第8話

 私が拾われたのは「モンタナ」の前だった。


 見つけたのは朝飯を探しに来た野良犬だとサムが言った。


「朝から凄い御馳走にありつけて嬉しかったんだな。大声で鳴いてやがった」


 目覚めたのは、二階の楽屋だった。


 上体を起こそうとしたが全身に火花が駆け巡り、そのままソファへ倒れ込んだ。


「無理すんな。医者もたまげてたぞ、俺はまた本気でタイトルマッチをしでかしたのかと思ったよ」


「奴ら、わざわざここまで運んできやがったんだな」


 幾分まだぼんやりしている頭でサムに訊いた。


「今、何時だ?」


「1時を回ったとこだ。どうする、飯にするか」


「それどころじゃない。ブリュエットさんは?」


「下にいるよ。お前の様子で何があったかわかったようだ」


 なるほど。連中め、まんまと目的を達したわけだ。


 私はもう一度ゆっくりと起き上がった。


 さっきほどではなかったが、立ち上がると、やはり天井がのしかかってくるようだ。


「下へ行く。お前も来てくれ」


 階段を下りるのも一苦労だった。


 ブリュエット氏はステージの前に放心したように佇んでいた。


 この席でジェシィの歌を聞いたのが、もうずい分昔のことのように思える。


 彼は振り返ると、弱々しく微笑んだ。


「ひどい目にあったな。ジェシィは無事かね?」


 一晩で十も老け込んでしまったようだ。


「無事です。店を手に入れないうちは、奴らも手を出せません」


「良かった。キミのあの様子では、もうダメかと思ったが」


「これは私が使いの者を痛めつけた腹いせです。事件とは関係ない」


「こいつは時々こうして自分の強さを証明したがるんです」


 サムが横から口を出した。


「悪い癖だ」


 我々は楽屋へ引き返し、バニヤーから提案のあった取引について話し合った。


「権利書を渡しても彼女が無事に戻る保証はない。でも、渡さなければ確実に殺すでしょう」


 ブリュエット氏は唇を噛んだ。


「ジェシィは言ってましたよ。自分に構わず店を続けて欲しいとね」


「彼女ならそう言うだろう。あれはそういう娘だ」


 ブリュエット氏は言うなり、身を翻して出て行った。


 階段を下りる足音が聞こえた。


 サムは黙って窓の外を眺めていたが、ポツンと呟いた。


「嫌な仕事だ」


 私は何も言わず、ブリュエット氏が出て行ったドアを見つめていた。


 引き返してきたブリュエット氏は、右手にマニラ封筒を携えていた。


 中の書類を取り出し、テーブルに並べた。


「これが権利書だ」


「やはり、渡すんですね」


「うむ。ジェシィの命と引き換えなら是非もない。店はなくなっても、友と彼女の夢は叶う。死んだあいつも許してくれるさ」


「ジェシィの気持ちはどうなるんです?」


 私は書類を封筒へ戻しながら訊ねた。


「あなたを犠牲にしてまで、自分の夢を叶えたいとは思ってないでしょう。それに、奴の経営する店はどれもこれもクラブとは名ばかりで、中で行われるのは売春行為そのものだ。この店がそうなってもいいんですか?」


「だが、それでは……」


 私はブリュエット氏に封筒を返した。


「ジェシィを無事連れ戻し、奴らはムショへ叩き込む。でなきゃ、痛めつけられた私の気がすまない」


「俺もそれを考えてた」


 外を見ていたサムが、初めて振り返った。


「あの橋は街外れにあって、長さは300m足らずだ。何とかなる」


 私は肯いた。

「車が二台要る。それとブリュエットさん、あなたにも危ない橋を渡ってもらわなきゃなりません」


 ブリュエット氏は驚いたように私とサムを交互に見たが、やがて静かに肯いた。


「わかった、キミ達を信じよう。多少のリスクで我々の夢が戻るのなら、賭けてみる価値はある」


 私は壁の時計を見た。


「まだ五時間ある。我々は橋の下調べと車の用意をします。あなたは私達が迎えにくるまで店にいてください」


「では、私はその間にレコード会社へ連絡を入れておこう。プロモーションの打ち合わせを延期してもらわねばなるまい」


「よっしゃ、そうと決まれば早いとこ始めよう。車は俺が何とかする」


 サムが部屋から出て行った。


 ブリュエット氏は、封筒を手に立ち尽くしている。


 私はドアを開けて振り返った。


「ブリュエットさん。私にも、私なりに夢見ていることがあります」


 ブリュエット氏が顔を上げた。


 私は深く息を吸った。


「バニヤーのいない世界です」

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