三週目と一日①

 僕がプールにあまり行かないのは、目が悪いという事も要因の一つだ。

 泳ぐ以上、眼鏡を外さないといけない、つまりは何も見えなくなるということ。


「結局、眼鏡外さないといけないのか」

「しょうがないよ、コンタクトもプールじゃ危ないしね」


 後で高橋さんに教えてもらったけど、度入の水中眼鏡も存在するらしい。

 それがあれば少なくとも見える様にはなるらしいけど、それはたらればの話だ。



 人でごったがえす夏休み初日、土曜日のプール。

 脱衣所で水着に着替えると、僕はメガネを装着したまま、外で高橋さんを待った。


「あ、空渡君、お待たせ」


 彼女の二つ名は人魚姫だと、クラスメイトが教えてくれた。

 確かにその通りだなと、水着姿の彼女を見て納得する。


 細く引き締まった身体に、露出度の高い際立った水着が、彼女の鍛えられた腹筋を惜しげもなく晒していて。胸を強調しすぎない泳ぎに特化したであろう水着は、日に焼けた彼女のなで肩や鎖骨をこれでもかと見せつけてくる。


「先輩にはカットした方がイイって言われてるんだけどね」


 高橋さんは長い髪を後ろでまとめて、それを持ちながら眉をハの字にする。


 苦笑していても大きい瞳、薄い桃色をした唇から覗く八重歯が小悪魔っぽさを演出していて、高橋美恵という名前が、その名の通り美に恵まれているのだろうなと、名は体を表すという言葉の真実味を、これでもかと実感させてくれた。


 それ程までに、彼女は人魚姫にふさわしいと思わさせてくれる。

 こんな可愛い子が、僕のことを心配してくれていることに、ただただ感謝だ。


「じゃあ、適当な場所にテント広げよっか」


 簡易テントを広げるのは、いつも父さんの役目だった。

 実際広げるのはとても簡単で、袋から取り出してぽんと投げれば完成する。

 早速中に荷物を置いて、泳ぎに向かおうとする高橋さんだったけど。


 僕は、覚悟を決める必要があった。

 また、見えなくなる。

 

 平衡感覚すらもまともに保てない僕の視力で、人魚姫と一緒に泳ぐことなんて可能なのだろうか? ただでさえ多い人込みの中で、一瞬でもはぐれてしまったら、もうこの場所に戻れるかどうかだって怪しいのに。


「……その、やっぱり僕は」

「ん? どした?」

「いや、なんでもない」


 夏の太陽よりも眩しい笑顔で、彼女は僕を見る。

 覚悟を決めないと、何があっても高橋さんなら守ってくれる。

 男のくせにそんな考え方でいいのかなって、自問自答しちゃうけど。


「よしっ」


 意を決してメガネを外し、裸眼で高橋さんへと向き直る。

 だけど、やっぱりというか当然というか。

 そこにいるはずの人魚姫は、ぼやけた人型の何かにしか見えなくなってしまっていた。


 ついさっきまで見えていた肉体美が何一つ見えていない。

 これは人生損してるとしか思えないな。


「泳げないんだから、まずは練習しないとね」


 てっきりバタ足みたいのをするのかと思いきや。

 高橋さん、自分の手を握って水面に浮かべって指示を出してきた。

 さすがに水の中で目を開ける事も出来るし、浮かぶくらいなら出来る。


 泳ぎの指導とはいえ、同級生の女の子の手を握ることに抵抗が無かったと言えば、嘘になる。

 水の中で触れた彼女の手は、思っていた以上に温かく、柔らかい。


「ダメだめ、腰を曲げずにぴんっと両手足を伸ばして」


 下心なんて抱く暇もないほどに、しっかりとした指導が飛んでくる。

 腰を曲げずに両手足を伸ばす……か。

 ん、意識すると確かに全部曲がってたっぽい。


「まずは浮かぶことからね、泳ぐの前に浮かぶが基本だよ」


 体を伸ばして浮かんで……それで、バタ足じゃなくてユラ足だったかな。

 足をヒレみたいに動かすのを意識して、上下にユラユラと。


 おお、前に進む。

 それと同時にぽすんと頭に何かがぶつかった。

 前を見ると高橋さんのお腹がある、ビキニの水着だから、腹筋モロだ。

 

「あ、ごめん、お腹にぶつかっちゃったかも」

「いいよ、ちゃんと泳げてて偉いね」


 子供のように頭を撫でられる。

 予想外のことに、一瞬何が起こったのか。


「あ、ごめ、ついうっかり。頭撫でるとか、本当にごめんね」

「別に、僕って褒められて伸びるタイプだから。どんどん撫でて下さい」

「そ、そう? じゃあ、遠慮なく」


 わしゃわしゃと撫でられると、二人して声を出して笑ってしまった。 

 その後も時間をかけて僕の練習に付き合ってくれた高橋さん。 

 僕は結構くたくたになったけど、彼女は全然平気みたいだ。


「今日はありがとう。ずっと練習じゃ悪いから、ちょっとぐらい自由に泳いできたら?」

「そう? でも空渡君、私のこと見失わない?」

「プールサイドに座ってるから、むしろ見失わないで欲しいです」

「あはは、りょーかい。じゃあちょっとだけ泳いでくるね」


 長方形の競泳用プールに二人で向かうと、高橋さんはゴーグルを目に装着して泳ぎ始める。

 人魚姫、その二つ名の由来は、スタイルの良さだけじゃなかったんだ。

 周囲が思わず足を止め見入ってしまう彼女の泳ぎは、本物の競技者の泳ぎ。

 人魚のように水中を華麗に泳ぐ彼女は、きっと想像以上に美しいんだろうな。


 ……見えないけど。


「あの、お一人ですか?」


 プールサイドに座っていると、またしても声を掛けられた。

 そういえば今の僕はメガネをしていない、こうなるのも必然なのかな。


「ごめんなさい、連れがいます」

「そうなんだ、これ、私の連絡先だから。気が向いたら連絡下さいね」


 結構ですって断っても、どうせ置いていくんだろうな。

 最近こういうのが増えて、なんだか慣れてきてしまっている自分がいる。

 あまり良くない事なんだろうけど、感覚がマヒしてきてるのかも。


「あ」


 また一人の女の子が足を止めた。

 何かの映画の真似事も、既に経験済みだ。

 君の名はって言われても、僕は知りません。


「ごめん、今日は連れと来てるんだ」

「連れ……? 空渡君、見えてないの?」


 ……ん? 誰だ、この子。

 黄色い水着しか認識できない。

 僕の方を黙ったまま見ているけど、一体。

 

「本当だ、高橋さんと来てるんだね」


 突如、耳が全てを思い出した。

 なんでこの声を忘れたんだ、僕が絶対に忘れちゃいけない声じゃないか!


「エナ!」

「邪魔してごめん」

「いや、高橋さんとは別に!」

 

 奇跡なんだ、この機会を逃すわけにはいかない。

 立ち上がり、彼女であろう人影を追いかける。

  

「エナ、僕は、僕は」


 だけど、僕の視力は、平衡感覚すらもまともじゃない僕の視力では。

 水着姿という特徴しかない彼女を追うことなんか、出来やしないんだ。 

 辺り一面が水着の女性なんだ、色でしか判断できない。

 しかも黄色って、結構多いよ、なんでこんなに黄色ばっかり。   


 僕は一体何がしたいんだ。

 エナのことをどうしてここまで追い求める。


 認識できない段差に足を取られその場に倒れ込むも、それでも諦めきれない。

 見えない事がこんなにも辛いだなんて。


「くそっ」


 既に側にいない彼女を想い、数度地面を叩く。

 意味のない行為だと分かっていても、その手を止める事が出来なかった。

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