、という言葉を聞いたことはないかな? これは比喩でも何でもなく、実際に想いをこめた料理の方が確実に食べる人の心を満たすものとなる、少なくとも僕はそう信じている。そもそも料理というのは、僕にとって、この胸の中に湧き上がる情動を形として表現するためのツールなんだよ。女性という存在のすばらしさを料理という表現方法で昇華させ、またそれがレディの美しさを形作る一部となる。こんなに胸躍ることはない。そのために僕は皿についた一つの汚れだって許さないし、皮をむく時の些細な力加減、食材を刻むときの一ミリのズレ、鍋を沸かすときの一度の温度、塩コショウの一粒に至るまで妥協しない。もちろん旦那様や君への料理にだって手を抜いたことはない。しかしレディに僕の料理を食べてもらう事が僕の生きがいであり、生涯を賭す価値のあることなんだ。例えば君に皮を剥いてもらい、皿を洗ってもらったとしよう。どれだけ君が上手くやろうとも、僕の手から離れた時点で、僕にとっての完ぺきではなくなってしまうんだ。分かってもらえるだろうか、君ならきっとわかってくれるだろうね。作るときに一人一人の顔を思い浮かべ、その人にとっての最適な料理を提供する。たとえばウィスタリアお嬢様はパスタは少し柔らかめの方が好まれる、反対にロップイヤーさんは固めの方がお好みだ。ならば麺をゆでる時間は変えるべきだし、食堂へ運ぶ時間も考えなければ最適な状態にはならない。味の濃さ、食材の好き嫌いを合わせれば、考慮すべきことは他にもたくさんある。もちろんそれらは事細かに感想を聞いて知るのではない、食べた時の表情、美味しいとつぶやくその言い方の変化、それらを総合的に鑑みて相手にとっての究極の一皿を提供するんだ。そして心の底からレディが美味しいとほほ笑んでくれた時、僕はもう天に昇ってしまうかのような――――」


「失礼しました」


榮太郎はキッチンの扉を、静かに閉めた。





「よくよく考えたら、この屋敷変な人しかいないということを忘れていたな……。お手伝い作戦は失敗。しょうがない、大人しく部屋に引き篭もるか……」


そうぼやきながら廊下を歩いていると、数メートル先の扉が開く。

現れたのはロサだった。つまり、出てきたのは書庫からである。


「ん? ……ああ、あんたね。何してんの」


露骨に不機嫌そうになるロサ。ウィスタリアやノワールの前では一応使用人らしい言葉遣いを心がけているようなのだが、対面で会えばこんな具合だ。


榮太郎も榮太郎で、彼女に対する苦手意識は完全に払拭されていない。初対面が最悪だったことが尾を引いているのも勿論だが、ロサの年齢は聞くところによると19歳。榮太郎から数えれば4つほど年下であり、生徒教師の間柄でもないとなると、一番接し方の正解が分からないのである。


「いや、何してるってこともないが」


「ふうん、暇人なのね。こんな昼間っから何もせずにぼやぼやしてるなんて」


「家庭教師業務ができない上、書庫が立ち入り禁止となるとやることがないんだよ。何か手伝えること無いかなって屋敷を回ってみたんだが、それも難しくてな」


「ふうん、役立たずなのね」


「歯に衣着せなさ過ぎだろ……。まあ、反論できない部分もあるが。そっちはまだ書庫の掃除中なんだろう? 終わったら教えてくれると助かるよ。じゃあ、頑張ってくれ」


若干なり時間もつぶせたことだし、一旦昼食のお呼びがかかるのを部屋で待つことにしようかと、刺々しい視線のロサの横を通り過ぎようとする。しかし、不意に袖口を掴まれた。


「ちょっと待ちなさいよ」


「……なんだ?」


「手伝うことがないか探してるのよね?」


「さっきまではな。そして、今しがた諦めたところだ」


榮太郎はロサの手を振り解いて再び歩き去ろうとするが、今度は襟首を掴まれる。


「ぐえ」


「待ちなさいってば。朗報よ、あんたに仕事を上げるわ」


「仕事?」


思わぬロサからの申し出に振り返る。

ロサは榮太郎を睨むように見上げているが、よくよく見れば下唇を噛み、眉間にしわを寄せていた。それは言葉とは裏腹に、助けを求めているようにも見えた。

榮太郎は、開いた扉から書庫を覗き込んだ。


そして発見する。


「………ああ~」


本棚の間の通路に、花瓶の破片が盛大に散らばっていたのだ。

榮太郎も利用するたびに目にしていたクラシックデザインの花瓶は、もはや見る影もない。ロサは返事を待たず、榮太郎を部屋へと押し込むと、扉をバタンとしめた。


濡れた絨毯の上に散乱する粉々になった花瓶の破片。幸いなことに、虫干しのために半数が書架から取り出されていたため、本に被害は及んでいないようだ。

榮太郎はしばし部屋を見回した後に、ロサに目を向ける。


「……何よその目は。ああそうよ、私が割ったのよ。この前も割ったばかりよ、知ってるでしょ? これで通算10個目、夢の2桁達成。お優しい旦那様もこの前は言葉を無くしておられたし、ロップイヤーさんに次に割ったらクビって言われてるわよ。悪い? 割れてしまったものはしょうがないじゃない?」


あくまで高圧的に逆ギレをするロサ。

しかし、榮太郎は彼女の全身に視線を巡らせてから言った。


「いやいや、怪我とかしてないかと思って」


「――え? ああ、うん、別に怪我とかはしてないけど……」


「ならよかった。でも危ないから片付けは俺がやる。ちりとりと箒はあるか?」


「う、うん、ここにあるわ」


少し面食らった様子のロサからそれらを受け取り、花瓶の破片を回収する榮太郎。

ロサはしばらくそれをソワソワしながら見守っていたが、やがて横にしゃがみ込み、散らばった花びらや葉のゴミを拾い始めた。


二人で手分けをしたおかげで、破片の処理は滞りなく終了した。


「よし、破片はこれでとりあえず大丈夫かな」


「……ありがと。助かったわ。なんか、もうちょっと責められるかと思った」


「なんで責めるんだよ、別に俺の所有物でもないのに」


「責めるというか、馬鹿にされるかなって。この前、怒られてるところも聞かれちゃったし。これじゃあ、アンタに濡れ衣着せようかと考えてたことがちょっと申し訳ないわ」


「そんな魂胆だったとしたら、俺もちょっと前言撤回するけどな?!」


「ねえ、この絨毯どうしよう。染みになっちゃうかしら」


「んー、ちゃんと乾かせば染みにはならないだろ」


「とりあえず何か布でも敷いておこうかしら」


「そうだな」


「……では、こんなものでいかが?」


「あ、ちょうどいい。ありがとうございます」


「いえいえ」


厚手の布巾を受け取ったロサは、それを床に敷きかけて、身を固める。

同時に榮太郎も背筋に冷気が走るのを感じた。


「――――」


ゆっくり振り返るとそこには、じっと二人を見下ろしているロップイヤーが静かに立っていた。閉めていたはずの扉が、いつの間にか開かれている。


「ロ、ロロ、ロロロップイヤーさん……? あれ? ほほ、本日は夜まで旦那様とお嬢様とお出かけのご予定では……」


「先方の予定が変わりまして、先ほど帰ってきましたの。ところで、二人で仲良くお話しているようですが、何をしていたのか詳しく教えていただいてもよろしいかしら」


ロップイヤーの目線はもはや榮太郎には向けられておらず、まっすぐロサを射抜いていた。形式上尋ねてはいるが、全てを理解した上での問いかけだ。裁判官が被告に自らの罪を告白させるかのごとく。


ロサはと言えば、蛇に睨まれた蛙のように固まり、やがてブルブルと震え始めた。


「さあ、ロサ。黙っていないで、きちんと説明をなさい」


「あ、あばばばばばば」


そのやりとりはもはや会話にもなっていない。次割ったらクビになる、と言っていた。さすがに本気ではないはずだが、ロサの怯え様は尋常ではない。体に恐怖が刻み込まれている。もしかするとクビになるより恐ろしいことが待っているのかもしれない。

榮太郎は後頭部を小さく掻いたあと、ロサの前に身を乗り出した。


「えーと、すみませんロップイヤーさん。俺が花瓶を割ったんです」


鉄仮面のようだったロップイヤーの表情が、怪訝に榮太郎へと向けられた。


「なんですって? エータロー様が?」


「はい、本を取ろうと部屋に入った時、うっかり割ってしまいまして、ロサにその片づけを手伝ってもらってました。箒やちりとりの場所が分からなかったので」


「……本当ですか、ロサ?」


「え、ん? えーと、その、なんといいますか、つまり、どういうことですか?」


ロサは予想外のロップイヤーの登場と、予想外の榮太郎のフォローによって処理落ち寸前だ。


「本当です。ロサが手伝ってくれたので助かりました。弁償という話になると、正直厳しいのですが」


「エータロー様、しかしそれは——」


ロップイヤーは困ったような表情で榮太郎に何か言いかけたが、やがて思い直したように口を閉じる。そして深い溜息をついてから言った。


「……さようですの。ご自身で片付けて頂いたようですし、幸い高価なものでもないので結構ですわ。旦那様には私からお伝えしておきます」


「すみません、以後気をつけます」


「ああ、それと昼食の準備が出来たようですから食堂へどうぞ」


「はい、ありがとうございます」


榮太郎は頭を下げる。ロサは頭を下げるべきかどうかわからずに首をカクカクさせている。壊れたおもちゃみたいだ。そんな二人を見てロップイヤーは呆れ顔を見せたが、やがて諦めたように扉の方へ体を向けた。


「……ロサ、次はありませんわよ」


「——ひっ!」


去り際に囁いた声は榮太郎にはよく聞こえなかったが、ロサは青ざめながらロップイヤーが出て言った方向を見つめていた。

やがて我に返ったロサは、箒につかまりヨロヨロと立ち上がる。


「と、とりあえず、……何というか、ありがとう……、助かったわ」


「お、おお。大丈夫か、助かった割に顔色悪いけど……」


「今日の命が拾えただけ感謝してるってことよ」


「苛酷な労働環境だな……」


完全に身から出た錆だけど――、とまでは言わないでおいた。





食堂の扉を開けると、すでにウィスタリアが昼食を摂っていた。他には誰もおらず、広いテーブルを独り占めしている。


「先生」


ウィスタリアは榮太郎を見つけると、パッと笑顔になった。

榮太郎は真向かいに座る。


「お疲れ様。急遽予定が変わったそうだな」


「そう。せっかく早起きして馬車で出かけたのに、そのまま帰ることになっちゃって最悪。先生、知ってる? 馬車って乗り心地ひどいのよ」


「へえ? 優雅な乗り物ってイメージだが」


窓から庭先の方を見ると、門のところに馬車が停められていた。そのデザインは、榮太郎が思い描くそれとほぼ同じである。


「揺れもひどいし、クッション性もないし、スピードが出る訳でもないし。今回はまだ近くの街だったからよかったけど、何時間も乗ったら体バキバキになっちゃうもの。あれはちょっと、改善の余地ありだわ」


不満げに料理を口に運ぶウィスタリアを見て、榮太郎は苦笑する。


「この世界にとっては充分上質な乗り物なんだろうが、より快適なものを知ってるからな」


「そう、あっちの技術を取り入れたらいいのよね。ねえ、先生も協力してよ。ウィスタリア式快適馬車を発明したら、特許を取って一儲け出来るかも。ちゃんと山分けするから」


「ダメだよ、教師は副業禁止なんだから」


榮太郎がそう言って手でバツをつくると、ウィスタリアは驚いたように目を丸くした。


「えっ、なに言ってんの。私の家庭教師に任命されちゃったのに」


「いやいや、居候させてもらう代わりに教えてるだけで、金銭は発生してないからギリセーフだろ」


「えっ、マジ? じゃあ、この先もお給料受け取らないつもりなの? お父様は支払う気満々だと思うけど」


「……うーん。いや、それはちょっと、受け取れないかなあ」


そう悩まし気に唸る榮太郎を見て、ウィスタリアは呆れ顔だ。


「先生ってなんか、ときどき馬鹿真面目だよね。でもよく考えてよ。そうなると、今後この世界でのお金を一切手にしないってことになるじゃない。街でのお買い物も、食事も、自由にできないってことになっちゃわない? 大丈夫?」


「そこはそれ。ウィスタリアに借りたりして、なんとかさ」


「生徒に借金するのはいいんだ……」


ウィスタリアは、榮太郎のよく分からないボーダーラインに対して首を傾げた。


「そういえば先生、午後の予定は?」


「何もないよ。何もなさ過ぎるくらいだ」


榮太郎はそう言って、庭仕事や破片の片付けで疲弊した足腰を撫でる。

そんなことを知る由もないウィスタリアは、人差し指を立てて二階の方へ向けた。


「じゃあ、よければまた勉強みてもらっていい? 課題があとちょっとで片付きそうだから」


「おっ、勿論。何が残ってる?」


「世界史のワーク。残り15ページ。また明日以降も外出になるかもだから、できれば今日中に終わらせたいんだけど。先生、疲れちゃうかな」


「大丈夫だ。今、自分の仕事があることの有り難さを身に染みて知ったところだからな」


「え、何かあったの?」



ウィスタリアがそう尋ねたので、榮太郎は午前中の出来事を話すことにした。

暖かな日差しの中、食器の音と、クスクスという笑い声が食堂に響いた。

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