三週目と一日①
僕がプールにあまり行かないのは、目が悪いという事も要因の一つだ。
泳ぐ以上、眼鏡を外さないといけない、つまりは何も見えなくなるということ。
「結局、眼鏡外さないといけないのか」
「しょうがないよ、コンタクトもプールじゃ危ないしね」
後で高橋さんに教えてもらったけど、度入の水中眼鏡も存在するらしい。
それがあれば少なくとも見える様にはなるらしいけど、それはたらればの話だ。
★
人でごったがえす夏休み初日、土曜日のプール。
脱衣所で水着に着替えると、僕はメガネを装着したまま、外で高橋さんを待った。
「あ、空渡君、お待たせ」
彼女の二つ名は人魚姫だと、クラスメイトが教えてくれた。
確かにその通りだなと、水着姿の彼女を見て納得する。
細く引き締まった身体に、露出度の高い際立った水着が、彼女の鍛えられた腹筋を惜しげもなく晒していて。胸を強調しすぎない泳ぎに特化したであろう水着は、日に焼けた彼女のなで肩や鎖骨をこれでもかと見せつけてくる。
「先輩にはカットした方がイイって言われてるんだけどね」
高橋さんは長い髪を後ろでまとめて、それを持ちながら眉をハの字にする。
苦笑していても大きい瞳、薄い桃色をした唇から覗く八重歯が小悪魔っぽさを演出していて、高橋美恵という名前が、その名の通り美に恵まれているのだろうなと、名は体を表すという言葉の真実味を、これでもかと実感させてくれた。
それ程までに、彼女は人魚姫にふさわしいと思わさせてくれる。
こんな可愛い子が、僕のことを心配してくれていることに、ただただ感謝だ。
「じゃあ、適当な場所にテント広げよっか」
簡易テントを広げるのは、いつも父さんの役目だった。
実際広げるのはとても簡単で、袋から取り出してぽんと投げれば完成する。
早速中に荷物を置いて、泳ぎに向かおうとする高橋さんだったけど。
僕は、覚悟を決める必要があった。
また、見えなくなる。
平衡感覚すらもまともに保てない僕の視力で、人魚姫と一緒に泳ぐことなんて可能なのだろうか? ただでさえ多い人込みの中で、一瞬でもはぐれてしまったら、もうこの場所に戻れるかどうかだって怪しいのに。
「……その、やっぱり僕は」
「ん? どした?」
「いや、なんでもない」
夏の太陽よりも眩しい笑顔で、彼女は僕を見る。
覚悟を決めないと、何があっても高橋さんなら守ってくれる。
男のくせにそんな考え方でいいのかなって、自問自答しちゃうけど。
「よしっ」
意を決してメガネを外し、裸眼で高橋さんへと向き直る。
だけど、やっぱりというか当然というか。
そこにいるはずの人魚姫は、ぼやけた人型の何かにしか見えなくなってしまっていた。
ついさっきまで見えていた肉体美が何一つ見えていない。
これは人生損してるとしか思えないな。
「泳げないんだから、まずは練習しないとね」
てっきりバタ足みたいのをするのかと思いきや。
高橋さん、自分の手を握って水面に浮かべって指示を出してきた。
さすがに水の中で目を開ける事も出来るし、浮かぶくらいなら出来る。
泳ぎの指導とはいえ、同級生の女の子の手を握ることに抵抗が無かったと言えば、嘘になる。
水の中で触れた彼女の手は、思っていた以上に温かく、柔らかい。
「ダメだめ、腰を曲げずにぴんっと両手足を伸ばして」
下心なんて抱く暇もないほどに、しっかりとした指導が飛んでくる。
腰を曲げずに両手足を伸ばす……か。
ん、意識すると確かに全部曲がってたっぽい。
「まずは浮かぶことからね、泳ぐの前に浮かぶが基本だよ」
体を伸ばして浮かんで……それで、バタ足じゃなくてユラ足だったかな。
足をヒレみたいに動かすのを意識して、上下にユラユラと。
おお、前に進む。
それと同時にぽすんと頭に何かがぶつかった。
前を見ると高橋さんのお腹がある、ビキニの水着だから、腹筋モロだ。
「あ、ごめん、お腹にぶつかっちゃったかも」
「いいよ、ちゃんと泳げてて偉いね」
子供のように頭を撫でられる。
予想外のことに、一瞬何が起こったのか。
「あ、ごめ、ついうっかり。頭撫でるとか、本当にごめんね」
「別に、僕って褒められて伸びるタイプだから。どんどん撫でて下さい」
「そ、そう? じゃあ、遠慮なく」
わしゃわしゃと撫でられると、二人して声を出して笑ってしまった。
その後も時間をかけて僕の練習に付き合ってくれた高橋さん。
僕は結構くたくたになったけど、彼女は全然平気みたいだ。
「今日はありがとう。ずっと練習じゃ悪いから、ちょっとぐらい自由に泳いできたら?」
「そう? でも空渡君、私のこと見失わない?」
「プールサイドに座ってるから、むしろ見失わないで欲しいです」
「あはは、りょーかい。じゃあちょっとだけ泳いでくるね」
長方形の競泳用プールに二人で向かうと、高橋さんはゴーグルを目に装着して泳ぎ始める。
人魚姫、その二つ名の由来は、スタイルの良さだけじゃなかったんだ。
周囲が思わず足を止め見入ってしまう彼女の泳ぎは、本物の競技者の泳ぎ。
人魚のように水中を華麗に泳ぐ彼女は、きっと想像以上に美しいんだろうな。
……見えないけど。
「あの、お一人ですか?」
プールサイドに座っていると、またしても声を掛けられた。
そういえば今の僕はメガネをしていない、こうなるのも必然なのかな。
「ごめんなさい、連れがいます」
「そうなんだ、これ、私の連絡先だから。気が向いたら連絡下さいね」
結構ですって断っても、どうせ置いていくんだろうな。
最近こういうのが増えて、なんだか慣れてきてしまっている自分がいる。
あまり良くない事なんだろうけど、感覚がマヒしてきてるのかも。
「あ」
また一人の女の子が足を止めた。
何かの映画の真似事も、既に経験済みだ。
君の名はって言われても、僕は知りません。
「ごめん、今日は連れと来てるんだ」
「連れ……? 空渡君、見えてないの?」
……ん? 誰だ、この子。
黄色い水着しか認識できない。
僕の方を黙ったまま見ているけど、一体。
「本当だ、高橋さんと来てるんだね」
突如、耳が全てを思い出した。
なんでこの声を忘れたんだ、僕が絶対に忘れちゃいけない声じゃないか!
「エナ!」
「邪魔してごめん」
「いや、高橋さんとは別に!」
奇跡なんだ、この機会を逃すわけにはいかない。
立ち上がり、彼女であろう人影を追いかける。
「エナ、僕は、僕は」
だけど、僕の視力は、平衡感覚すらもまともじゃない僕の視力では。
水着姿という特徴しかない彼女を追うことなんか、出来やしないんだ。
辺り一面が水着の女性なんだ、色でしか判断できない。
しかも黄色って、結構多いよ、なんでこんなに黄色ばっかり。
僕は一体何がしたいんだ。
エナのことをどうしてここまで追い求める。
認識できない段差に足を取られその場に倒れ込むも、それでも諦めきれない。
見えない事がこんなにも辛いだなんて。
「くそっ」
既に側にいない彼女を想い、数度地面を叩く。
意味のない行為だと分かっていても、その手を止める事が出来なかった。
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