第26話 最初の授業
「は、はじめまして。今日は集まってくれてありがとう」
榮太郎がそう言うと、小さな瞳たちがまっすぐと見つめ返してくる。
教卓についた手がかすかに汗ばんでいるのを感じた。
狭い教室に並べられた机は4つ――。
まず、前列左に座っているのがフログ。
キクルの息子で、マリア塾再興を思い立ったのはそもそも、彼との出会いがきっかけだ。
前列右に座っているのは、茶髪いくせっ毛で、頭の上に丸い熊耳がついた小さな女の子。筆記具も何も持ってきていないが、前のめりになって、榮太郎が何を言うか期待して待っている様子。
後列右に座っているのは、黒い前髪が目元を隠した少女。
その隙間から切れ長の瞳と、そばかすのある頬が覗いていた。
そして最後、後列左に座っているのはウィスタリア・エーレンベルク。
呼んだ覚えはないのだが、榮太郎の晴れ舞台を見たいというよく分からない理由で参席している。ニヤリと笑いながら小さく手を振るその素振りは、授業参観に来た親かのようだ。
「…………」
初授業の呼びかけに応じたのは、結局これだけだった。エーレンベルク中の子供をかき集めたとはとても言えないが、素性のよく分からない男が急にマリア・エーレンベルクの真似事をしようというのだから、良く集まってくれたと言うべきだろう。
「ええと、ではまずは自己紹介から始めようか。僕は松野榮太郎。エーレンベルク邸で家庭教師として雇われています。えー、その合間に、この教室で授業をする許可を貰いました。よろしくお願いします……」
戸惑うようなおじぎが返ってくる。
後列のウィスタリアは渋い顔をして、「先生、表情固いよ。リラックスして」と囁いた。
榮太郎は内心で(うるさい)と思うが、彼女の指摘通り、表情が強張っていることを自覚していた。橋月高校の教壇に立った時の光景がフラッシュバックする。悪癖の再来だ。たくさんの視線が自分へ集まると、どうしても口が回らなくなり、頭の中が真っ白になってしまう。
しかし――、こんなことではダメだ。
榮太郎は太ももを強くつねった。
たった4人の子供たちに緊張していたら、この先まともな授業が出来る未来はない。大きく深呼吸する。
「じゃあ、今度はみんなの名前も聞きたい。あとは年齢と、勉強したい内容を教えてもらえると助かるな」
榮太郎はそう言って、前列の少年を見た。
フログがハッと表情を変え、起立する。
「――フログです。ええと、11歳。さ、算数が好きなので、もっと難しい問題が解けるようになりたいと思って来ました。よろしくお願いします……」
ぺこりとおじぎをし、着席するフログ。
榮太郎が大きく拍手をすると、つられて3人からも拍手が返ってきた。少し恥ずかしそうに教壇を見上げる視線には期待感が込められていて、胸が熱くなる。
机の上には、キクル伝てに返却してもらった算数の教科書がちゃんと乗せられていた。
「じゃあ次」
そう言ってフログの隣を指す。
「はい!!!」
と大きな声で、熊耳の女の子が立ち上がった。
「モルカですっ!! 8歳です!! 好きなことは!! えーと!! 体育!! お勉強は苦手です!!」
「正直でいいなあ」
ふんすと息を吐き、満足げにモルカは着席した。
聞けばモルカは街の酒場の長女で、マリア・エーレンベルク時代の生徒ではない。よく分からないが楽しそうなのでやってきたそうだ。モルカの挨拶によって、教室の空気がひとつ和らいだような気がした。
「じゃあ、その後ろ」
「…………」
呼びかけられ、ぬるりとした動作で立ち上がったのは黒い長髪の女の子だ。黒いドレスを着た出で立ちは、ゴシックな人形のようである。
「ネビレラ……、14歳……、興味があるのは魔術薬学です……。本当に教わりたいのはもっと深い所ですけど……」
「深いところ?」
「そうです……、深淵、禁忌……。ふふふふふふふ」
「――うん、ありがとう!」
なるほど、こういうパターンか。
想定外というか、ある意味で見た目通りというか。はたして彼女の望むような授業が出来るかはさておき、呼びかけに応じてくれるだけの熱意があると受け取ろう。
「さて、じゃあ一通り自己紹介も終わったところで――」
「えっ!?」
榮太郎がそう話題を切り替えようとすると、教室窓際後方から驚きの声が上がった。ウィスタリアがショックを受けた表情をしている。
「私は!?」
「……お前はいいだろう、別に」
「なんで!!」
「今回だけの物見遊山だろ? というかそろそろ御退出いただきたいんだが」
「ちょっと待ってよ、私も先生から授業を教わりたいという健全な理由でやってきてるんだからね? お屋敷で家庭教師、こっちで教室ってやるよりも、私がこっちに来て一緒に教わった方が手間がないでしょ? そういう人の配慮を踏みにじるような態度は教育者としてどうかと思いますけれども?」
「わーかった、わかった。えー、ウィスタリア・エーレンベルク。16歳。苦手科目は歴史。よろしくお願いします」
「なにひとつ分かってないね!」
ウィスタリアのツッコミに、教室に大きな笑いが起きる。
同じ教室に侯爵令嬢がいるという緊張感は、意外にも簡単に拭い去れたようだ。同時に榮太郎の中の緊張もほぐれ、いつもの調子が思い出せるようになった。
榮太郎はチョークを手に取り、さっき聞いた自己紹介の内容を簡潔に書き記す。
みんなの名前と、年齢、学びたいこと。
「さて、今の自己紹介でも分かった通り、年齢も立場もバラバラ。共通してるのは、何かを学ぶためにこの教室に集まったということだ。学問に優劣はない。学びたいという思いは、それだけで素晴らしいことだと思う」
それは異世界の――、
このエーレンベルクという土地に来て、改めて実感したことだった。
「じゃあ、まず何から始めようか。このことで結構悩んだ。みんなで同じ授業をしてみるか、それぞれ好みの教科に取り組むか……。どういう授業をみんなが思い描いているのか……」
榮太郎は、手元に視線を落とした。
そこには束ねられた分厚い紙束や本がある。
エーレンベルクに2回目の訪問をして、はやいもので1か月以上が経った。この日の為の準備も重ねてきた。フログのために算数の問題集も用意してあったし、魔術体系をとりまとめた資料もあった。これに沿えば、一応授業の体裁は整うだろう。
だが、榮太郎は小さく首を振って、資料を閉じた。
「外に出よう」
その言葉に、生徒たちから驚きの表情が返ってくる。
榮太郎はもう一度言った。
「外に出て、エーレンベルクを散策しよう。それがこのクラスの初授業だ」
〇
「ピルルルォアアア」
「きゃははははは!」
ドロテア湖のほとりで、モルカとイワミミズクたちが追いかけっこをして、楽しそうな笑い声を響かせている。ウィスタリアもそれに混ざり、モルカがこけないように見てくれていた。
ネビレラは木陰の方にしゃがみこんでいる。榮太郎が植物図鑑を渡して、何の植物がどのように生えているか調べてみるように促したからだ。エーレンベルク邸書庫から拝借したものだが、かなり興味深かったようで、地面に生えた小さなキノコと図鑑を交互に見比べていた。
榮太郎は少し小高い場所に座り、そんな生徒たちの様子を遠巻きに眺めていた。
そこへ、フログが横にやってきて、静かに座った。膝を抱えたその手には、算数の教科書が握られている。本当に肌身離さずという感じだ。
「この前は悪かった。勝手に教科書を持って行ってしまって」
「……あ、いいえ。急に消えたからびっくりしたけど、盗まれたとは思わなかったです。ちゃんと返してもらったし。でもあれ、どうやったんですか? 魔法?」
「ああー、まあ、魔法かなあ」
どんな魔法か教えろと言われたら困ると思ったが、フログは「へえ」とだけ言って、それ以上追及してくることはなかった。
2人が並んで座る間を、水気を含んだやわらなか風が通り過ぎる。フログは体育座りをしたまま、何かを考えているように見えた。榮太郎は湖面の向こう、ヴェルドワールンの森の方へ目を向ける。
「キクルさんは今日は?」
「ええと、森の方に仕事に行ってます。家への帰りは遅くなったけど、楽しそう。全部先生のおかげだって言ってました」
「俺が役に立てたのはたまたまだよ。エーレンベルクを守ったのは、ノワールさんや領民の人々だ。それに、本当に大変なのはこれからだろうしな」
「…………」
フログはふと、榮太郎の方をじっと見上げた。
小さく真剣な瞳と目があう。フログは決心したように息を吸い込んで、言った。
「僕、父さんの仕事を継ぎたいと思ってるんです。父さんは勉強をして、エーレンベルクを出て、もっと給料のいい仕事に就けって言うんだけど」
「どうして継ぎたいと思ったんだ?」
「……マリア様が、言ってたから」
「?」
榮太郎が小さく首をかしげると、フログは算数の教科書を両手で目の前に掲げた。しわくちゃで汚れた問題集が、湖面に反射した光に照らされて、不思議な模様をつくっている。
「数字は全ての物事の基礎だよって。魔法を扱うにも、どこで働くにも、何をするにも、計算が出来るかできないかで見え方が変わるんだって。僕は父さんみたいに力はないけど、でも計算で役に立つことは出来るんじゃないかって。……先生はどう思う?」
榮太郎は驚いた。
異世界でもそうした考えが根付いていることと、5年前に言われた言葉を正しく受け取っているフログの聡明さに、目が覚めるような思いになった。
「それは真実だ。俺がフログくらいの頃はまだ、世界が数字で成り立っているなんて気づいてはいなかったけど、今なら間違いなくそうだと言える。もしヴェルドワールンの採掘事業が大きくなるとしたら、今後数字に強い人が必ず必要になる。たとえば、そうだな……」
榮太郎は手近にあった一つの小石を取り、フログの目の前に置いた。
「これが掘り起こした魔鉱石だとする。これを誰かに売りたい。じゃあ問題は、いくらで売るかだが、あまり高い値段では買い手がつかない。でも、安く売っても利益が上がらない。適正な値段があるはずだ。かかった手間や、働いてる人々の生活も踏まえないとな」
フログは少し間をおいて、「うん」と頷いた。
「あの洞窟では、1日にどのくらいの量の魔鉱石が手に入るのか。何人が働いているのか。どのくらいの時間をかけて磨くのか。どうやって他の街まで届けるのか。何をするにもお金がかかるし、つまりそれらは全部数字で成り立ってる。足し算引き算だけでは計算が出来ない。いろんな計算式を使って、正しい数字を素早く算出しなければいけないだろう」
「うん、わかります」
「逆にも考えられる。より効率的に魔鉱石が手に入れば、単純に売り物の数が増える。狭く細い洞窟の中で、どこにどれだけの鉱石が眠っているのか。でもあんまり無茶苦茶に掘ってしまったら?」
「……洞窟が崩れるかも」
「そうなったら御破算だ。支柱の寸法、組み立て方。それも全部、計算だ」
フログは鼻の穴を大きくし、何度か息を吸ったり吐いたりした後に「すごいね」と言った。榮太郎は頷いた。そして、その一言を自身の胸にも刻み込んだ。
そうだ、数学には、勉強には、無限の可能性が秘められている。
教えて、教えられる。
これがあるから、教師という職業は素晴らしいのだ。
異世界で受け持った教室でおこなわれた初授業は、そうして終わりの時間となった。
〇
翌日、寝室のドアが激しく叩かれる音で榮太郎は目を覚ます。
寝ぼけ眼でドアを開けると、ウィスタリアが興奮した様子で立っていた。
「どうしたんだ、こんな早くに」
「先生、大変。クローゼットがつながったの!」
〇
急いでスーツに着替えてウィスタリアの寝室へ入ると、ガウン姿のノワールも一緒に榮太郎を待っていた。クローゼットの扉がわずかに開かれ、その向こうに薄暗い旧校舎の光景が見えた。
1か月だが、もっと長く異世界にいたような気がする。
「じゃあね、お父様。今回は私も一緒に帰るから、みんなには適当に言っておいて」
「ああ、いつものことだから大丈夫だろう」
ウィスタリアは既に制服に着替え、鞄を抱えている。
ドレス姿以外を見るのは久しぶりで違和感がすごかった。
だが、肝心の髪色はどうするのだろう。透き通るような水色の髪は美しいが、高校生としては些か派手すぎる――、と思っていると、ウィスタリアが「わかってる」と言うように小瓶を一つ取り出した。
「見てて。意外にあっちより便利なの」
小瓶の液が頭に降りかかる。
すると水彩絵の具に浸したように、水色の髪が元の黒色へと変化した。最後に眼鏡をかければ、そこに立っているのはもうウィスタリアではない。
物珍しそうな視線を嫌がるように肩をすぼめながら言う。
「いい? あっちでは間違ってもウィスタリアとは呼ばないでよ。絶対怪しまれたくないから」
「分かってる。佐々木双葉な、佐々木双葉」
「それで先生、忘れ物ないよね? 気軽に取りに帰れないんだからね」
「ああ、大丈夫だと思うが……。いや、ちょっと待てよ」
榮太郎は全身のポケットを叩いてから、すっかり忘れていたものがある事に気が付いた。
「やばい、一番初めにスマホを没収されたままだ。どこにしまってあるんだろう、ロップイヤーさんのところかな」
「ちょっと、やばいじゃん。ロップにはクローゼットのこと秘密なんだから」
「――すまほというのは、これでしょうか?」
榮太郎とウィスタリアが慌てている所へ、ノワールがすっと手を差し出した。その手には榮太郎のスマホが握られている。
「あっ、これです!」
「所持品として私が預かっておりました。返却が遅れて申し訳ない」
「いえいえ、助かりました。えーと……、さすがに充電は切れてるな。まあ大丈夫だろう」
榮太郎は懐かしき電子機器を撫で、ポケットへとしまった。
「おっけ、じゃあ閉じちゃう前に急いで帰ろう。先生から入って。早く早く」
「おい、押すな。段差があるんだから。あ、ちょっと! あぶな――……」
「うわっ、やば、先せ――……」
バタン。
二人が転げ込むようにクローゼットの中へ身を通した瞬間、両開きの扉がしまった。ノワールが再び扉を開けると、そこには簡素な木の板があるだけ。
つながりは途切れ、寝室は嘘のように静かになった。
少しして、ロップイヤーがドアをノックする。
「騒がしい声が聞こえましたが、なにかございましたか?」
ノワールはクローゼットの木肌を一度撫で、微笑を漏らしてから応えた。
「いいや――、何もないよ」
―――― 第一章「エーレンベルク邸 試用期間編」 終 ――――
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