第12話 続きのない教科書


3日目にしてようやく、自由に部屋から出る許可が下りた。

しかし、ウィスタリアには別の用事があり家庭教師はお休み。

せっかくならエーレンベルクの街へ降りてみてはどうかと言われたので、そうしてみることにした。


「別に一人で大丈夫だよね」と彼女は言った。


異世界のよく知らない街を1人。

不安じゃないと言えば嘘になるが、教え子にビビってると思われたくない榮太郎は胸を張って言った。


「別に大丈夫だけど?」





結果から言うと、エーレンベルク探索はそこそこ楽しかった。


屋敷からなだらかな坂を下って10分ほどの場所にあるエーレンベルクの街並みは、赤とオレンジの屋根が混ざり合ったヨーロッパ情緒を感じるものだった。

獣人や亜人と思われる人々が歩いていたり、屈強な鍛冶屋のおじさんが刃物を鍛錬していたり、絶妙なセンスの木製家具が店先に並べられていたり、魔法具と呼ばれる用途不明な品物が売られていたり。お金は用意してき忘れたが、見て回るだけで十分楽しいだろうと、


――はじめのうちはそう思っていた。


違和感を感じたのはいつからだろう。

30分ほど街を散策して、大通りの端まで行きついた辺りから、榮太郎は何か変だと思い始めていた。

どうにも、閑散とした印象が否めない。並んだ住宅の数や街の規模から言えば、もう少し往来があってもおかしくないはずなのに、どの道も人影がまばらなのだ。


妙に空き家が多いのだと気付いたのは、もうしばらくしてのことだった。

看板を掲げているのに開いていない店も多い。

活気が感じられないと言うか、シャッター街に近しい雰囲気と言うか。

いや、こんな感想をウィスタリアやノワール候に言ったら失礼だ。今日はたまたまで、いつもはもっと活気にあふれているのかもしれない――、と思いつつ、さらに歩いていると、


榮太郎はいつの間にか通りから逸れて、湖のほとりまでやって来ていた。


視界が開け風景がガラッと変わる。

足元に柔らかな草が生え、風にそよぐ。

遠くまで連なる峰々がくっきりとそそり立っている。景色を邪魔するビルや電柱もない。これだけ壮大でありのままの自然は、日本ではそう拝めないだろう。


散策もほどほどに、あとはここで昼寝して過ごすのもいいか。

そう野原へ転がりかけた時。

視界の端に気になるものを捉えた。


背の高い木々に囲まれ、湖に面するように立つだ。

石レンガを積み上げて造られたそれは、小さな教会のような見た目をしている。エーレンベルクの街並みからは少し距離があり、ぽつんと一軒だけ浮いたような印象があった。


しかし、榮太郎が気になったのはそれが理由ではなかった。

身を起こして、近づいてみる。そして思ったよりも凄絶な傷跡に驚く。


「……うわ、何があったんだこれ」


建物の屋根と側面の部分に、がっぽり大きな穴が空いているのである。

まるで斜め上から巨大な隕石でも降ってきたかのような、痛々しい傷跡が建物の左側をえぐっていた。正面の扉は歪み、窓は割れ、雨風さえまともにふせげそうにない。

周りは細い木々が生い茂っているばかりで倒木の恐れはないだろうし、岩が転がってくるような傾斜もない。

建物が老朽化しているわけではないが、半壊してから少なくとも数年は経っている。

橋月高校の旧校舎と同じく、面倒だから放置されているのだろうか。


そんな風に榮太郎が建物を観察していると、ふと、横から視線を感じた。


「?」


木陰から1人の少年がこちらを見ている。

年齢は小学生高学年くらいだろうか、光沢のある緑色の髪に同じ色の瞳。両手で抱くように冊子を抱えている。そのタイトルをチラと見て、榮太郎は思わず言った。


「……算数?」


「!」


束ねた紙に手書きでそう書いてある。

かなり使い古したのか表紙は手垢で黒く汚れていた。

少年は少し驚くような顔で榮太郎を眺めた後、か細く搾り出すような声で言った。


「ひょっとして、マリア様のお知り合いですか……?」


唐突な質問に、今度は榮太郎が驚いた。


「まりあさま?」


少年はコクリと頷き、街の北側――、エーレンベルク邸がある方を見た。

そこで思い当たる。


「まりあさまって、マリア・エーレンベルクの事か」


「はい」


マリア・エーレンベルク。

ウィスタリアの母であり、ノワール候の妻にあたる人物。

肖像画に描かれた、真っ白の髪の美しい女性。


しかし、3日前にやってきた榮太郎がお知り合いであるはずもない。何故なら彼女は、5年前に亡くなっているからだ。

そもそも、エーレンベルク邸に厄介になっていることさえ知らないはずの彼は、何故榮太郎が知り合いかもしれないと思ったのだろうか。


そう訝しむ榮太郎の心中を察したのか、少年は小さく頭を下げた。


「違ったらごめんなさい。この教科書のこと、知ってるみたいだったから」


「ああ、すまん。馴染み深いタイトルが書かれててつい気になってしまって。

 ……ん? つまり、その教科書がマリア様の?」


「そうです。マリア様に貰いました」


算数の教科書を、侯爵夫人に貰った。

なぜだろうかと榮太郎は内心首をかしげるが、中身には興味があった。


「よければ見せてもらってもいいかな」


「……い、いいですけど、破れやすいから気を付けて」


その言葉からも、手渡す動作からも、少年がどのくらい大切にしているかが分かった。榮太郎は紙を紐で束ねた手作りのそれを慎重に開く。

そこには『算数』というタイトル通りの内容が書かれていた。

物の数え方、足し算、引き算、時計の読み方。それらが端的な説明と、可愛らしい図柄によって示されている。


背表紙には『フログへ』と書かれていた。

その文字を指して、榮太郎は尋ねる。


「これは君の名前?」


「はい」


「つまりこれは、君専用に用意されたものなのか」


榮太郎が感心するように言うと、フログは自慢げな表情で頷いた。

松野榮太郎は高校の数学教師だが、教員免許を取る過程で小学生向けの教科書を調べたこともある。そう言った経験から鑑みた時に、これはとても良い教科書だった。良い、というよりも、愛のある教科書と評価した方が適切かもしれない。

50ページはくだらない手書きの教科書を、たった一人の為に用意するなんて。


榮太郎がページをぱらぱらとめくるのを、フログは横から眺めていた。

どのページにも計算の跡が残っている。

最後のページの、最後の問題まできっちりと。


「……ほんとは、続きを教わりたいんです。この教科書はもう何十回も読み返したから。みんなもそうだって。他の街に移っちゃった子もいるけど、レトミーもティティも、たまにここに来ちゃうって言ってました」


『ここに』という部分に反応し、榮太郎とフログは同時に後ろを振り返った。

そうして腑に落ちる。なぜフログが使い古しの教科書を持って、この廃屋を訪ね、榮太郎に興味を示したのか――。


ここはかつて、フログたちの学校だったのだ。

マリア・エーレンベルクが子供たちに勉強を教えていた場所。

半壊の古びた建物が、急に榮太郎にとって身近なものに感じられた。


「ど、どうかしましたか」


フログが心配げな表情で榮太郎の顔を覗き込んだ。


「いや――」


生前のマリア・エーレンベルクについても気になるが、それはまた折を見てウィスタリアに尋ねればいい。

そんな事よりも問題なのは、フログがこの教科書の続きを求めていることだった。彼、もしくは他にもいるらしい子供たちは、5年間も学びを停滞させてしまっているのではないか。意欲はあるにもかかわらず、環境が用意されていない為に、知識を吸収するべき貴重な時期を無為にしてしまっているのではないか。


それは、非常に由々しい事態ではないか。


榮太郎は思いついたように立ち上がり、建物を覗き込んだ。


扉はへしゃげているが、開くことは出来そうだ。机や椅子や教壇はさすがに見る影がないが、そう言えばここへ来る途中に家具屋を見た。あとはやはり黒板が欲しい所か。


思案顔で悩む榮太郎の横にフログが来て、怪訝そうに見上げた。

しかし、何か口を挟むわけでも考え事を邪魔するわけでもない。彼もまた、心の中でひょっとしてと思っているのかもしれなかった。


「――――」


榮太郎は、ドアノブに手をかける。


きっと5年前、マリア・エーレンベルクがそうしたように。





ガチャリ。


次の瞬間、まるでカットを挟んだように目の前の光景が切り替わったので榮太郎は驚いた。昼下がりの湖畔にいたはずの榮太郎は、なぜか薄暗い木造の屋内にいた。

後ろを振り返る。そこには、年季の入った箒とすすけた雑巾だけがかかっていた。


橋月高校旧校舎のロッカーに戻ってきたのだと気付くには、時間がかかった。



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