三週目と一日②
「ちょっと、どうしたの空渡君!」
倒れ込んでいた僕を介抱すべく、泳いでいたはずの高橋さんが駆けつけてくれた。
「急にどこかに行っちゃったから、慌てて追いかけたんだよ? 大丈夫? ケガはない?」
「ケガは、ない。大丈夫……でも」
周囲が何も分からないままに立ち上がって、もう見えない黄色の水着を探す。
見えない……やっぱり、僕の眼じゃ人を探すなんて出来ないんだ。
★
「エナちゃんがいた? それ本当?」
施設内のお食事処、注文したカレーライスを持つ手を止めて、高橋さんは目をまん丸にする。
メガネの力ってやっぱり凄いな、これが裸眼だったらどれだけ良かったことか。
「普段と違って沈んだ感じの声だったから、気付くのが遅れたけど。でも、間違いなくエナだったと思う」
もう会話練習を終えたはずのエナが、なぜ僕に声を掛けたのか。
それにあの感じ、僕が見えていると思ってエナは足を止めたんだ。
「多分、エナは僕がコンタクトレンズを付けてると思って、声を掛けてきたんだと思う。つまり、エナは自分の正体がバレてもいいと思って声を掛けてきたんだ。それって、もしかするとエナは、僕とまた二人きりで会話がしたいとか、そういう可能性があるんじゃないかな?」
「……どうなんだろうね」
「そうじゃなかったら、わざわざ足を止めて声なんか掛けて来ないよ。大体僕の視力はほとんど無いに等しいんだ、エナから話しかけて来なかったら僕は彼女に気づく事すら出来なかった。それをわざわざ声を掛けてきた、しかもクラスメイトではなくエナとして」
間違いない、エナはまだ僕と会いたがっているんだ。
まだ終わりにしたくないって思っていたのは、もしかしたらエナもなのかも。
「あのね、空渡君。あんまり言いたくないんだけど」
カチャっと音を立てながら、高橋さんはスプーンを置いて僕を見る。
水着の上に着たTシャツは身体に張り付いていて、僕はちょっとだけ視線を逸らした。
「えっとね、女の子がプールに来るって、結構な覚悟と準備が必要だったりするの。私は水泳部だから常日頃からケアとかしてるし、準備もすぐに出来るけど、普通はそうじゃない。ムダ毛の処理とか、体調とか、色々と大変なのね。それに空渡君の話を聞く限りでは、エナちゃんってセパレートタイプの水着とか、学校で使う様な水着とか、そういうのじゃなかったんでしょ?」
「……色しか判断出来てないけど、多分、高橋さんが着てるようなビキニタイプだったと思う」
上下が黄色で真ん中は肌色、フリルがついて肩紐を結んでた様な気もする。
どれもちゃんと見えてた訳じゃないから、自信はないけど。
「だとするとね、空渡君。その水着は、誰かに見せる為の水着なんだと思うよ?」
「見せるための水着?」
「うん、どうでもいい人とか家族で遊びに行く時だったら、日焼け防止にラッシュガード着てたりとか、下はサーフパンツにしちゃうとか、とにかく露出を減らすと思うの。でも、エナちゃんは違ったんでしょ? それに、前に空渡君言ってたじゃない、エナちゃん三年生の集まりに一緒に行くんだって。多分だけど、それが今日なんじゃないのかな?」
そう、なのかな。
たまたま、偶然見かけたから声を掛けただけ。
僕という存在は、エナからしたらその程度なのかな。
「空渡君」
「……うん、そう、だよね。ごめんね、急に変なこと言い出しちゃって」
「いいよ、分かってた事だし。ほら、せっかくのカレーなんだから、食べちゃおうよ」
優しい温かみのある笑みを浮かべると、高橋さんは止まっていた手を動かし始める。
僕も食べないと、まだまだ今日という日は長いんだし。
すっかりカレーは冷めてしまったけど、それでも美味しいって思えるのは、きっと――――。
午後は流れるプールで遊んだりとか、二人で滑る浮き輪のスライダーを滑ったりして、あっという間に午後四時を回ろうとしていた。
「なんか、やっぱりこの時間になると水が濁ってくるよね」
「どうしてもね、今日は人が多かったし」
メガネを外した状態でこんなにも長い時間過ごしたのは、生まれて初めてかもしれない。
流れるプールで棒型の浮き輪に掴まったまま、二人で適当に流される。
「ねぇ、空渡君」
水の中を蹴りながら、高橋さんは僕へと近寄る。
相も変わらずな僕の視力は、近寄る彼女の顔をちゃんとは見る事は出来ていない。
「どのぐらいの距離まで近寄れば、ちゃんと見えるものなの?」
「どのぐらいって言われても……」
「一回試してみよっか」
ちゃぽんっと水の中に潜ると、彼女は僕の前から顔を覗かせる。
浮き輪一個挟んで見つめ合っているのだろうけど、はっきりとは見えないままだ。
「試すって、どうやって?」
「近寄るから、私の顔がちゃんと見えたら教えてね」
「……え、ちょっと、待って」
僕は相手と拳一個くらいの距離にならないと、ちゃんとは見えないんだ。
それはエナがノートに書いた文字で試してくれたから、分かっていること。
静かに近寄ってくる高橋さんが、段々と鮮明に見えてくる。
水に濡れて頬に張り付いている前髪、僅かに開いた唇、その奥に見えるピンク色の舌。
大きくて綺麗な瞳に、整った眉、全部が美しくて、綺麗だと感じていた。
「さっきの話」
「さっきの話?」
「私だって、見せるための水着なんだよ?」
互いの吐息がかかるくらいの距離で、高橋さんは突然打ち明ける。
競泳用の水着ではなく、ちゃんと僕を意識した水着だったってこと?
「……ごめん、あまり水着、知らなくて」
「にひひ、そういう所も好き」
「好きって、高橋さん」
目の前まで近づいていた高橋さんは、すっと横にそれて僕に抱き着く。
引き寄せられるように身体全体を密着させると、彼女は柔らかな唇を僕の頬に押しあてた。
途端、水しぶきと共に一瞬で距離を取る。
まさにその様は人魚姫といった所以か。
「えへへ、初キスもーらい」
「急に、ビックリしたよ」
「嫌だった?」
「……嫌とかそういうのはないけど」
「じゃあ、もう一回してあげよっか?」
「それは、多分監視員さんに怒られるから、ダメかな」
「なにそれ、変な理由」
「至極
「意味わかんないから、大人しく両頬にキスされればいいんだ!」
「ちょ、高橋さん、やめて!」
結局、両方の頬にキスをされる前に、監視員さんの怒りの説教が飛んできて終わったものの。
来る時とは違い、帰りの高橋さんと僕の距離は、誰が見ても恋人のそれになっていた。
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