第10話 夜の食堂
治癒術。
防御術。
浮遊術。
基礎魔術の修得は、1日がかりだった。
逆に、頑張れば1日で覚えられるくらいの難易度だったとも言える。
手をかざし、呪文を唱え――、少し体力を消耗する。
感覚的には筋トレに近い。その場で一度ずつジャンプをし、だんだんと高い場所に手が届くような感覚。高く飛べるようになると、体への反動も大きくなるという訳だ。
「必要なのは反復だけど、無理をしすぎるのもよくない」とウィスタリアが教えてくれた。よほどの才能がない限りは、毎日コツコツ練習する以外に上達の道はない。
榮太郎もご多聞に洩れず、地味にコツコツが必要なタイプらしかった。
魔術訓練に疲れたら、ウィスタリアの勉強の面倒を見る。一区切りついたら、また訓練を再開する。そうして、時間はあっという間に過ぎていった。
「ヘリベルトがね」
「ん」
一緒の部屋で夕食をとっていたウィスタリアが、ふと話題を変えて言う。
「料理を届けるついでにでも、挨拶がしたいって」
「ああ、俺も挨拶したいんだよ。この料理めっちゃ美味しいもん。正直言うと、異世界の料理がどんなものか結構心配してたんだけど、さすが貴族お抱えの専属料理人だなって」
「ほんと、あっちだったら高級レストランで何万円もしそうでしょ。ヘリベルトには、また今度ねって伝えてあるから、会ったらお礼を言ってあげて」
「ヘリベルトさんはこのお屋敷で長いんだっけ?」
「長い。確か8年くらい。でも若いよ。先生より5歳上くらいかな?」
「へえ」
榮太郎は最後の登場人物である料理人の姿を想像しながら、絶品のディナーを頬張った。
○
廊下の方から、ボオンボオン、と0時を告げる音が響く。
それが鳴り止むと、エーレンベルク邸はふたたび水に浸したように静かになった。
榮太郎はベッドに寝転がりながら、天井を見上げ手を伸ばしている。
「プカ・プリカ」
呪文を唱えると、手のひらの先に鉛筆がふわふわと浮かぶ。
動きはまだぎこちないが、それでも円を描くくらいは出来るようになった。
ウィスタリアの言う、誤魔化せる程度の魔法は扱えるようになったのだろうか。
せっかく異世界にきたのだから引きこもりっぱなしはつまらない。出来れば早めに異世界探索を行いたいものだ。
と、考えていたちょうどその時。
廊下の方で、人が歩いてくる気配がした。
足音はドアの前で静かに止まる。
なんだろうと身を起こすと、浮かべていた鉛筆がベッドの上に落ちた。
「起きてるかい?」
呼びかけられたそれは、男性の声だった。しかしノワール候ではない。
そうすると、消去法で1人しか残っていない。
「もしかして、ヘリベルトさんですか?」
「ああ、よかった」
「僕に何かご用ですか?」
「どうしても話がしたかったんだ。無理にとは言わないけれど、よければ食堂まで来てくれ。この廊下を右側に出て突き当たりだから。それじゃ、待ってるよ」
そうとだけ言い残すと返事を待たずに、足音は元来た方向へと戻っていった。
榮太郎は首を傾げる。話がしたいというところまでは分かる。しかし、こんな夜更けにという点が引っかかる。
それでも、既に3食もお世話になっている相手の要望に応じないのはさすがに失礼だ、と榮太郎はベッドから立ち上がった。
○
クロスのかけられたテーブルと、火の灯っていない燭台。
花瓶に生けられた花からは、ほのかに甘い香りが漂っている。
「――こんな夜更けに申し訳ないね」
食堂の奥から声がした。
窓から差す月明かりの元に人影が立っていて、こちらへ軽く会釈する。
「いえ」
榮太郎は会釈を返しながら、暗がりの中で相手の顔を窺った。
金髪を後ろに結えた男性――、20代後半くらいだろうか。モデルのようなすらっとした長身に、モデルのように整った顔。パリコレのランウェイを歩いていてもおかしくない見た目だが、彼が着ているのはコックコートだった。
「はじめまして、この家でコックを務めているヘリベルトだ。君がこの屋敷に来た理由は聞いたけど、貴重な男性の同僚なんだからぜひ仲良くなりたいと思って。――どうかな、具合は」
「こちらこそ挨拶が遅れてすみません。松野榮太郎です。おかげさまでだいぶ良くなりました。あと食事も、とても美味しかったです」
「美味しかったのなら何よりだ。ふうん、君がエータロー君か」
ヘリベルトは榮太郎をじっくり眺めまわした。
榮太郎も榮太郎で、相手をじっくり見ていた。ウィスタリアから聞いていた評価がいまいち良くなさそうだったからだ。しかし、今のところ変わっているようには見えない。
「家庭教師は大変だろう」
「いえいえ、まだ2日目でまともな授業すら出来ていませんから」
「そうかい? そのわりには、ウィスタリアお嬢様は君のことをだいぶ慕っているようだね。今日も甲斐甲斐しく料理をお運びになったり、他の使用人が干渉しないように注意したり」
なかなか鋭いところをついてくる、と思いながら、榮太郎はそれを表情に出さないように努めた。
「そこは、お嬢様のお人柄ではないですか」
「そう、確かにお嬢様は誰にでも優しく素敵な女性だよ。本当に、よくぞあそこまで心を取り戻してくださったと思う」
「――心を取り戻す?」
榮太郎は思わず聞き返す。
ヘリベルトは顔に手を当てて、重々しく頷いた。
「一時期のお嬢様の様子は見ていてあまりに痛々しかった。まるで、この屋敷全体から色が失われたかのようだった。マリア様とお嬢様はまさしく、エーレンベルクの太陽だったんだ。実際、あの一連の騒動でたくさんの人がこの土地を離れてしまった……」
何のことか分からなかったが、恐らくウィスタリアが語るのを留めた部分ではないか、と榮太郎は思った。一連の騒動、心を取り戻したと言うのは、ウィスタリアと佐々木双葉が入れ替わったことと関係があるのだろうか。
「すまない、別に昔話をしたい訳じゃない。むしろ、古傷を掘り起こさないようにとお願いをしているくらいでね」
「……つまり……?」
「僕は、美しい花々の上に二度と影を落としたくない」
ヘリベルトが一歩前に出る。
すると、今まで後ろに回して見えなかった右手が見えた。その手にはギラっと光る物が持たれている。
「えっ」
包丁だ――、と理解するまでに数秒かかった。
今どこかから取り出したという感じではない。最初から持っていたのだ。ヘリベルトは迷うように体を捻る。
「僕だって悩ましいんだ、君の評価が真っ二つだから。お嬢様やレミンちゃんからの評価は高いようだ。お嬢様からは少し高すぎるようにも見えるが、それはいい。だが、ロサちゃんとロップイヤーさんは相当に君を危ぶんでいる。第一印象が良くなかったらしいね。……まったくスタンスを取りづらいことこの上ない。僕は全員の味方でいたいのに……」
「……? 全員の味方とは、誰のことですか?」
「勿論、すべての女性のことだよ」
なんだって……? と、榮太郎は眉を顰めた。
下手に刺激すると危ないと思いつつ、聞かずにはいられない。
「先程言っていた意見が真っぷたつというやつ、ノワール候が勘定に入っていませんでしたが」
「そうだね。でも僕の勘定でいくと半々なんだ。ノワール侯にお仕えはしているが、僕の信条は女性にこの身を尽くすことにある。正直に言おう。言っておこう。僕は君がどこの誰だろうと、どんな事情があろうと、本質的には興味がない。何故なら僕が興味があるのは女性だけだからだ。だが勘違いしないでほしい。これは下心あってのことではない。僕は女性全体を等しく愛している。尊く思っている。この世に女性が存在していることを賛美している。美しく、儚く、息をしているだけで芸術的だ。ゆえに、この屋敷のレディの厚意に対して、物理的、精神的に危害を加える可能性があるのなら、僕は君の存在を許容できない。お嬢様を傷つけてみろ、レミンちゃんを馬鹿にしてみろ、ロップイヤーさんに失礼をはたらいてみろ、ロサちゃんに手を出してみろ。僕はこの地の果てまで追いかけて、君を排除する。――それが僕の矜持だ」
まくし立てるような言葉の雨に面食らい、よろけそうになる。
飲み込むのに労を要するが、とにかく熱量だけはこれでもかと伝わってきた。榮太郎は、なんとか絞り出すように応えた。
「特定の誰かではなく、女性全体を尊重されている、と」
「今回に関して言えば、この屋敷の女性たちをだ」
「そ、そのお考え自体は素晴らしいと思います」
「ありがとう、嬉しいよ」
なぜか感謝されてしまった。
包丁を握りしめた、変な人に。
ウィスタリアが言っていた「気持ち悪い、ちょっと変わってる」という評価は、まだ全然オブラートに包まれていたらしい。
「それでだ」
「っ、はい」
思い出したように、榮太郎に包丁を向けなおすヘリベルト。
「エータロー君は誓えるのかい?」
「この屋敷の女性に危害を加えないことを、ですか?」
「そうだ。あらゆる意味でね」
誓うも何も、危害を加える気など毛頭ない。
だけれど彼が言いたいのは、万が一のことがあれば覚悟しておけ――、ということなのだろう。大事なものを守るための威嚇の姿勢。この屋敷の使用人は、よくよく主人思いである。
エーレンベルクの人々が負った傷という部分はわからない。
しかし、榮太郎は深く頷いてから言った。
「誓います。僕にも、教職に就くものとして矜持がありますから」
ヘリベルトはしばらく榮太郎の眼を覗き込むようにしてから、包丁をテーブルに置いて、手のひらを見せた。
「ならばよし、僕は君の存在を許容しよう。味方だなんだと言うつもりもないけれどね。まあ、仲良くできる限りは仲良くやっていこうじゃないか、僕は別に女性以外が嫌いと言うわけじゃないんだ」
思いがけない話し合いとなったが、とりあえずこれで、エーレンベルク邸にいる全員に挨拶を終えたことになった。
まだ完全に居場所を得た訳ではない。
良くも悪くも、まだ試用期間という感じだなと榮太郎は思った。
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