第13話 忘れ物
授業終わりのチャイムが鳴り、教師が退出していく。
その背中を見送った後、生徒たちは各々次の授業への準備をし始めた。そんな中、女生徒同士のこんな囁き声が聞かれた。
「今日の授業さぁ、なんか……」
「あ、やっぱり思った?」
「いつもより声が大きくて聞き取りやすかった。相変わらず目は合わなかったけど」
「ね」
「何かいいことでもあったのかな、松野先生」
○
職員室の椅子に座り、次の時間は授業がないことを再確認して、榮太郎はフーと息を吐く。正面の壁にある大きなホワイトボードには、マグネットで日付が貼り付けられていた。
【 5月12日(水)】
それは今日が、異世界に迷い込んだ翌日であることを示している。
11日の夜にロッカーの中へ迷い込んだ榮太郎は、日付を超えたすぐ後に帰ってきた。計算するとおよそ3時間。
単純計算で、異世界での1日がこちらの世界の1時間ということになるが、ウィスタリアの話を聞く限り、この計算式はおそらく変動する。とにかく、無断欠勤になっていないことに胸を撫で下ろすばかりだ。
榮太郎は、周りを見回す。
3限目が始まったあとの職員室は閑散としていた。
「プカ・プリカ」
すこしの期待を込めて、口の中でそう唱えてみた。
しかし、机の上のボールペンは微動だにしない。
儀式によって目覚めたはずの魔法は、世界を隔てたこちらでは通用しないようだ。
残念なような、夢から覚めたような、不思議な気分だった。残業中に見た夢なのではないかという気にさえなってくる。
しかし、そうではない証拠が一つ残っていた。
引き出しを開けて、紐で束ねられた冊子を取り出す。皺だらけのページを捲ると、中はびっしりと文字で埋まっている。
だが、もうそれを読むことはできない。
裏表紙に書かれていたはずの『フログ』という名前も、今はミミズが這っているようにしか見えなかった。
(これは……、いくら何でもまずいよなあ)
緑髪の少年の姿が思い起こされ、榮太郎は頭を抱える。
フログに貸してもらった大切な教科書を、左手に持ったまま扉を開いてしまったのだ。意図的ではないにしろ時空を隔てた別の世界に持ち帰った行為は、客観的に見てかなり悪質な借りパクと言える。教師としての面子が立たないくらいに。
この教科書を返さなければ。
そのために、またあちらの世界へ行かなければ――。
元々榮太郎は、一度こちらへ戻って来られたらそれっきりだと思っていた。
異世界の日々はたった数日でも刺激的で得難い経験だったが、あくまで榮太郎が生きるべきはこちらと考えていたからだ。あるいは、もしまた運よく行けたらいいかもね、と。
しかし、そんな訳には行かなくなった。
エーレンベルク邸の人々へ何も告げずに帰ってしまったことも心残りの一つだ。
時間の流れ方が違うので何とも言えないが、既に榮太郎の不在に気づいて探し始めているかもしれない。
加えてもう一つ、スマホを置いてきたという問題もある。
まだ買って1年ちょっとしか経っていない新機種だ。買い替え費用だって馬鹿にならないし、仕事にも差し支える。なんとか回収したいところだ。
だからと言って、必ずしもすぐ戻れるわけではないというのが厄介な点だった。
ウィスタリア曰く、クローゼットの気まぐれ――あるいは、半壊した建物の気まぐれか?――によって、あちらとこちらは稀に通じ合う。好きな時にいつでも使える便利道具ではないのだ。前回は深夜の残業中にたまたま見つけたが、次も同じようなタイミングとは限らない。昼間にロッカーが光っても気づかないかもしれない。
すると、どんどん機会を逃すことになり……。
そう榮太郎が唸っているところへ、急に声がかけられた。
「なんです、それ」
「!」
振り返ると、ウェーブがかった長髪の女性が覗き込んでいる。榮太郎は慌てて教科書を引き出しにしまった。
女性は怪しむように目を細めた。
「いやだ、松野先生。なにか変なものでも見ていたんじゃないでしょうね」
「ち、違いますよ。ええと、甥っ子から預かった本をちょっと」
「本当ですか?」
ふふふと微笑みながら隣の席に腰掛けたのは、同じ数学担当教員であり榮太郎よりも2年先輩の、梅ヶ池乃々だった。穏やかな印象と美しい容姿から『橋月高校の白百合』と例えられ、かといってそれを鼻にもかけず、教師生徒や保護者からの信頼も厚い。教壇に立つと上がってしまう榮太郎をフォローしてもらったこと数えきれず、誰よりも頭が上がらない存在である。
榮太郎は誤魔化すように話題を変えた。
「梅ヶ池先生も、3限目はお休みですか」
「苗字呼びやめてくださいって言ってるでしょう。おばさんくさくて嫌いなんですから」
「乃々先生も」
「そうです。珍しいですよね。――あ、よかったらこれ。安物ですけど、すごく美味しいんですよ」
乃々は榮太郎に紅茶の入ったカップを手渡した。
よかったらと言いつつ、榮太郎の分まで既に用意しているあたりがさすがだ。フルーティな香りが鼻腔をくすぐった。
「いただきます」
カップを受け取り頭を下げたところで、ふと思い出したように乃々が言う。
「昨日は大変だったみたいですね」
「えっ」
思わずカップを持った手が揺れた。
乃々はからかうように続けた。
「残業中に居眠りしちゃったんでしょう? だめですよ、ちゃんと家に帰って寝ないと。この職業はそれでなくてもブラックなんですから」
「――ああ、はい、そうでした。気をつけます」
退勤時間について言及された榮太郎が、そういう言い訳にしたのだったことを思い出す。軽い注意はされたものの、それ以上怪しまれることはなかった。次の機会は、退勤打刻をしてからにしなければ……。
と、そこまで考えて、ふと榮太郎は思いつく。
「乃々先生は、小学校の算数カリキュラムはご存知ですか?」
「小学校の算数?」
今度は乃々が驚いた表情を浮かべた。
当然である。数学教師同士で意見を交わすにしても、高校範囲以外のことを話すことは少ない。せめて中学範囲の復習を促すくらいだ。
榮太郎はそれらしい理由を付け足した。
「甥がちょうど足し算や引き算を覚えたところで、次はどういう順番で教えていくんだったかなと思いまして」
「なるほど、すると小学校1年生くらいですか。えっと、ちょっと待ってくださいね」
乃々はふんふんと頷いた後に、自分の鞄へ手を伸ばす。
そしてピンク色のメモ帳を取り出して、何かを探し始めた。
「あったあった。ええと、1年生で足し算引き算。2年生で掛け算九九と単位。その次が割り算という順序じゃないかと思います。あ、あとは時計の読み方ですね。甥っ子ちゃんはどうですか? 時計は苦手な子が多いって聞きますけど」
「なるほど……、あ、すみません。メモしていいですか」
「どうぞどうぞ」
そう言って、乃々はメモ帳を机に広げてくれる。
小さくて丸っぽい文字がなんとも可愛らしかった。実際、配属仕立ての頃に板書のコツを教えてくれたのも彼女だった。
「聞いておいてなんですけど、なぜこんなことまでメモしてあるんですか?」
「どの情報がいつ必要になるか分からないですから、細かいことも控えておくことにしてるんです。こういう時に役に立てるでしょう?」
「なるほど、勉強になります。ありがとうございました」
内容を写し終えた榮太郎は礼を言い、席を立った。
それを見上げて、乃々が首を傾げる。
「……どこかへ?」
「ええ、せっかくなので農業関連の本も見ておこうと」
「の、農業関連? なぜ?」
「えーっと……、そう。姪っ子がですね、野菜作りに興味があるみたいなんで。図書室ならそういう本もあるはずですよね。あ、紅茶もごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
榮太郎はそう言い残し、職員室を出た。
ポカンとした様子でその背中を見送る乃々は呟く。
「急に、親戚が増えたのかしら」
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