昨日の一文字

佐倉有栖

昨日のひらがな

 御食事処と書かれた看板が、街灯に照らされて闇に浮かび上がっていた。

 元は白かったであろう看板は茶色く汚れており、端がところどころ欠けている。このあたりに住んで三年以上は経つが、この辺に食事ができる場所などない。すでになくなっている店舗の宣伝を朽ちるまで続けている看板に、鬱々とした気持ちが広がっていく。


 役立たずという言葉が、脳裏をよぎる。

 つい数刻前に、自身に投げつけられたセリフだった。


「本当、役に立たないなお前」


 ため息交じりに呟かれた一言は、それほど深刻な感情を含んでいるわけではなかった。ポロリと本音が零れ落ちてしまった、そんな響きだった。それ故に、深く心に刺さった。

 悪意のある言葉を受け流すことは慣れていた。しかし、漏れ出た本音を受け流すことが出来ずに、まともに受け止めてしまった。

 表面上は笑顔で無難な返答が出来ていたと思う。その時に何と言ったのかは覚えていないが、その後に何も言われなかったことから、上手く切り抜けられたのだろう。


 つまらないミスを犯したのは自分で、叱られることは覚悟していた。役に立たないという一言だけで済んで良かったのだ。そう自分を納得させようとするが、心の奥底から湧き出る反発心が言い訳を連呼する。

 ほんの少しのミスなのに。まだ修正ができる段階なんだから、そんな言いかたしなくても良いのに。他の人はもっと重大なミスを犯していたのに。

 黒く淀んだ感情が心の中を支配し、家に帰っても眠ることができなかった。早く寝て忘れてしまおうと思えば思うほど、目は冴えた。

 一時間経ち二時間経ち、寝返りに飽きたころにようやく諦めて起き上がった。少し散歩でもすれば気が紛れるかもしれないと、パーカーを羽織って外に出たのは、日付が変わるころだった。


 寝静まった街を歩くのは、久しぶりだった。家々の窓に明かりはなく、玄関口の常夜灯と街灯だけが、道を淡いオレンジ色に染めていた。空には切った爪のような薄い三日月が浮かんでいるが、光はほとんど届かない。

 歩いていればモヤモヤとした気持ちもおさまるかと思ったのだが、冷たい夜風は余計に心を頑なにしてしまったようだ。


「役に立たない看板」


 声に出して呟く。

 自分が言われて嫌だと思ったことを人に言ってはいけない。そんな道徳めいた言葉を思い出すが、相手は看板なのだから何を言っても良いだろう。

 もっと大きな声で言えば、胸につかえる感情も消え去るかもしれないと息を吸い込んだところで、後ろから声をかけられた。


「あら、ずいぶんと酷いことを言うのね。この子はこの子なりに、役に立っているのよ。この子がいるからこそ、この街灯が見つけられるんだから」


 よく響く低音に似合わない、しっとりとした女性のような口調だった。

 ビクリと肩を震わせて振り返れば、暗闇から背の高い男性が現れた。白いワイシャツの胸元で、ターコイズ色の石がついたループタイが揺れる。夜の散歩者にしては、随分とキッチリした格好だった。


「急に声をかけてごめんなさいね、驚かそうと思っていたわけじゃないのよ。あと、こう見えても怪しいものではないからね。……なんだか、自分で怪しくないって言うと余計に怪しいわね。そんなこと言う人って、大抵は怪しい人間だものね」


 でも、本当に怪しくはないのよと、言葉を重ねる。

 一度は警戒して身を固くしたが、ニカリと歯を見せて笑う顔は少年のようで、自然と肩から力が抜けた。


「こんな夜遅くに、どうしたの? もしかして、あなたもあれを見に来たの?」

「あれ?」

「あれよ。あの街灯の下に、見えない?」


 男性の細い指が、看板を照らす街灯に向けられる。吸い寄せられるように見上げ、ゆっくりと視線をおろしていく。今は無き御食事処の看板の下、丸く切り取られた地面の上に何かが落ちていることに気づいた。

 小さなそれは、最初は虫かと思った。小指の先ほどの黒い何かが、輪の中で動いている。右へ左へ、軽快なステップを踏むソレに目を凝らす。

 よく知っているはずなのに、ソレが何なのか、すぐにはわからなかった。

 目をつぶり、もう一度よく見てからソレを口にする。


ですか?」

「そうよ、よ」


 ソレは、ひらがなのだった。より正確に言うなら、細い手足が付き、小さな剣を持っただった。

 の前には、同じように手足がついて小さな斧を持ったが屈伸運動をしている。


「な……なんで、ひらがなが動いてるんですか?」

「難しいことを質問するのね。逆にきくけど、ひらがなが動かないと、何で思っていたの?」

「だって、ひらがなですよ?」

「ひらがな差別?」

「違います! なんで文字が動いているのかって話です!」

「そりゃ、動くわよ。だって生きているんだから」


 全くかみ合わない会話に恐怖を感じたとき、カンと短い音が鳴った。ゴングのような音に目を向ければ、が武器を片手に戦っていた。

 が鋭い突きを繰り出し、がそれをかわすと両手で斧を振り上げる。力ののったひと振りはに当たることなくアスファルトにぶつかり、跳ね返される。華麗なステップでよけたが素早くの背後に回り、剣を横に薙ぎ払った。

 の体が真っ二つに割れ、バラバラになったがアスファルトに崩れ落ちる。誇らしげに腕を突き上げるの周りに、暗がりからわらわらとひらがなたちが集まってくる。


「一回戦目はの勝ちね。まあ、順当と言えば順当かしら?」

「あれ、何やってるんですか……?」

「何って、見たままよ。昨日、一番人の心を動かしたのはどの言葉だったのかを決めてるのよ。ここはひらがなの会場で、少し行った先にはカタカナと漢字の会場があるわ。外国文字の会場は結構離れたところね」

「決めて何になるんですか?」

「ここで今夜の一位になれば、暫定王者として明日も残ることができるの。一か月後に王者だったひらがなは地区予選に出られて、さらにそこでも勝てば都道府県大会に出られるわ。ずっと勝ち続けられれば、四年に一度開かれる世界大会に日本代表として選ばれるの」

「ひらがながですか?」

「正確には、日本代表は四文字出るのよ。ひらがなカタカナと漢字と、あとは外国文字ね。だいたいはアルファベットが選ばれるけど」

「……ズルくないですか、それ」


 食い入るようにひらがなたちの戦いを見ていた男性が、ふっと息を吐くとこちらに向き直った。今しがたの対戦では、を破った。


「ズルくないわよ、日常的に使っている文字なんだから。イギリスだってスポーツのとき、四地域くらい出てるじゃない。それと同じよ」


 なるほどと妙に納得してしまったが、それとこれとでは話が違うような気もする。

 すでに戦いは二回戦目に入っており、先ほど勝ったに敗れていた。一試合が短いため、ポンポンと進んでいる。


「一番心を動かした言葉を決めるって言ってましたけど、ひらがな一音をそんなに気にしたことがないのですが……」

「ひらがなだけではただの音だけれど、彼らは言葉を代表してきているのよ。例えばあそこにいるは、“本当役に立たないなお前”って言葉を代表しているわ」


 ドキリと心臓が飛び跳ねる。異常な光景を前に忘れかけていた胸の痛みを思い出し、唇を噛んだ。


「どうしたの、変な顔して。……もしかして、この言葉に心当たりがあるのかしら?」

「えぇ。昨日、上司から言われた言葉です」

「まあ、それはそれは。の代表として勝ち進めるくらいなんだから、相当傷ついたんでしょう?」


 同情的に言う男性に、曖昧な微笑みを返す。傷ついたか傷ついていないかで言えば、確かに自分は傷ついていた。けれど改めて言われると、疑問が浮かんでくる。果たして自分は、昨日のを代表するほど傷ついていたのだろうか。


 三回戦目に進んだが苦戦している。はなかなかに強敵で、の持ち前の素早さを生かし切れていない。どんどん中心部から外へと追いやられていき、打つ手がなくなってくる。

 の一撃が、の中心をとらえた。真っすぐに刺さったレイピアに、たまらずにがバラバラに砕ける。


「あぁ、良かったわね! が負けたわよ! あのは優勝候補なのよ。“お前、生きてる意味あんの”のなのよ」


 ゾワリと、鳥肌が立つ。昨日どこかで、そんな言葉を投げつけられて酷く傷ついた誰かがいるのだ。

 途端に、輪の中で戦う文字が、それを観戦するひらがなたちが、悪意の塊のように見えてきて気分が悪くなる。


「あら? どうしたの? もしかして、夜風に冷えちゃった? 顔色が悪いわ」

「こんな……こんな戦い、間違ってます。どの言葉が一番人を傷つけたのかなんて、決めても意味がないです……」

「別に、人を傷つけた言葉を選んでるわけじゃないわ。人の心を動かした言葉を決めているって言ったじゃない」

「でも、優勝候補はだって言ったじゃないですか」

「今夜はたまたま人を傷つける言葉が集まってしまっただけで、素敵な言葉が集まる日もあるのよ」


 を半分に折り曲げてバラバラにするのを見てから、疑惑の眼差しを男性に向ける。男性は困ったように微笑みながらも、ゆっくりと口を開いた。


「人を傷つける言葉って、とても強く心に刺さるんだけど、影響を受ける人数が少ないの。例えばあなたが言われた言葉は、あなただけの心を動かしたでしょう? でも、誰かを感動させる言葉って、そんなに強く人の心に刺さらない代わりに、色んな人の心を揺さぶることが出来るの。優しい言葉ってね、色んな人を経由しながらジワリと広がっていくのよ」


 そこでいったん言葉を切ると、男性が悪戯っぽく微笑んだ。


「ここだけの話、世界大会に出てくるような文字はポジティブな意味を持つものが多いのよ。どんなに強い暴君も、一致団結した民衆の前でなす術がないのと同じように、どれほど強く人を傷つけた言葉でも、多くの人を感動させた言葉の前では敗れるの」


 男性が、崩れて動かなくなった文字たちを集めて掌に乗せた。バラバラになった文字は、元が何だったのか分からないほどに細かくなっていた。


「でも、数十人を感動させる言葉と同じくらい、一人を傷つける言葉があるのも本当」

「どうしたら、そんな言葉をなくすことが出来ますかね」

「難しい話ね。たぶんだけど、なくすことは出来ないわ。どうしても、人は誰かを傷つけてしまうし、相手にその気はなくても傷ついてしまうことがある」


 不意に男性が掌の文字を一つつまみ、口の中に入れるともぐもぐと咀嚼し始めた。ぎょっとする間もなく、残った文字もざらざらと口に入れると「不味い」と一言呟いて顔をしかめた。


「た……食べられる、んですか?」

「食べられるわよ。だって文字ですもの」


 何でもないことのように言って、男性は今しがた敗れたばかりのを掴むとこちらに差し出した。反射的に掌を出せば、崩れたが乗った。


「人を傷つけないように気を付けることは出来ても、傷つかないように気を付けるのは難しいの。でも、優しい言葉をたくさん知っていれば、必要以上に傷つかないようには出来るのよ。そのを食べてみて」


 先ほど他の文字を食べて不味いと言っていた気がするのだが、邪気のない笑顔に圧されて食べざるを得ない状況に追いやられる。意を決して口の中に放り込めば、予想外の甘みに目を見開いた。


「あれ……? 美味しい……」

「そのは、“大丈夫、次はきっと上手くいくって信じてる”のよ」


 誰かが誰かのために言った言葉が、ジワリと心に染み入る。

 に敗れはしたものの、この一言はここまで勝ち進めるくらいに誰かの心を強く揺さぶったのだ。


 白み始めた空を見上げる。夜が明け、新しい朝日が昇るまであと少しだ。

 今日は、を倒せるくらいに人の心を揺さぶる優しい言葉を言えたら良い。そう思いながら、最終決戦に向かうひらがなを見つめるのだった。

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昨日の一文字 佐倉有栖 @Iris_diana

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