第16話 5年前の話
「じゃあ、説明してもらいましょうか」
風呂に入り、服を着替えた榮太郎はソファに座っていた。
熱い紅茶が疲れ切った体に染みわるが、その真正面ではウィスタリアがふんぞり返ってこちらを睨んでいるので飲みにくい。
「……怒ってるのか?」
「そりゃ怒ってるよ。怒ってるというか、本当に心配してたの。
街に散歩に行ってトラブルに遭ったのかと思ったけど、クローゼットから帰っちゃった可能性もあったから、探しに行こうにも踏み切れなくて。……まさか森で迷子になってるとは思わなかったけど」
ウィスタリアはそう言い、ふんすと鼻を鳴らす。
榮太郎は内心で(やはり)と思いながら、首を振った。
「まず弁明したいんだが、俺は森で3日間も迷子になってたわけじゃない」
「――えっ?」
「一回、あっちに帰ってたんだよ」
「嘘。でも、レミンが森で見つけたって」
ウィスタリアは驚いたように寝室がある方を見る。
榮太郎はどこから話せばいいものかと頭を掻いた。
「まず順を追って聞きたいんだが、エーレンベルクの町はずれに廃墟があるだろう。あれはマリア・エーレンベルクが昔勉強を教えていた場所なのか?」
瞬間、ウィスタリアの表情が曇る。
「……誰から聞いたの」
「フログという少年に会ったんだ。彼は、マリア・エーレンベルクにもらった教科書を持ってた。5年前あそこで――、まあ、そのことは一旦いい。問題はあの廃墟の扉に手をかけた瞬間、俺があっちの世界に飛ばされたという事だ」
ウィスタリアが座ったソファが、音を鳴らした。
「!? ちょっと待って、どういう事?」
「少なくとも俺からはそう映った。気づいたら旧校舎に立っていて、ロッカーは閉じてたんだ。幸い、エーレンベルクにいた間、向こうでは3時間しか経っていなかったから、水、木と仕事をして金曜日の夕方にまた旧校舎のロッカーに入った。そしたら今度は、扉すらない洞窟の中に飛んだんだ。訳も分からず、なんとか這い出てレミンに見つけてもらったのが、ついさっきだよ」
「――――」
口元に手を当て、言葉が出ない様子のウィスタリア。
しばらく考え込んだ後、絞り出すように彼女は言った。
「思ったより……、大変なことになってたんだね」
「だろ?」
「あの、さっきはごめんね? 責めるようないい方しちゃって」
「そんなことは別にいいんだが、お前は今までこういう目に遭ったことはないのか?」
榮太郎が尋ねると、ウィスタリアはぶんぶんと顔を振った。
「ないよ、ないない。私は今までずっとロッカーとクローゼットだけが唯一の繋がりだと思ってたもん。違う場所からあっちに帰ったこともないし、このお屋敷以外に戻ってきたこともない。だから、なんで先生の身にそんなことが起きたのか全然分かんない」
榮太郎は小さく頷き、溜息を漏らす。
「……そうなんじゃないかとは思ってたよ。説明をわざと省いたような感じじゃなかったし、理由もないしな」
つまり、今回のことは初めて観測されたイレギュラー的事態ということになる。あるいは、榮太郎がこちらに迷い込んだこと自体がイレギュラーだったのか。
「なんにせよ認識を改める必要がある。俺が帰る時も、ウィスタリアが帰る時も、今まで以上に気をつけないとな」
「そうだね、お父様にも話しとく。私まで、訳わかんないとこに飛ばされたらどうしよう……。っていうか、先生はあっちに帰ったらそれっきりかと思ってたよ」
「ん?」
「もしかして私が心配してると思ったから、わざわざ戻ってきたの?」
「ああ。いや、それもあるが、さっき言ったフログの教科書を持ち帰ってしまってな。さすがに返さないわけにはいかないと思ったんだ」
榮太郎はそう言って、持ってきたバッグを開いて見せる。幸いフログの教科書はほとんど汚れていない。元々、だいぶくたびれていたので違いに気付かないという感じだが。
ウィスタリアは教科書を眺め、表情をまた暗くした。
「お母様の学校の子……、だよね」
「知りあいか?」
「面識はないよ。でも、お父様から話は聞いてる。マリア塾っていう名前でお金のない子を集めて授業をしてたんだって」
マリアにまつわる何か事件があるだろうことは察していた。
建物が倒壊したことと、マリア・エーレンベルクがこの世を去ったことにはきっと関係性がある。榮太郎が問う前に、ウィスタリアは語りだした。
一度話すことをためらった、エーレンベルク邸の話と、彼女自身の話も。
それは5年前の冬のことである。
〇
当時、マリア塾には20人近くの生徒がいた。
マリアは彼らに対価は求めず、完全なる慈善事業として授業を行っていた。この活動に対してノワールの援助はない。建物は大工に依頼して立ててもらい、家具なども寄付してもらった。それはそのままマリア・エーレンベルクの人望を現しているとも言えた。
エーレンベルクに、マリアあり。
そう他領地からも噂されるほどに、美しさも賢さも兼ね備えた人格者。
まさに、聖母のような存在だったそうだ。
しかし、事件は起きてしまった。
彼女が1人で授業の準備をしていた時に、塾の屋根が急に崩落したのだ。
なんの前触れもなく、何かが倒れてきたわけでもなく、本当に突然、事故に巻き込まれた。マリア・エーレンベルクはその下敷きになって、
消えた。
「…………は、消えた?」
榮太郎は思わず聞き返した。
聞き間違いかと思ったのだ。しかし、ウィスタリアは繰り返した。
「現場には崩落に巻き込まれたと思われる血の跡が残ってたけど、肝心のお母様がいなかった。正確には、服と靴と手に持っていたノートは残っていたのに、体だけがどこかへ消えたそうなの。当然、お父様は困惑したわ。大規模な捜索も行われたし、王都から識者も呼ばれた。この世界には便利な魔道具があってね、日本の警察と同じくらいのことはできるの。それでも、お母様はどこかへ移動した形跡はなくて、崩落に巻き込まれた後に忽然と消えたとしか言いようがなかった。さっきは事件って言ったけど、死亡事故か、行方不明かさえ分かってないというのが正確なところなの」
「あの場所で、そんなことが……? 」
左半分を失った廃墟を思い出しながら、榮太郎は眉を顰める。
しかし、ウィスタリアは「ここからが深刻なの」とさらに続けた。
不可解な事件に、エーレンベルク内でも意見は分かれた。状況証拠から鑑みて死亡事故として扱うしかないのではという意見と、本人が見つかっていない以上行方不明者として捜索を続けるべきという意見。どちらもそれなりに筋が通っていたが、そこへ第三の可能性を訴えたのが――、ウィスタリア・エーレンベルクだった。
佐々木双葉ではない、本物の方である。
彼女の主張は、何者かがマリア・エーレンベルクを故意に殺害、もしくは誘拐したに違いないというものだった。建物が何の原因もなく崩れるとは思えないし、仮にそうだとしても、マリアの魔術の腕ならば防ぎうるはず。つまり、誰かに襲われたのだと。
しかしながら、それを裏付ける証拠が出てこなかった。
第三者が関与していたならば、痕跡が残る。それがない以上、他殺と断ずることは出来ない――、と諭された。しかし、ウィスタリアは納得しなかった。
1年後に捜索が打ち切られ、2年後に本人不在の葬式が行われてからも、ウィスタリアだけは犯人探しを続けた。それほどまでに彼女は母を愛していた。母が生きているならその可能性に縋りたい、そうでないなら絶対に犯人を許さないというほどに。
その様子は徐々に常軌を逸し始めて、元気だったころの面影を失い、書庫に長時間閉じこもるようになった。
そしてある日、今度はウィスタリアが失踪した。
残されたのは置手紙ひとつ。そこには『普通の方法で見つからないなら、私は堕ちてもかまいません』と、書かれていた。
〇
そこまで話して、ウィスタリアは一度言葉を切り、榮太郎の反応を待つ。
しかし、榮太郎には置手紙の意味が分からなかった。
本物のウィスタリアが書庫にこもって何をしていたのか、どこへ堕ちるというのか――。
重く、痛々しく、まるで身を切るような声で言う。
「この世界には、触れてはならない禁術があるの。そこに手を出したらもう戻って来れない。ウィスタリア・エーレンベルクは消えた母を求めて、闇に堕ちてしまったのよ」
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